ボクの父親は、簡単に言ってしまえば、人との距離を図るのが苦手な人間だった。それが、我が子でも、違う価値観で動き出す生き物との付き合い方を掴むのに、時間がかかるタイプだった。

強い意志と衝動を持って表現の世界に生きた人だが、その発露をコントロールする術を弁えていた。表現者としては破綻せずに商業的に最も成功するタイプだが、その抑制が方向性を見間違えると、父親のようになるのだろう。

元々家庭のことは母親に任せきりで、しかし、自らの思い描く未来は持っていた。そのゴールに納まるように、直接子供のボクらにではなく、母親に託していた。託していたといえば聞こえはいいが、要は押しつけたのだ。もちろんだからといって、母親に無理を強いたつもりは無いのだろうけれど、子供のボクらからしてみれば、だったらちゃんと自分の口で言えよ、ということになる。

タイミングを計っていたのかもしれないけれど、それは果たされなかった。多感な子供の時間というスケールは、結局父親には上手く飲み込めなかったのだろう。

画家だった父は、ボクを自分と同じ画家にしたかったらしい、とは結局亡くなった後に聞いた。だから、自分が思い描く子供の行き方道しるべを想定し、それをそのまま希望としてボクの前に並べておいたらしいのだが、それはあくまでも父の希望でしかなかった。

ただ並べるだけで、無理強いのような、そんな風ではなかった。或いはスパルタのような、そんな類いだったらボクは否応なくその思いに乗っかったかもしれなかったし、或いは歴然と反発できたかもしれない。父親はそのどちらのタイプでもなかった。

ボクは、父親のその望みを早い内から知っていた。小さい頃は、そうなるんだろうな、ぐらいのことは思っていた。でも、そこに何か強く惹かれるものがあったのかと問われると、そうではなく、ただ父親の背中がそこにあるだけだった。

父は滅多に家庭の中でボクらとは顔を合わさなかったけれど、たまに食卓を囲んだ時でも、例えば将来のことを話題に出すことはなかった。学校の様子を尋ねたり、成績がどうとか、ごくありふれたことに終始し、後はだいたい自分の話だった。今度どこで個展をやるとか、海外に赴くとか、そんな類いのことだった。

それは父特有のコントロールの結果だったのだろう。しかし、名を上げ功を成した父親の時間はゆったりと流れていたけれど、ボクらの時間は急速に変化しながら成長という名の激流を走っていた。

少しずつ、ボクが歳を重ねていく毎に、話題がズレていくのが目に見えてわかった。学校の話題といってもなんだか微妙な空気がそこに産まれ、逆に父親の個展の話や賞を取ったというような話は、遠い何処か別の世界の話に聞こえるようになった。

終いには、余り自宅には帰ることなく、アトリエに籠もるようになってしまった。

結局、彼は何も語らず、ただ、ボクの目の前に、自分という道しるべを並べるだけだった。

父の希望に添うことだけでなく、強く望む何かを、ボクは自分の中に見いだすことが出来ないまま、歳だけ取っていった。高校入学のお祝いにカメラを買ってもらって、それだけが進路を決める時の拠り所になった。だけど、それを表現や、芸術のようなものに繋げる、それほどの意欲と言っていいものは結局見いだせなかった。カメラを持って仕事が出来ればいいな、ぐらいの感覚しか、ボクの中には無かったのだ。

それで結局、ボクの成績で入ることの出来た地元の大学に進んだ。その時点で、姉が既に、芸大に入っていたこともあって、誰からも失望されることはなかった。後から聞いた話では、父親は幾らかがっかりした、と漏らしたらしいけれど、ボクに面と向かってそう言ったことはない。

言えば何か変わったのか、といわれれば、わからないけれど、振り返れば、結局、ボクは父親に何か言われた記憶が皆無だった。

何かを与えることも、何かを得ることも、ふと気づくとお互いにしていなかった。

振り返れば、ボクは父に、父はボクに、どこかおっかなびっくりで接し続けていたのだ。着かず離れず、距離を詰めることも突き放すこともなく、その距離を測ることが出来ずに、ボクらは親子という形式を、ただ守ったに過ぎない。

画家としては、かなりの評価を得、晩年は学校の美術教師という役割を与えられ、生徒にも慕われた。自分の世界の中では、充分に満ち足りた時間を過ごしたはずだ。しかし、その外側に流れている、時間や空間には結局最後まで、付き合うことが出来なかったのだと思う。

最後は盛大で、多くの参列者の涙の中に送られていった葬式だったけれど、ボクはそれを他人事のように眺めていた。父親というその存在が、辞書に載っている箇条書き以上のものを残さなかったような気がした。

