「長澤くん、ひさしぶり」

自転車に乗ったガタイのいい男が、野太い声を出して門の前に立っていた。土曜日の午後三時を過ぎてもまだ陽は高い。その日差しを浴びて、すっかり小麦色に染まった顔に汗を浮かべて笑う雅人は、見違えるように逞しくなっていた。

ボクは少し彼を見上げながら、ひさしぶり、とだけ応えた。自然と顔がニヤけているのを自覚する。

夏の日差しが辺りを焼いている。ボクは少し視線を上げただけで眩しくなって目を細めた。

美麗は母親に似て小柄で、だが顔立ちは父親に似ていた。一方の雅人は、誰に似たのか背が高く、筋肉質で、しかし聡明な線の細い千晴の面影がその表情には漂っている。それがボクにはなんだかアンバランスに見えた。それでも、女の子受けする所謂イケメンで、実際中学の時から随分とモテているらしい。

「お姉は?

雅人は美麗のことをお姉と呼ぶ。そして、美麗も雅人も、ボクのことを「長澤くん」と呼ぶ。千晴がそう呼ぶのを、幼い彼等が真似して、それ以来ずっと変わらない。

ただ、父親の前ではそう言ったことはない。一度だけ雅人が父親の前で、ボクのことを長澤くん、と呼んだ時があった。

「くんじゃない、さんだろ」

父親はそう言って強く叱った。まだ美麗も雅人も小学生だった。いいんだよ俺には、と助け船を出したけれど、父親はお構いなしに雅人を責めた。結局、雅人だけでなく美麗もその日一日、しゅんとしたままだった。もっとも、父親の姿が見えなくなると、すぐに元に戻ったし、千晴も何も言わない。

ボクもその方が、心地よい。別に悪い気はしないのだ。

「今ゆめタウンに行ってるよ。服、買いに行くとかなんとか」

美麗は家出してきた、とハッキリ自分では言ったのに、着替えを用意するとか、準備は全くしていなかった。かなり衝動的に、家出を敢行し、その逗留先に思いついたのが、ボクの家だったわけだ。

とはいえ、ボクの家と彼女の家は、電車で通うような場所でもなかった。隣町だが、車で行けば十分ほどで着く。歩いて帰る、といってもそう無理な距離ではない。

ボクの家は、住宅街の一角にはあるけれど、最近近くに大きなスーパーが建ち、そこに繋がる市道が整備されて、急に賑やかになった。一方の美麗の家はその開発からは少し外れた、閑静な場所にある。父親の才覚か、かなり大きな二階建ての家を建てて、そこに暮らしている。

「呑気なもんだな」

軽い調子で愚痴を言いながら、雅人は自転車を押して、門の中に入る。門といっても、スチール製の柵が内側に開くだけの簡単なものだ。そこを潜ると、小さな庭があり、反対側に開けて駐車スペースがある。そこにボクの年代物のハイラックスが置かれてあった。

その脇に自転車を立てかけ、玄関の戸を開ける前に、すぐ隣にある部屋を覗き込んだ。

玄関の隣には、地面の続きをガラスサッシで区切っただけのスペースがある。まるで昔の八百屋か何かの店先のように、窓を開放すれば庭と高さが変わらない。そこにフローリングの床を申し訳程度に敷いてある。家具というようなモノは、あまりないけれど、背の低い棚や埃を被った椅子などが無造作に置いてある。所々が何かが滲んだように汚れており、お世辞にもキレイとは言えない、煤けたような部屋だった。一見すれば、地下室がそのまま地上に浮かび上がったような、そんな奇妙な空間だった。今は戸を閉め切り、カーテンですべてを覆い、滅多に開くこともない。その奥の小さなスペースを暗室にしてるぐらいで、部屋としての機能は沈黙している。

ここは、元々ボクの父親がアトリエにしていた場所だ。その部屋はまさしく、絵を描くための部屋、といったものだった。

ボクの父親は画家で、この家自体も、創作のために建てた別邸だった。本宅は別にあり、そこには今、母親と姉が残っている。父親は十五年ほど前にあっけなく亡くなった。葬式が終わってすぐ、ここは記念館にしようとか、そういう話があったけれど、ボクが住むことにしたのだ。

アトリエが主だったので、その二階に申し訳程度に居住空間を誂えました、というような、腰を据えるには不便な作りになっていたけれど、馴れればその不便さも、何とかなるものだ。特に一人暮らしなら不自由はしない。

「なんだか古くなっちゃったね」

カーテンの隙間から中を覗いて雅人はそう言った。

そうか?とボクも一緒になって覗き込む。昔はここに、イーゼルに掲げられた描きかけのキャンバスや、筆や絵の具や、何かよくわからない道具が渾然一体となって納まっていた。父親の職場だから、そう多く訪れた記憶はないのだけど、それでも、確かに今のガランとした印象とは違っていた。

ただ、ガランとさせたのはボク自身だ。ボクは余り父親のことが好きではなかった。この家だって、父親が制作だけのために作ったのかどうか怪しい。なぜこんな住宅街の真ん中に立てたのか?

