「お宅のお姫様、ウチにいるんだけど」

ボクがそう言うと、電話の向こうから息が滑ったような小さな笑い声が聞こえた。なるべく、不機嫌な雰囲気を込めてそう言ったつもりだったけれど、上手く伝わらなかったらしい。

「あら、そう」

軽い調子が、更に加わった。そして、また、笑みの含んだ空気が漂ってくる。

「あらそう、じゃないよ」

手を替えて、少し悲壮感を出してみた。しかし、相変わらず、簡単にボクの言葉は流されていく。

「何があったか、聞いた?

「一応ね。詳しくは話してくれないけど、家出したって」

もう一度、笑いの混じった息づかい。今度はハッキリと、笑っているのがわかる。

「まぁ、アナタの所なら安心ね。二、三日、泊めてあげなさいよ」

他人事みたいに言うなよ、とボクは幾らか語気を強めた。

その時、気が付いた。ボク自身が、今の事態を、そう深刻には捉えていないのだ。そういってよければ、それはいつもの調子だった。また、遊びに行くよ、とか、そういう感じ。

それも仕方がない、といえば仕方がない。ボクと千晴はもう、大学の時に知り合ってから、二十年以上の付き合いになるけれど、ずっとこんな調子だったのだ。それが突然、変わるわけがない。

更に言えば、千晴もボクを、ボクも千晴を、他の誰かよりは幾分、その為人の輪郭を知り尽くしているのだ。

所謂、腐れ縁、とでもいう仲なのだ。

しかし。

「いくら何でも、女子高生を独身男性の家に泊めるわけにはいかないよ」

「イヤだわ、あの子ならいいじゃないの。いくらアナタだって、美麗には手を出したりしないでしょ?

確かに千晴との二十年の間には、彼女の娘である美麗の誕生という出来事も刻まれている。千晴は職場で知り合った男と結婚し、三年後に美麗を産んだ。そのまた二年後、弟が産まれた。その折々を、ボクは友人として見続けてきた。家族という惑星の衛星のように、周囲をグルグルと周りながら、でも貌はいつも千晴達家族の方を向いていた。

当然だが、その距離感は子供達にも伝わる。

お母さんの仲のいいお友達。家に来る時は、お土産を買ってきてくれて、時々は一緒に遊んでくれる大きなお友達。幼い頃にそう刷り込まれて、成長して自分達により身近な友人が増えていっても、ボクは中心に近いところで、未だにぐるぐる回っている。

ボクにとってその距離は、友達の子供、というよりはもっと甥っ子姪っ子のような、感覚に近くなっている。おそらく、向こうだってそう思っているのだろう。もっとも、ボクには実際の甥っ子や姪っ子はいないので、あくまでも想像でしかないのだけど。

しかし、だ。

「世間体ってものがあるだろ?

アハハハハ、と今度こそハッキリと、千晴は声を出して笑った。しかし、その呑気さは変わりようがなく、事も無げにもう一度、こう言った。

「一日か、二日ぐらいすれば、あの子も気が済むでしょ。面倒見てあげてよ」

「俺はかまわないさ、でも、ほら君んとこの・・・」

ボクは口ごもる。彼女の夫、つまり、美麗の父親のことをイメージすると、ボクはいくらか緊張する。ボクと千晴の歴史の中に、その存在は大きく関わっているにも関わらず、未だにその関係の中にしっくりとこない、何かを抱えている。彼はボクのことを、美麗の男友達として、礼儀を持って接してくれている。子供達の遊び相手として、信頼もしてくれる。しかし、そのこと自体が、どこか余所余所しいのだ。それは同じように、ボクの方の接し方にも影響してくる。

ボクは余り友人づきあいが得意ではない、と自覚している。千晴はそんなボクにとって、数少ない例外の一人だ。心置きなくなんでも話せる友人は、千晴が最も最初に浮かぶ。そのパートナーであるはずなのに、ボクはやはり自分の他人との接し方の不器用さを際立たせてしまう存在なのだ。

