だったらなぜあの時、その勇気がくじけなかったのだろう、とオレは考える。

あのどうしようもなく頭の悪い事件に、自らの手を汚すほどの、それほどまでに、強い自己肯定や、信念みたいなものがあったのか?それはどうも思い当たらない。

ではそうせざるを得ないほど、、あの女に未練や、心の底からの愛情を抱いていたかというと、そうは思えない。別れ話など、これまでにもいくらでも経験をしてきたし、正直に言えば、あの女よりも深く愛した女はいたはずだ。

それよりもきっと同じくらいの、いつもの別れ話だった。

だけど、今でもよく覚えているのは、一方的に別れ話を切り出されたその瞬間に、この話が終わって一人家に帰って潜り込む布団の冷たさが身に染みて、そこから始まりいつまで続くか分からない茫漠とした世界をやけにリアルに想像したのだった。それは、歳を重ね、それなりの恋愛経験を重ねたからこその、皮肉な結果だったかもしれない。

そんな、むなしさに包まれた諦めの世界を、少なくともオレはその時、耐えられないと思った。あの寂しさに包まれた世界に放り込まれるのは、もうごめんだと思った。

オレは元々、寂しさを受け入れるのが苦手だった。

大学時代、ライブの後、可能ならば必ずホールに楽器を置いたまま打ち上げに出かけた。打ち上げは朝まで続いて、その酔いを醒ますのに一眠りした後の昼過ぎに、またホールに戻る。二日酔いの頭で、オレはホールを掃除したり、なんとなく時間を過ごした。戻ってくる理由付けに、オレはホールのマスターに頼んで、楽器を置きっぱなしにしておくのだ。

ホールにはぼんやりと昨夜の熱狂の面影が残っていて、そこをいくらかはクールダウンを終えて正気の戻った頭で見渡し、昨夜と今を行ったり来たりする。それでも足らずに、近くの喫茶店に行って、ぼんやりと、なんとなく時間を潰した。

誰から言い出したのでもなく、その奇妙な儀式は、メンバー全部に伝搬して、いつしかなくてはならない翌日の恒例行事になった。

それはみな、あの熱狂のステージから降りた後の、波が引いていくような寂寥感を同じように感じていて、それを和らげようとする苦肉の策だった。それでも、怒濤のようにアドレナリンが沸騰するような世界とのギャップを、感じずには居られなかったのだけど、とにかく現実という退屈な世界との間に、緩衝地帯を確保したい、という願望があったのだった。

それは賑やかな夢の時間と、茫漠とした味気ない現実の時間との間に架かる橋のようなもので、そこを渡ることによって、オレたちは何かを諦めるのだ。

諦めのために、オレたちは橋を渡る。

本当はオレたちは、人生を熱狂の中に過ごしていきたい願望を持っていたのだろう。未だ未来に希望を持ち得ていた時代だったし、そういう年頃だった。そう望むことに無理はなかったけれど、それがある種の夢幻であることも薄々知ってはいた。

時代がそうさせるのか、オレたちがその場所を無くしたのか、とにかくオレはその橋の地図を無くしてしまっていた。渡るべき橋を見失って、オレは諦めを受け入れられなかった。それが結局、あの自棄に結びついたのだと、オレは今になって思う。

断言できるのは、それはその女に対する愛情の結果ではなかった、ということだ。

あくまでも、自分のために自棄になったのだった。離れてゆく女のことなど自分には関係なかったし、その女がどんな結末を迎えようとも興味はなかった。ただ、自分の諦念への恩讐にけりを付けたかったのだ。

自棄になるというフォール・スピードに身を任せることで、諦めというもっとも厄介な負の遺産を帳消しにしたかったのだ。橋を見失ったオレには、そういう方法しか思いつかなかったのだった。その落ちて行く先に、何があるのかは、だいたい分かっていた。

そしてもうこれで最後にしようと、強く望んでいた。

オレは自分で望んで、自分を終わりにしたかった。

もう生そのものを諦めたかったというのも、あながち嘘ではない。オレという世界が終わることを望んでいた。オレが終わる世界に、辿り着きたかったのだった。

情けないことに、結局は、終わる世界は終わらずに終わったのだけど、元に戻ったかというとそうでもない。

あれからずっと、まともに眠りについたことがない。どんなに疲れていても、ほぼ一日起きていた後で目を閉じても、一度は浅い眠りについて、そして夢を見始める。それがどんな夢でも、誰が出てこようが何処に行こうが、例えば目の前で明日菜ちゃん以上に見栄えのする女が足を開いて誘っていても、オレはそれを怖いと感じて、追い立てられるように目を覚ますのだ。

何が怖かったのか、判然としないのに、ただ動悸が激しくなっていて、身体全体を圧迫されたような不快感に汗が噴き出ている。目を閉じて現れる暗闇自体に、オレは恐怖しているような感じなのだ。つまり、眠りというものがそのまま、恐怖への誘いと同義になってしまっていた。

時々はそれ以上に、息苦しくなって、このまま死の世界に追いやられるような感覚さえ感じることもある。ゆっくり息を吸って、また吐き、それを繰り返しながら死への予感をやり過ごす。

不思議なことに恐怖が飽和して死が顔を出すと、今度は寂しさが襲ってきて、泣きそうになるのだ。生に執着はないけれど、このまま終わるのはなんだかもったいないとか、ただ寂しいとか。

そして、そういう吸い込まれてゆく暗く細い穴の向こう側にさえ広がっている、何とも言えない無表情な荒野に出逢うと、重い気分を数日間引きずってしまう。活きていく生理的なシステムに、信頼が置けなくなって、いつも事切れる瞬間を予感してしまう。

ぽっかりと穴の空いた闇の縁をぐるぐる回るような毎日を忘れるまで引きずり、完全に忘れた頃に、また舞い戻ってくる。その繰り返しだった。

とにかく、オレはもうすんなりとは眠れない身体になったんだと思う。

それが、罰といえば、罰なんだろうなと思っている。

 

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