ちょうど僕らが座るテーブルの、真ん中あたりに彼女がさしかかったときに、背後から手が伸びた。それは彼女の死角だったが、僕からは丸見えで、なぜならその手は一号のものだったからだ。一号は不意打ちを食らわせる、つもりは多少あっただろうが、動作的には、ただ手を伸ばしただけだ。ちょうど彼女の腰のあたりの高さに、すっと手を掲げただけ。

そこには彼女の手首があった。細く透き通るように白い、手首があった。

一号はその手首にがっしりと、五本の指を巻き付けた。そしてぐっと力を込めて、握りしめた。

引っ張ったわけではない。一号が手を伸ばして、彼女の手首をつかんだだけ。動いていたのは彼女の方で、それを押しとどめる格好になったのだけど、それが彼女の視界からきれいにはずれていた、というのがクセモノだった。

彼女は軽く後ろにのけぞるように、胸を反らした。カーディガンが一瞬フワリと浮いて、胸の膨らみがわずかに弾んだ。女の人の胸、ことさら彼女のおっぱいがそんなにも柔らかいのだと、僕はその時思った。彼女がそのまま駆け足でもしていれば、きっと頭から後ろに倒れ込んでいたはずだ。予想外の出来事に、彼女の口が半開きになった。でも、声は出なかった。唖然としている途中、みたいな表情だった。

反射神経がいいのか、彼女は仰向けに転ぶのはかろうじて踏みとどまった。代わりに、その瞬間心もち持ち上げていた足を、もう一方を軸足にして、くるりと回転させた。わずかにキュッ、と床が鳴る。ふわりと彼女の髪が舞って、竜巻のように乱れながら渦を描く。

相変わらず一号は彼女の手を握ったままだったので、自然と彼女はターンを決めて、一号の方を向いた。

その途中、僕は彼女と目が合った。それは驚きとも、また怒りとも違っていて、ほんの数瞬だったけど、おそらく事態を把握する途中の眼差しだったろうと思う。その時、人間は何というか、無表情とも違う、完全にニュートラルな、筋肉が弛緩しているというか、無防備というような感じで、この世の中を支配している力学にただ従っている、どこにも無理のない顔になるようだ。

なのに、僕が見たその表情の中で、唯一目だけが、カッと見開いていて、それは本当に怖かった。僕を威圧するほどに鋭く、優しさの微塵も感じさせない。視線だけを恐怖に感じたのは、僕はその時が初めてだった。

ただ、瞬く間の出来事で、僕も相当に間抜けな顔をしていたに違いない。一号だって意図して起こした行動だから主体性はあっても、その一時はただニヤついているだけで、つまり、まるで制止した時間の中で、彼女の身体だけが、氷上のスケーターのようにエッジを効かせて回転しただけのような光景だった。

一号の方を向いて、やっと彼女は気づいたに違いない。自分の手首が掴まれていることを。僕は彼女の後頭部を、唖然として見ていたが、確実に、彼女が自分の手元を見て、それから一号の方を向いたのがわかった。

続いて、低く抑えた声で、何、と聞こえた。それはわずかに震えていた。それが訳のわからないことへの恐怖なのか、動揺なのかわからない。案外ただ、運動に心拍数が上がっただけの生理的なモノかもしれないな、と呑気なことまで僕は考えた。でも、不思議とその、何、という短いセンテンスの響きが、僕にはひどく妖艶なものに思えた。少し劣情の部分に訴える波動を持っていたような感じだった。

何ですか?ともう一度、彼女は言った。今度は、しっかりと一号に向かって、ちゃんと怒りを含ませていた。そりゃ、そうだよな。

でも、一号は何も答えずに、顔を上げて彼女をじっと見つめていた。ニヤついていたのが、今はちゃんとした笑顔になっている。やっていることは結構強引なはずなのに、その目は優しい台詞で女の子を口説くときと同じ彩りをしている

しかし、無言は、この場合かなりの緊張をもたらす。彼女はもとより、やっと我に返った僕にもいやな予感が甦ってきて、それが大きな軋みを発てて確実に坂道をあらぬ方向に転がり落ち始めていることに気づかされた。悪寒は、今はパチパチと音を立てて僕の肌の上で弾け始めている。

ちょっとこれは、ヤバいんじゃないの?

 

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