それは考えすぎのような気もするけれど、案外父親が最も苦手にしてのは、ボクだったのではないか、と最近思う。ボクらは結局、お互いに苦手なタイプ、という程度の親子関係で終わってしまった。

それがそのまま、美麗に当てはまるかどうかはわからないけれど、傍観者として見ている限りに於いては、同じように思える。おそらく父親の思い描く、美麗の未来は、それが当たり前すぎて、別の道を想定できないのだろう。当たり前だから、無理強いしているつもりもない。

でも、その当たり前が、美麗には息苦しく感じるかもしれないのだ。

感性は人ぞれぞれで、果たしてどちらが間違いかなど、誰にも決められない。ただ、そのことを受け入れるかどうか、あらかじめ自分の予想の中に含ませておくかどうかで、その期待値は変わってくるに違いない。

それを単純に、反抗期、というのはどうもピンとこないけれど、しかし衝動としての理由には十分かもしれない。

「反抗期、って随分と遅いな」

ボクがそう言うと、雅人は何度も頷いた。

「お姉はね、我慢強いからいつも飲み込んじゃうんだよ。だから周りの人には、本当のことが伝わらないんだよね」

お姉もサッカーやればいいのに、と雅人は付け加え、アイコンタクトに関してひと講釈ぶった。サッカーの戦術は高度に発達した感性の鍛錬からしか培われない、のだそうだ。その中でも、瞬間にちゃんと意志を伝える事が出来る。それは鍛錬というより、関係性の構築に関わっていると。そして結論めいて、何事も経験だよ、と偉そうにボクを諭した。

それを聞きながら、美麗がサッカーボールを追いかけている姿を想像する。小さい頃から頭の良かった美麗だけど、当然のようにスポーツは苦手だった。反射神経というようなものに自信がなく、だからゲームの類いも雅人ほどには手を伸ばさなかった。机に座って携帯ゲーム機を操作する横で、美麗は同じように机に座って本を読んでいた。

その美麗が、人前で歌を歌う姿も、サッカーボールを蹴る姿も、ボクにはピンとこない。でも、歌に関しては、彼女はステージの華として立派に咲いているのを、ボクは目の当たりにしたのだ。

やはり、口には出さないけれど、衝動というようなものが美麗の中にも、燻っていたのだろうか。

そういえば、とふとボクはライブの時の美麗を反芻する。

美麗の尊敬する先輩ギタリストというのが、キレイな黒髪をなびかせて、どこか超然とした雰囲気を周囲に撒き散らしながら、しかし、エモーショナルなギターを奏でていた。それは、世間のヒットチャート以外に音楽を知らないボクにも、何かを受け止めようと集中を強いるような、どうしようもない説得力があった。

その前で歌う美麗は、ただただ必死そうに見えた。ボクにはそれでも充分、驚きをもたらすのだけど、でもそれが衝動の裏返しか、違った形の発露か、いずれにしろ美麗の中にやはり渦巻く感情というモノを滲ませていたのだと、今になって気づく。

とすると、やはり千晴のいうように、あのライブがすべてのきっかけなのだろう。美麗はあのステージの上で、何かに気づいたのかもしれない。

ただ、気づいた結果が家出、というのは美麗にしては短絡的だ。行動が言葉より優先するのは、やはりまだ子供なのだな、と僕は幾らか安心をする。

でも、言葉にできないのは、美麗にとってもストレスだろう。だから、家出なのか?

「別に大学行っても、っていうか、音楽やりたいなら大学で四年間好きなだけすればいいだろ?

雅人は頷いた。頷いて、少し何か考えて、すぐに首を横に振った。

「あれだよ、あれ、今お姉にあるのは、大学に行かない、っていう行動だけなの。それがすべてなの」

なんだよそれ、といいながら、なんとなくボクにもそれはわからないでもない。持て余した衝動を、何か行動でねじ伏せようとする時、人はどうでも好いことに拘ってしまうモノだ。

「大学行かない、っていうと当然、あっそう、ってはならないだろ?それが、お姉の目的なんだよ」

「なんだよ、それじゃ、お父さんと喧嘩したいだけじゃないか」

急に雅人はボクの方に指さす。

「そう、それそれ」

呆れたように笑うボクを見て、雅人は得意げに鼻を膨らませて見せた。

「はた迷惑な話だ」

「ホント、はた迷惑」

ボクと雅人は声を合わせて笑った。その時玄関の呼び鈴が鳴り、ガラガラと引き戸を開ける音がする。

「お姉だ」

雅人は、弾かれたように椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。

 

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