彼はボクが今までに付き合った男の中では、あまり居なかったタイプだ。真面目で、常識を弁えた人物、とでもいったところか。そういう男は、未だ独身で、かといって夢もなく、ただ淡々と日常にふらついているボクの人生の中には、接点はあっても一瞬触れる程度で、長続きはしない。

その現実の如く、ボクは千晴の家族四人と行動を共にしたことはあまりない。いつも千晴と子供二人、そしてボク、というカップリングだ。街を歩くと、それで家族だと間違われる。外側から、他人の家族の実情など見えないのだ。

ボクらはあくまでも、友人同士なのだ。

それでも。

「アナタの所なら大丈夫よ。私もそれなら上手く説明できるし。今はね、ちょっとあの人と美麗、距離を置いた方がいいのよ」

「お父さんと喧嘩したって?それは美麗から聞いたよ」

うん、と千晴はいくらか困惑したような声を出す。

「あの人と、美麗があんなに言い合いするなんて、初めてのコトよ」

その詳しいところは未だ聞いていないけれど、進路のことでやりやったらしい。だから、千晴の言葉は頷けるのだけど、ボクにはその後の展開に戸惑ったままだ。

「とにかく帰すのは酷だとは思うけど、泊めるっていうのは無理だぜ」

まぁ、そうね、とやっと幾らか千晴は考える。

「ならば、雅人をそっちによこすわ。二人ならいいでしょ?

雅人は美麗の弟だ。美麗とふたつ違いの高校一年生。

「ちょうど今日から夏休みよ。学校のことも気にしなくていいから、ちょっと夏休みの旅行気分で、預かってよ」

それでいいでしょ、と事も無げにボクに押しつけて、結局、ボクはその提案を受け入れた。

そうか、今日から夏休みか、とボクは思う。

知らぬ間に今日の予定を決められた雅人はサッカー部に入っていて、今は学校で部活中らしい。サッカーに夢中になってからは、ボクと顔を合わす機会も少なくなった。千晴の家に遊びに行っても、夕刻帰宅しているのは美麗だけで、雅人は夜遅くまで練習に明け暮れているのだ。

その雅人の顔を見られるのは、少し惹かれる。

結局、その辺を見透かされたのか、そのまま煙に巻かれそうだったけれど、ボクは慌てて、質しておくべき事を尋ねた。

「で、何があったの?

うん、まあね、と応えた千晴は、やっと幾らか深刻そうな溜息をついた。その声の調子は、先程と異なり、重い澱が滲んでいる。なるほど、千晴自身も、その厄介ごとをカラ元気で乗り切ろうとしていたのか、と気づく。或いは、美麗の行動は千晴の想定内だったのか。

「あの子ね、大学行かない、って云いだしたのよ」

美麗は今、受験生。来春卒業し、進学する、予定だったはずだ。家から通える地元の国立大学を志望している、とボクは理解していた。それを聞いたのは、確か、この三月、春休みに美麗が歌うバンドを見に行った時だった。

彼女が学校で一番尊敬する先輩の卒業ライブだった。その先輩というのが、なかなか見栄えのする立ち姿の女性ギタリストで、その歪んだ音に負けないぐらい、美麗は精一杯の歌声を響かせていた。美麗にそんな才能があるのを、ボクは初めて知った。

美麗はボクに、ライブの写真を撮ってほしい、と強請った。ボクはコレでも、一応写真を生業にしている。

彼女達の成長を、ボクはその都度、カメラに収めていた。それは全く商売とは違うところで、ボクの個人的なコレクションに過ぎなかった。その被写体に、少しずつ成長していく子供の姿というのは、他のモノには替えがたく輝いていた。

美麗達も、ボクの前ではかしこまることなく、日常の顔を見せてくれる。それも、幼児の頃から今に至るまで、全く変わりがない。

その延長線上で、自分の晴れ姿を撮ってほしい、ぐらいの気軽さだと思っていたけれど、実際はなんだか立派なステージで、テレビで見る顔もあったりして、ちょっとした話題のステージだった。ボクは美麗だけでなく、ライブ全般を写真に撮ったのだけど、それが意図せず、週刊誌にちょっとしたスキャンダルめいて載ったりもした。

