結局、雅人と話した以上、美麗の家出の真相は聞けずじまいだった。何度か試みても、美麗は上手く躱してしまう。雅人を実に上手に使って話題を逸らすのだ。それは、やはり衝動だけがあって、プランも何もないことの裏返しだと、暗に訴えているようでもあった。

それにしても、雅人は美麗のことをよく見ているものだ、と感心する。その辺は、母親の性格を受け継いでいるようだ。千晴も、天然で呆けているようで、しっかり人間を観察している。それによって、口には出さないけれど、ちゃんと心持ちの動きや置き所に気を配っている。

それはボクだけでなく、周囲の者も感心する千晴の特技のようなものだ。人間への興味が尽きないのだろう、とボクは思っている。

しかし、だとすると、雅人が気づいたようなことを、千晴が気づかないはずは無いのだけど。案外、自らの血を分けた子供は、他人とはまた別なのかも知れない。

夜になってクルマで美麗の通う高校の近くにある、骨付き鶏の店で夕食をとった。そこでも、なんとなく美麗に尋ねてみたけれど、落ち着いたら話す、と言われただけで、簡単にはぐらかされてしまった。それ以上、ボクはきっかけもつかめないまま、話題は全く別の方向へ行ってしまった。

どうも美麗は、ボクをそうやって簡単に扱える存在としてみているような節がある。善い方に捉えれば、打ち解けているということなのだろうけれど、言いたくないことは言わないですむ、ってことなのか。それはどこまで行っても、当たり前のことだが、ボクは美麗や雅人の「友人」なのだ。

それにしても育ち盛りの雅人は、二人前のヒナを平らげ、美麗の残した半分も腹に収めた。大きくなるはずだ、とボクは感心する。美麗は見慣れているのか、そのことには何も言わない。

でも、テーブルを挟んで見る姉弟の姿は、アトリエではしゃいでいた頃と変わらない。そう思うのは、きっと二人とも、リラックスしているからなのだろう、とボクは思った。長澤くん、とボクを呼ぶ美麗も、雅人も、感覚は友人のそれで、だから家とは違う空気感を感じているのだろう。

ボクはそのことになんとなくホッとする。家族がどうであれ、この姉弟という絆があれば、そう間違った方向へは進みはしないんじゃないか、と思う。

それに比べて、ボクにも姉がいて、同じ様な関係性は構築できたはずなのに、随分と辿り着いた場所が違っている。やはり家族というものは、それぞれ色んな事情を抱えて、どれ一つとして同じ事がない。

それでも、小さい頃は、こんな感じに周囲に見えたのだろうか、と想像する。

ボクの姉は、美麗と同じで真面目で頭がよかった。父は余り姉には期待していなかったけれど、結局父の望みに一番近づいたのは、姉の方だった。しかし、姉もキャンバスではなく塑像を専攻した。そこだけは父親の望み通りとはいかなかったわけだ。しかしそれは、ボクとは逆の意味で、どちらかというと真摯に父に向き合った結果だと思う。

芸術家としての父親を越えることは出来ない、という判断があったのだと、ボクは思っている。父と姉は性格がよく似ているから余計にそう思うのだろう。距離感に戸惑い、人付き合いを苦手とする性格を受け継いでいる。つまり、同じ土台の上に何を重ねても、父親には敵わない、と姉はどこかで諦めたのだ。

それが、今はやはり父の後を継いで、美術教師をやっている。しかも、美麗の通う学校で、なのだ。

美麗のライブの時、受付の席に姉が座っているのを認めて、初めてそのことを知らされた。

「何やってんの?

ボクが尋ねると、アンタこそ何してんの?と訊き返された。

「月子先生って、長澤くんのお姉ちゃんだったの」

美麗は心底驚いていた。確かに名字は一緒だったけれど、まさか繋がりがあるとは思ってもみなかったらしい。

姉は高校では、月子先生と呼ばれて皆に慕われているらしい。正式採用の教師では無いので、その辺の気軽さもあるらしく、だから学校公認、という体裁を取り繕うために、ライブのスタッフとして駆り出されたということだった。姉の先輩が主催者の一人らしい。

「おまえ、昔姉さんにあのアトリエで粘土で遊んでもらったことあったんだけどな、覚えてないか?