だから、ボクがここに住むようになって、少しずつ、アトリエにあるモノを片付けていった。なるべく二束三文で片付くように、作品で寄贈できるモノは寄贈して、後はフリーマーケットなんかで売り払った。

「元々こんなだよ」

「そうだったかな。俺、もっとここでいろいろ見た気がするけどなぁ。ここはさ、俺とお姉にとっては、ワンダーランドだったんだから」

まだ美麗が小学校に上がるか、上がらないかの頃は千晴はよく、ボクのうちに遊びに来ていた。彼女は主婦の傍ら、地元のタウン誌やフリーペーパーに短いコラムを書くアルバイトをしている。それを始めたのが、雅人が幼稚園に入った頃だ。

子供達が長い休みになると、世話に手を取られる。それをボクに押しつけるために、二人を連れて家に来ていたのだ。

千晴が二階の部屋でノートパソコンの前で記事をまとめている間、ボクはこの旧アトリエにビニールシートを敷き、イーゼルにとりのこ用紙を貼り付けた板を置き、その周辺に、水性絵の具の瓶を並べる。雅人や美麗には少し太目の筆を持たせて、そこに絵を描かせたのだ。

最初の内、彼等は何かを書こうとする。美麗は真ん中に、雅人は恐る恐る端の方から、形を求めて線を引く。引き始めても、その線は何時しか行方を失って白い紙の上を彷徨う。すると、美麗の線と雅人の線がぶつかり、重なる。すると決まって美麗は、雅人の線を邪魔しようと、筆を紙に叩き付ける。絵の具が跳ね、それは絵から模様に変わる。雅人が真似をする。更に絵の具は四方に散らばる。

紙の上だけではない。絵の具は床に敷いたビニールシートの上に散らばり、雫はさらに美麗や雅人の顔に降りかかる。青色が赤みを帯びた美麗の柔らかい頬の上に丸く斑点を作る。今度は美麗の番だ、力強く打ち付けた筆は、赤い飛沫を雅人に向ける。

その顔を見合って二人は笑い合う。すると、スイッチが入ったように二人の行動はエスカレートしていく。

紙の上だけではなく、二人がいるその空間そのものが白く自由なキャンバスになるのだ。

当然のように彼等の手や足は、絵の具で汚れ、紙の上にもそして美麗の服にも、雅人の背中にも、小さな手形がいくつも重なる。

はしゃぐ声と、派手に板の鳴る音、そして雫の撥ねる音。子供達が奏でる協奏曲だ。

板の上には、二人の軌跡がきっちり刻まれている。

ボクはその様子を、一心不乱にカメラに収めていた。

普段、広告のための無機的な写真ばかり撮っているボクにとって、それは全くの趣味だった。でも、美麗と雅人の弾けるような笑顔は、目が眩むぐらいの輝きを放っていた。

仕事が一段落付いた千晴が二階から降りてくると、決まって呆れた声を出す。最初は汚れた服を気にしたが、二度目からは子供用のカッパを着せたりするようになった。

それでも、一切咎めたりしない。放任したままだ。その後、絵の具を落とすのは彼女の役目だけれど、はしゃぐ姿を目の当たりにして何も言わない。

一度ぽつりと、本当に漏らすようにこう言ったことがある。

「家じゃね、こんなに笑わないのよ」

それが彼等の父親のせいだということは、ボクにもなんとなくわかった。たまに千晴の家に行くと、キレイに掃除され、子供部屋もきちんと整理されてまるでモデルルームに来たようだった。キャラクターの付いた勉強机や文房具、マンガの類いがあっても、それは本棚やペン立てにキレイに納まり破綻していない。もちろん壁に落書きの類いなどあるはずはない。雅人に至っては、携帯ゲーム機を、絶対に勉強机に座ってそこでしかしない。床に寝転がって本を読む、なんてことすらなかった。

だからなのか、美麗も雅人も何かあるとボクの家に行きたがるのだと、千晴が言ったことがある。

その頃撮った写真の何枚かは、まだボクの部屋に飾ってある。ほとんどは千晴に渡したけれど、何枚かはボク自身が引き延ばし、額装している。

美麗が中学に上がると、絵の具で遊ぶことはなくなった。それからそれぞれの、新しい場所を見つけたのだろうから、それも仕方がないことだと、ボクは寂しさを紛らわせた。

それでも時々、家には遊びに来て、今度はとりとめのないことをボクに語って聞かせるようになった。そのボキャブラリーで、ボクは子供達が成長していく姿を知る。美麗は早くから漢字が読めるようになって、途端に世界が広がっていく。雅人はお姉ちゃんに負けないよう、という一心で、冒険を繰り返す。そのエピソードの一つ一つが、ボクには興味深かった。

それも高校生になると、頻度がパタリと減った。今度はボクが千晴の家に赴くことの方が多くなり、しかしそれも、昔に比べれば、数はかなり減っていた。

「懐かしいのか」

うん、と雅人は即答した。ボクはそれがなんとなく、嬉しかった。

「ああ、そうだ、これ」

雅人は無造作に学校の名前の入ったスポーツウエアの尻ポケットから、小さな封筒を取り出してボクに差し出した。

受け取って中を見ると、一万円札が二枚、入っていた。

「母さんから」

ボクは慌ててその封筒を押し返す。

「受け取れないよ」

「いや、お姉が世話になるからさ。好いんじゃないの、受け取っとけば」

それを受け取ると、本当に数日かそれ以上、美麗を預かるハメになりそうな気がした。

「それほど俺は財布の中身に困ってないぞ」

「好いじゃないの。長澤くんが受け取らないなら、俺がお小遣いにするだけだけど」

雅人や美麗がいくらお小遣いをもらっているのかは知らないけれど、臨時収入にしてはちょっと高額な気がした。

「預かっとくだけだぞ」

ボクは封筒をやはり七分丈のズボンの尻ポケットに仕舞った。

 

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