「あのクルマ、雪の用意とかしてないでしょ」

背中を向けたまま、彼女はそう言った。確かに、チェーンもスタッドレス・タイヤも、なんの装備もクルマには載っていなかった。そもそも、年に一度、雪がちらつけば多少心が浮き立つ、という土地柄で、雪の装備をしている方がめずらしい。チェーンの備えぐらいはあるかもしれないけれど、雪が降ればクルマに乗らない、という方がずっと現実的に思える。

今朝、彼女をピックアップした時、空は多少曇ってはいて、季節相応に寒くはあったが、南に向かう高速を飛ばして山間を抜けても、雪の姿は見なかった。そもそも、そういう天候を予想もしていなかった。年初から何度か、雪のマークがネットの天気予報に乗る時もあったけれど、ことごとく裏切られて終わっていた。

もっとも、同じ日本でも、隣り合った県同士でも、海を跨げば気候も変わる。例えば、瀬戸大橋を渡って五分の岡山でも、山間は豪雪地帯だし、九州も福岡の方の気候は山陰の方に近いような気がする。四国より南にあるから暖かい、というのはあくまでも勝手な幻想に過ぎないんだろう。

そういう意味でも、四国という土地は、常夏の離島なんだな、と思ってしまう。特に香川は、ともすれば、日本が災害や社会不安で大騒ぎしていても、蚊帳の外から覗いているような感覚が常に漂っている。

香川に限ったことではないのかもしれないけれど、あの東北を大きな津波が襲った日、オレは出勤してきた女の子たちと控え室でテレビを見ていた。さすがにこういう日に、客はいないだろう、と話し合っていて、いつも客用の待ち合わせ場所に大きなテレビがあるから、そっちに移ろうか、と話していた時に、ボーイの一人が控えのドアをノックして、予約のお客さんです、と告げた。

何もこういう時に、とオレはその時に思ったけれど、暫くしてあの実感のなさを自分でも感じるようになると、案外オレでもその日にわざわざ予約を入れて、待ち望んでいたのであれば、たとえ風俗といえども、そっちの方が重要に思えるかもな、とそんな風には考えた。

それだけ災害や大きな厄災に無縁ののんびりした土地柄で、いくら日本の常識を唱えても、危機感の欠如はいかんともしがたく、当然のように怠惰を産む。そんな空の下で、オレたちは生活っていうものの壮大な歯車を回し続けているのだ。そんなオレたちが、雪の備えなどしているはずはない。

そもそも、彼女自身も、雪が降るとは思っていなかったはずで、丸亀にあるため池の近くの郊外型のショッピングセンターの駐車場で待ち合わせた時にも、ちょっと今日は曇っているね、と言ったぐらいで、それ以上天候の話もせず、ちょこんと助手席に収まったのだった。

オレは前日、旅の用意をしている途中に、ふと、彼女が助手席に乗る姿を想像して、悩み始めてしまった。それは些細な悩みではあるのだけど、ところで、彼女をクルマに乗せるとして、いったいどんなCDを持っていけばいいのだろうか?それだけのことで、オレはCDの並べてある棚の前を何度も行ったり来たりしたのだ。

昔から何かあってもCDだけは手放さなかったせいで、ずいぶんな枚数のCDが並んでいるのだけど、その中にオレが予想する、女子高生ギタリストが喜ぶような音は見あたらなかった。そもそも、彼女が喜ぶ音、好みのアーティスト、あるいはまったく知らないアーティスト、そういう情報が、オレの方にまったく欠けていたのだった。

何度も一緒にスタジオに入って、たまには大沼の家で逢うこともあって、それなりに会話は重ねていたはずなのに、肝心のことを聞き漏らしているような、根本的な部分が欠けているような気がしたのだった。

なにより、この旅に誘ったのだって、ただの気まぐれ、みたいなものだった。

今年の正月、年始の挨拶を兼ねてライブの打ち合わせに行こう、という理由を付けて藤木を誘った。藤木とオレは、まるで不倫の相手に会うみたいに恵子に見つからない場所で待ち合わせをした。

そこで、オレの車を見た藤木は目を丸くした。なぜなら、その車は藤木がいつも乗っているクルマと、まったく同じ年式、グレードで、色まで同じ黒だったからだ。何処にでもある大衆車で、国道を十分も走れば十五台はすれ違う、というぐらいありふれたクルマだけれど、オレはそのクルマを敢えて選んだのだった。

去年の年末までは、オレはメルセデスのワンボックスに乗っていた。ただそれは借り物で、元々は風俗店のオーナーのものだった。時々は店の女の子を乗せることもあるから、何かあっちゃ困るだろ?ということで貸し出されたのをずっと乗り回していたのだけど、店を引き払うのを機に返却したのだった。オーナーは、やるよ、と気前のいい話をしたのだけど、元々オレの身の丈には不相応な気がしていたので、断ったのだった。

そんな時、セッションが終わった後にいつも、メンバーの一人がやっている喫茶店で、反省会と称したただのくだらない世間話をするのだけど、もう恒例の馬鹿話に花を咲かしているところへ、遅れて藤木がひとりで顔を出したのだった。

ひとしきり話が盛り上がって、帰る時になって外に出ると、もう夕闇が降りてきていて外は薄暗かった。大沼は店を出て、いつもの調子でクルマのドアに手をかけたのだけれど、そこで異変に気が付いた。ヤツの車はドアハンドルに触れるとロックが解除されるタイプなのだけど、大沼が触れてもその時、ドアロックは解除されなかった。

何度やってもダメで、大沼はセカンドバッグに忍ばせていたキーを取り出し、そのボタンを押した時、ハザードランプを点滅させてロックを解いたのは、その車の隣に置いてあるクルマだったのだ。

その時、大沼の後ろで、藤木が声を上げて笑い出した。

「さっきここに着いてオレも驚いたんだけど、お前なんでオレと同じクルマに乗っているんだよ」

全くの偶然だったが、大沼と藤木は同じ年式の同じグレード、色も黒で、しかもこのご時世に五速マニュアル、というのまで同じだった。

それを見て、オレは知り合いの車屋に頼んで、やはり同じ年式、同じグレード、黒でミッション車、というものを探して貰った。二台で戸惑う大沼なら、三台並ぶと更に混乱するだろう、というのが、その理由だった。元々、クルマにはあまり興味はなかったから、そういうくだらない理由で充分だった。ミッション車、というのがネックにはなったが、見つけるのにそう時間はかからなかった。一ヶ月ほどで納車されたのだった。

その初お披露目がその年始の時で、藤木はオレの車を見た途端、その車を選んだ意図を理解したらしく、それならオレもクルマを出すよ、といって、わざわざ家まで戻って自分のクルマを持ち出した。オレたちは誘い合わせたのに、結局それぞれのクルマで大沼の家に向かったのだった。

大沼のクルマが置かれた駐車場の前に、敢えて行く手を塞ぐように並べた二台のクルマを見て、案の定、大沼は困惑したような、くだらないと言いたいような、複雑な表情で目を伏せたのだった。

 

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