僕の目の前に、彼女の腕が飛び出して、下から裏拳でアッパーをかまされるように、掌が強烈に僕のあごを打った。

今度は僕が身をのけぞらして、ソファに仰向けに倒れ込んだ。目の前が一瞬暗闇になり、続いて、かなりの痛みを感じて、顔を手で覆った。痛みは耳の辺りまで響いて、頭全体をどろどろに溶けたコールタールがベットリと覆うような、鈍くイヤな感触に包まれた。

それが通り過ぎようとする代わりに、しびれたようなジーンという細かな新藤みたいなモノが、鼻から下の顔半分にわだかまった。僕は顔を覆ったまま、必死で自分の身に起きたことを、頭で理解しようともがいた。目をきつく閉じて、めくるめく痛みの連鎖をやり過ごす。

すると、闇から彼女の声がした。

「自業自得よ」

そして駆けてゆくパンプスの音。僕はもう一度、低く呻いて、今、という事態を呪った。良いことの後には悪いことがある。人生はプラスマイナス、バランスをとりながら丸く収まる。パンツが見えたのはラッキーで、コレがその報いなんだと思った。

それにしても、やりきれない。

「大丈夫?」

一号の声がした。僕は、痛みはやがて引いたが、なんだかそのまま起きるのが億劫で、ソファに倒れ込んだまま、その声をやり過ごした。

僕は誰を呪っているのか、よくわからないまま、ひどく憤慨した。あまり勝ち気でない僕は、昔から暴力とは無縁で、更にいうなら自分の感じる痛みにひどく弱い。それがたとえ自分の責任でも、見えざる神を呪う。今もちょうどそれに似ていたけれど、たぶん冷静に考えればきっと答えは見つかるはずで、それを薄々感じていたから、今は憤慨することだけに集中した。

自棄、というよりはふてくされて、僕は顔を覆ったままソファに突っ伏したまま、大げさにウーウー唸った。痛みはだいぶ引いていたし、もう起きあがっても良かったけれど、気が済まなかった。少なくとも近年感じたことのない、物理的な痛みを感じて、僕は明らかにその点だけにおいては被害者のはずだ。被害者の特権として、わがままに振る舞う、という誰にも支持されない自分ルールを、僕は持っていた。

大丈夫?と言ったきり、一号は、何のアクションも起こさなかった。視界を閉ざしているせいで、声以外に、外界の情報はまるっきりで、だからがやがやとした店の中の乾いた喧噪しか耳には入ってこない。それがひどく不安な想像をさせる。自分たちのせいで、店内がざわついているんじゃないかとか、彼女が何か不穏なアクションを起こしたとか。

しかし、僕はわがままでいたかった。僕のあごを打った痛み、というモノのやり場に困っていて、その反動でひどく興奮しているので、まさしく処理できずに思考がフリーズしてしまっているのだ。往々にして、そういうときは誰もそういう処理の時間を与えてはくれないもので、時間を引き延ばせば事態が好転することもない。

だけど、僕には、痛みのやり場を冷静に考える、その前に冷静になる時間が必要で、それが他人に比べて常識を遙かに越えた処理能力の遅延を招いても、自分は自分なんだから、という言い訳以外思いつかないけれど、それ以外でわがままを通そうとする。それがいいことか悪いことかは知らない。でも、そういう人もいるんだってことを認めない、許容しない社会の方がおかしいんだと、今は強く思っていた。

 

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