そんな中で、美麗はちゃんと自分の足で立っていた。他の誰にも負けず劣らず、立派にステージの中心で存在を誇っていた。ボクは正直、その美麗に一番驚いていた。

元々、千晴も含めて、そういう華やかな世界には無縁の、どちらかというと堅実でごく普通の家族の長女だった。それは彼女の父親がそういう家庭を望んだ結果なのではないか、とボクは感じていた。

彼女たちの父で千晴の夫は、元々高校の教師で、今は教育関係の役所でなかなかの地位にある。千晴もごく短い間だったけれど、国語の教師をやっていて、それが縁で二人は知り合い結婚した。だからといって、教育熱心な様子もないのだけど、それなりに子供達の進むべき道を、思い描いてはいただろう。そのレールに美麗達を乗せよう無理強いしているようには見えなかった。代わりに、家族の空気、みたいなものでその堅実で道を逸れない将来へ続くレールを、しっかりと築いている気がした。

それに違わず、美麗は順当に成長していったはずだが、今時大学に行かない、という選択は想像もしなかったのか。

「ねぇ、アナタ、美麗が出たライブ、見に行ったんでしょ?

唐突な話題に、思わずボクは返答のタイミングを失した。

美麗はそのライブのことを、家族には秘密にしていた。お母さんには絶対にいわないでよ、と強く言われてボクはライブのチケットを受け取った。当然、そのすぐ後に千晴にはバレるのだけど、それで何か揉めたのかどうかはわからない。ただボクは、アナタ美麗が歌っているところ見たんでしょ、と嫌みを込めて千晴には言われたのだ。それが、秘密を共有していたことを責めたのか、美麗の晴れ姿を見逃したことに対してなのか、ボクにはわからなかった。

「あれが何か関係あるの?

「よくわからないわ。でも、それがきっかけのような気がするのよ」

「大学行かないで、バンドか何かやって東京にでも行くとか、そういうこと言ってんの?

「そういうわけじゃないっていうか、本当のところ、何がしたいのか、ハッキリ言わないのよ。ただ、大学行かない、別の道を考えたい、っていうばっかりで」

その曖昧さで、美麗は父親を困らせ、ついには衝突したらしい。

そして、ボクはやっと千晴の真意を悟った。

案の定、彼女はボクを焚きつける。

「アナタになら、ちゃんと喋ってくれるんじゃないかしら。その辺、相談に乗ってあげてくれないかしら」

相談に乗る、というより、本音を聞き出してほしい、というのが千晴の思惑だろう。とすると、案外、美麗の行動は、織り込み済みというより、それとなく千晴が計ったのか。

「俺はそういうの、苦手なの知っているだろ」

特に美麗や、雅人が相手だと、ボクはどうも我が儘に屈してしまう。美麗のライブを秘密にしておいたのが好い例だ。美麗に黙ってて、といわれればボクは絶対にその約束を破ることはない。

ただ、家出となると、ボクは今までと同様、というわけにはいかなかった。この電話も、一応美麗には断ったけれど、二階のリビングに彼女を残して、階下の玄関まで降りて声を潜めてかけていた。

ボクにとっても、美麗の行動は、想定外の結論をもたらすかもしれない非常事態なのだ。

「別に大学に行くように説得しろ、っていってんじゃないわよ。理由が知りたいだけ」

まんまと千晴の思惑に嵌まったようだ。ボクはただ、やってみるよ、とだけ言って、じゃあ後で、という千晴を電話の向こうへ見送った。

それを待っていたように、美麗の声がする。

「長澤くーん、お湯、出なーい」

ボクは振り返った。彼女に聞かれないように、ボクは玄関に隠れて千晴と電話していた。その廊下の向こうにある台所から、声がする。

ボクはひとつ溜息をついて、予期せぬ客の相手をするために、スリッパを履き直した。

前へ   次へ