少し湯船を離れると、ゆっくりと肌に寒さが浸透してくる。膝から下を湯の中に突っ込んでいても、寒さのベールは静かに身体全部を包み始めて、表面を凍えさせてくる。のぼせかけたオレの身体も、暫くすると肉体の芯に届くような温泉の温もりを求め始めていた。

オレは再びに湯に浸かろうとゆっくりと身体を滑らそうと身を反らした瞬間、ばしゃっ、と派手な音が向こうでした。生け垣の高いところに積もっていた雪の塊が、自身の重みに耐えきれずに落ちたのだった。その瞬間は見逃したけれど、波立つ湯面と、反動で盛大に揺れる葉の数々が、その名残を浮かべていた。

そこまできっと明日菜ちゃんの手は届かなかったのだろうし、その下で軒並み戯れたのが、その結果に影響したのかどうかはわからない。でも、こぼれ落ちるほどひっきりなしに雪は降り続けている。これほどまでの量の雪を、オレは初めて見たかもしれない。

音のした方を、オレだけでなく明日菜ちゃんもじっと見ていて、塊が瞬く間に湯に溶けていく様子を最期まで見届けた。見終えると、こっちを向いて、温くなりそう、と真面目な顔をして言った。そんなワケないよ、と応えたけれど、本当にそうなのかどうか、オレにはよくわからなかった。

改めて体勢を直して、オレは再び肩まで湯に浸かった。幼い頃、肩まで湯に浸かりなさい、と散々親に躾られたけれど、未だにその理由がわからない。百まで数えたら湯を出ていいのは、ちょうど数を覚える練習になるから、いいのだろうけれど、今時湯冷めをする環境が何処にあるのだろうか?

それでも、決まって何処の温泉に行っても、まずは肩まで湯に浸かる。条件反射だ。そしてタオルを頭に乗せる。それは、ちゃんと理由があってのことだけど、その場所を頭に据えたのは、きっとテレビか何かの影響に違いない。

もうそれは、オレの温泉スタイルになってしまっている。その恰好が、一番心地よいのだ。

そうしていると、一瞬、オレはここが何処で、今日がいつで、今何が起こっているか、まったく忘れてしまうことがある。目を閉じて、何かを考えようとしても、スッと抜けていくような、闇が広がる感じ。普段はそういう場面に出くわすと、ネガティブな感情に包まれるのだけれど、なぜか温泉に浸かる時だけは、それこそが目的のような気がする。悟りを開きたいわけではないが、無に堕ちる瞬間を、心のどこかが求めている。

オレは目を閉じる。やっと保養に来た気がして、心が抜けそうになる、その耳元で、声がした。

驚いて目を開けると、明日菜ちゃんが目の前にいた。オレが伸ばした足に触れるか触れないかのところで、視線を合わすように姿勢を低くした明日菜ちゃんは、顔の半分を湯面から出して、こちらを覗き込むように見ていた。

何?とオレの口から突いて出た。一緒に露天風呂に入っているのだから、その問いかけはおかしいと言えば、おかしい。だけど、オレは未だに、彼女との距離を測りかねているのを、彼女自身が軽々と飛び越えてきたのに、オレは正直に驚いたのだ。

オレを見つめながら、彼女はブクブクと口元で音を発てた。子供みたいな戯れに違いないが、なぜだかその視線はひどく淫靡に光っている気がした。オレの心の底のプリミティブな欲望を、簡単に見透かされているような、笑っているような、睨んでいるような、絶妙な曖昧さで苛む、そんな視線を彼女は射ていた。

息が続かなくなって、彼女はやっと顔を出すと、そのまま転がるように湯の中で舞いながら、オレの隣にやってきた。そのままオレの真似をするように足を投げ出し、肩を並べて湯に寝そべった。といっても、それでもオレと彼女の間には、微妙な距離が空いていた。

こういう場合、きっと大人の役割として、突き放すにしろ、寄り添うにしろ、オレの方がリードすべきなのだろうけれど、例えば今まで付き合ってきた歳の近い女たちとは違って、もっとその意味が重い。ともすれば、犯罪とか、条例違反とか、そういうまるで温泉場とも愛の逃避行とも相寄らないステンレスのような響きが唸り始める気がする。

正直に、欲望だけに支配されたら簡単だと思う。

欲望だけが、そのステンレスに遮られた世界を打ち壊すことが出来ると、オレは長い間信じていた。そして、それに従って、生きてきた。でも、それは不可能ではないだろうけれど、オレにはその力がない、ということを、どこかで悟ってしまっていた。

力を行使する、資格、だろうか?

とにかく、オレたちの間を埋めるには、まだまだ長い距離がある。きっと、彼女は業を煮やしたに違いないだろうし、もしかすると何かの覚悟を持ってオレのそばにやってきたのかもしれない。でもまだ、オレはそれに応えられる術を探しあぐねていた。

 

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