その日、僕は一号に逢いに宇多津のアパートに出向いた。一応約束はしていたのに、一号は仕事から帰ってきていなかった。ユキちゃんがすまなさそうに僕を出迎え、中に通してくれた。もう、そういう状況は何度も繰り返していたので、僕はまっすぐリビングに行って、机の前に座った。やっぱり背中で、襖の隙間から寝室の乱れた布団が見えていたのを、僕は敢えて背にした。

一号はなかなか帰ってこなくて、僕はゴロリと横になり、テレビを見ていた。僕も仕事場から直行してきたので、ちょうどほっと一息ついて眠くなる時間だった。遅いね、なんてユキちゃんに声をかけながら、ぼんやりテレビを見ていたけど、そのうちに眠ってしまっていた。

テーブルの上で、ケータイの呼び出し音がなり始めて、僕は目を覚ました。そこで僕は、大変なモノを見た。最初はそれがどういうコトかよくわからず、意識が混濁するまま唖然と見つめていた。

僕が目を開けると、影が僕の顔を覆っていた。天井を見ると、つり下がって照っている電灯は見えず、そこにユキちゃんの顔があった。鼻先数センチ、は大げさだけど、でもかなり近い。彼女の鼻の頭にニキビが赤くなっていて、何か塗ったのかうっすらと白くなっているのが見えた。他にも、細かい産毛の様子とか、目の下の黒子とか、たぶんその時初めて知った。化粧をしていないユキちゃんの肌は、それでもすべすべしていて白く、影になっているはずなのに輝いて見えた。

そして、黒目勝ちの目がふたつ、じっと僕を見ている。瞬きもせず、僕をのぞき込んでいた。その視線に気圧されるように、僕は動けなくなっていた。ケータイの呼び出し音は、内蔵の有り触れたモノだったけど、聞こえているようで聞こえない。ただひたすら、僕はユキちゃんと見つめ合っていた。

「何?」

やっと我に返って僕は、絞り出すようにそう言った。ユキちゃんはポコリと笑顔になるとこう言った。

「見てる」

え?

「ケータイ鳴ってるよ」

絡み合った視線が解けた。僕は起きあがった。起きがあると同時に、ユキちゃんも立ち上がり、シンクの方へ歩いていった。何事もなかったような背中を見ないようにしながら、僕はケータイを取った。一号からで、僕は変にドギマギしてしまった。仕事場で担当しているおばあさんが病院に運ばれたので、それに付き添いでいるんだ、とまず言い訳した。クルマで迎えに来てくれない?と一号は呑気に言った。

僕はああ、と返事して、ケータイを切った。そのままをユキちゃんに告げると、あらそう、とやはり事も無げに言った。

その後、一号がいる国立の大きな病院に着くまで、僕の目の前のフロントガラスには、夜の流れる景色にユキちゃんの顔のアップがチラチラと点滅していた。目も鼻も、おでことそこから降りかかるような前髪と、少しふっくらした頬のラインから項にかけるラインが強調されていて、後ろで髪を束ねていて、後れ毛がフワリと羽を広げているような光景。

それが目に焼き付いているが、それを記憶に留めておくべきなのか、それとも忘れるべきなのか迷った。迷いは僕の中で、行ったり来たりした。とても強く印象に残っていて、それは簡単に忘れられそうにもなかったが、無理をしてでも忘れるべきかもしれない。

どちらが天使で、どちらが悪魔か解らないけど、ふたりの相対する意見を言う胸の中の僕がいて、両者譲らずがっぷり四つに組んでいた。

でも、第三者的に、情けない僕がもう一人いて、明滅する彼女の映像の、クチビルの形が、なんだか曖昧なのだ。白い歯が薄く開いたクチビルの間に見えていたような気もするし、しっかりと閉じられていたような気もする。それどころか、漠然とクチビル自体、像を結ばない。

三者三様いいたい事を行っていたが、結局混乱しているまま、僕は一号の待つ国立病院に着いた。病院の玄関には、他に一緒に働いている職員のおばさんもいて、ついでに送ってあげてイイ?と一号は言った。

結局、そのおばさんの家が三野町だったので、僕はそのまま詫間の家に帰って、一号もウチで夕食を食べた。打ち合わせをして、妹を交えて無駄話をした後、遅くになって一号を送っていった。つまり、それきりその日はユキちゃんとは逢ってなくて、なんとなく、僕の中で曖昧なまま、記憶だけが胸をスクラッチしたままになったのだ。

僕は、しばらく、逡巡の日々を過ごして、結局答を出さないまま、忘れる事にした。事実をなかった事には出来ないが、忘れる事は出来る。その時に僕は、冬の彼女の思い出を借りた。彼女との愛憎が渦巻く別れ際の感情を思い出して、ユキちゃんとの思い出に上書きしようとしたのだ。

女なんてさっ、って感じで。

でも、それも上手くいかなくて、結局冬の彼女への憐憫と、ユキちゃんへの不実の感情がごっちゃになって、憎より愛が勝ったりとかして、もう僕は敗北を認めるしかなく、冬の彼女にも白旗を揚げ、ユキちゃんへの横恋慕にも素直になるしかなかったのだった。

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