そう美麗に訊いて初めて、なんとなく、と思いだした。姉の方がそんな事有ったかしら、と恍けた。

それは、毎回絵の具を撒き散らすだけでは、さすがに美麗達も飽きるだろう、と思ったボクのアイデアだった。ちょうど、姉が海外留学から帰ったばかりで、東京に拠点を移す前のモラトリアムのような時間を無為に過ごしていた。だから、姉に退屈しのぎに美麗達に粘土か何かでモノを作らせてやってくれ、と頼んだのだ。

面白そうね、と二つ返事で姉はその役を引き受け、ボクはカメラを構えて、粘土を前にワクワクする美麗達を眺めていた。

最初は、いつもとは違う手の感触にはしゃぎながら、姉に言われるまま粘土をこねていた。姉は、その頃まだアトリエに残っていた胸像のひとつを持ち出して、コレと同じモノを作りましょうと、美麗達を促した。

その辺から、徐々に空気は変わっていった。

雅人は胸像をじっと眺めて、何とか言われるように似せようと努力する。一方の美麗はすぐに飽きて、粘度をペタペタ、作る気もないまま、適当に転がしていた。それにも飽きて、雅人にちょっかいを出した。

「美麗ちゃん、こっちよ、ちゃんと見て」

姉はそういって美麗を咎めた。美麗は一度ボクを見、そして、いつもとは勝手が違うことを悟った。

今思うとそれは、家とは違う場所だったはずが、家と地続きの場所になってしまった、と感覚的に気がついたのかもしれない。

姉は優しい声音で、ほら、ここをこうして、と美麗の手を取って丁寧に教える。しかし、美麗も雅人も、そんな事を欲していたわけではない。そもそも、形を作ることに拘っているわけではないのだ。手触りや、自分達の感性を確認するのが、一番の目的なのだ。

しかし姉は、終始、ゴールに向けて美麗達を導き続けた。

結局、不格好な胸像が出来た、姉はそれでも褒めた。でも、美麗も雅人も全く嬉しそうじゃなかった。

頼んだボクが悪かった、と自分があまりシャッターを切っていないことに気づいて、やっと悟った。

そして、美麗達と姉の平行線を眺めて、ボクは自分と父親のことを思い出した。姉さんが本来ボクが引き受けるかもしれなかった部分を背負い込んだのだな、と思った。それを姉は望んだのか、或いは偶然、或いは自然だったのか。

幸い、姉は終始物事に無頓着な、よく言えばクールだが、計れない距離感は突き放すことで解決する性格になった。美麗達の前にも、それ以来現れることはなかった。

そんな風だから、ボクと姉の関係も、どこか父親のそれと似ていた。用がなければ、ボクは滅多に実家に寄ることもない。姉に関しては、ケータイの番号もメアドも何も知らない。お互い、我関せずで、ほぼ音信不通のまま、長い時間が過ぎていた。相変わらず独身なのは知っているけれど、そういう相手がいるのか、将来どう思っているのか、全く興味が湧かない。

それに比べて、美麗と雅人は、距離が密だ。もっとも、雅人の方の一方通行で、美麗は今でも時々、鬱陶しそうにはする。それも、年頃なら仕方がないかもしれない。

しかしその仕草は、ボクの知っている千晴、つまりお母さんのものにそっくりだった。

「美麗は、千晴みたいなお母さんになると思っていたよ」

ふと、ボクはそんな事を思い、それが口をついてでた。

その言葉には、二人共が、驚いたような、疑問符に満ちあふれた表情でボクを覗き込んだ。

「なんだ、お母さんみたいになるは、イヤか?

イヤじゃないけど、と美麗はそういって、雅人の方を見る。雅人も、美麗を見る。二人とも、それは今までに考えたことのない、問いだったのか、何とも言い尽くせない微妙な表情で視線を外した。その視線は、そのままボクを射貫く。

「ねえ、長澤くんはお母さんをずっと前から知っているんでしょ?

美麗の問いに、ボクは頷く。

「大学が一緒だったんだ」

「だから、そう思うの?

美麗は、若い頃の千晴が、今の彼女と同じだから、ボクがそう思っていると推測したらしい。

「何を考えているか表情だけでは読み取れないのは、確かにお母さんに似ているけどね」

いつもまでも家での真相をはぐらかすことに、幾らか嫌みを込めて言ってみた。すると、横から雅人が、茶化す。

「お姉は不思議ちゃんだもんな」

何よそれ、と美麗は雅人の二の腕を叩く。締まった筋肉質の腕が鈍い音をひらめかせる。

仕舞った、またはぐらかされてしまう。

今度は雅人が尋ねる。

「ねぇ、大学生の頃のお母さんって、どんなだったの?

それは今までに、幾度となく尋ねられた問いだった。しかし、今この瞬間に尋ねたそのトーンは、明らかに今までとは違っていることに気づいた。そういえば、ボクが初めて千晴に会った頃の年齢に、美麗も雅人ももうすぐなのだ。

ボクは大学時代、自分の写真集を自費出版した。自費出版と言っても、同人誌みたいなものだけど、撮り溜めたものを集めて製本し、学園祭で売ることを企てたのだ。

ただ、ボクはその頃、自分の写真にまったく自信を持てずにいた。写真を撮ることは好きだったけれど、出来上がったものに一度として満足したことはなかった。それでも、何か自分の中にある、モヤモヤしたものを解放するために、崖から飛び降りるようなつもりで勝負に出たのだが、それでも何か、足りない気がした。

それをボクは、文章で埋めることを思いついた。しかし、ボクには全く文才がなかった。その時に友人に紹介されたのが千晴だった。

千晴は高校生の頃から詩や、短い文章を書いていた。あくまでも趣味で、とそれをどこにも発表する気もなく、積み上げているだけだったのは、ボクと同じ様なものだった。そういうところで気が合ったのか、ボクの依頼を快く受けてくれたのだ。

ボクの選んだ写真に、千晴は文章というより、架空のキャプションを付ける感じで、言葉を添えていった。それを並べると、一見何も変化しない瞬間を切り取っているようで、ゆったりと物語が流れているような気にさせられた。美しい文章、というものにボクは初めて出会った気がした。

それは心地よい風のようなイメージだった。

バイトで貯めた金を目一杯つぎ込んで、キレイに製版したボクと千晴の本は、部数こそ少なかったけれど、全部売り切れた。加えて、その頃あった地元のタウン誌に取り上げられ、それが少し大きな出版社の目にとまった。

写真の点数を増やし、それに合わせて千晴も言葉を継ぎ足した写真集は、全国の書店に並んだ。それは少しだけ、注目を浴び、二冊目が刊行されることになった。それは一冊目ほどではないけれど、いわば素人が作った写真集にしては、それなりに売れもした。

ボクはそれを足掛かりに、写真家として活動する覚悟と淡い夢を思い描いた。そこには千晴の文章は無くてはならず、ボクはその為に写真を撮るようになっていた。

ボクは千晴を相棒として、深く信頼することになった。

でも、そこまでだった。卒業がその視界に入ってくると、千晴は教師になるから、といってあっさり引退を表明した。ボクの説得にも耳を貸さず、だって私そんな気ないもの、と手をふって返すと、採用試験の方に軸足を移してしまった。

ボクの覚悟と淡い夢は、宙ぶらりんとなり、結局ボクは替わりを見つける気にもならず、かといって就職活動に移る気にもなれず、もう二年のモラトリアムのつもりで関西の写真の専門学校に進んだのだった。

ただ、作品を作る事はなくなっても、千晴との付き合いはなんとなく続いた。ボクにはまた、写真集を作る、という下心があったはあったのだけど、熱意というものから離れると、通い合う何かを千晴には感じていた。千晴にもおそらく、なぜにそんなに惹き合うのかわからなかったのだろうけれど、ボクらは着かず離れず、連絡を取り合っていた。

ボクがこっちに戻ると、お互い家が近いこともあって、顔を合わせることも多くなった。そのうちに千晴は結婚し、美麗達が産まれた。

男女の間に愛情より優先する友情があるのかどうか、ボクには判然としないけれど、なんとなくボクらは気が合う、という一点だけで、互いの存在を据え置いておいたのだ。ボク自身、友人を作るのが下手で、千晴も似たようなものだ。それはボクらの拭いがたい資質だ。それを自覚しているボクらにとって、気が合うというのは、貴重な存在なのだ。だから着かず離れず、ボクらは互いを気に掛けているのだろう。

それよりはずっと、美麗や雅人は、日常という現実を前に、上手くやっていると思う。雅人も美麗も、ボクが同じ年の頃より溌剌として輝いている。友達も多そうだし、彼等と日々、笑い合っている雰囲気が伝わってくる。

あの美麗のライブも、本当に楽しそうだった。

ただ、それは千晴も同じ事が言える。子供がいない頃より、今の千晴の方がずっと、逞しく生気に満ちあふれているのは間違いない。元々、線の細い彼女が、赤ん坊を抱く姿をボクは想像できなかったのだけど、それが現実になると案外枠に嵌まって違和感がなかった。そうやって現実がアップデートされ続け、今は立派なお母さんになっている。

ボクはその折々を写真に収めながら、いちいちそのことを確認していた。

そうやって例えば美麗もそのまま大きくなれば、大丈夫な大人になる気が、なんとなくするのだ。

それは半ば、確信に近い。理由はよくわからないけれど、ただそう思う。

そしてその節目も、ボクは出来れば丁寧に見守っていたいと思う。

「美麗と同じだよ」

「どんな風に?

畳みかける美麗に、ボクは笑ってはぐらかした。言葉で説明しようとしても、上手く出来ないのはわかっている。

美麗もそれ以上聞かなかった。いつものことだと、わかっているのだろう。

今まで幾度となく問われたその答えに、ボクは一度もちゃんと答えたことはなかったのだった。

 

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