足元の覚束ない長い廊下を、ひたすら歩いた。途中私の腕を抱えていた警官が交代する時だけ立ち止まることができたが、、それ以外はずっと歩きっぱなしだった。殴られ、蹴られした痕が未だに疼いて体中を痛めつけていた。それでも休むことは許されず、交代の隙を見て蹲ろうものなら、両側からまたしこたま殴られた。

その長い長い廊下の先にちいさな光が見えた始めた。それは歩くうちに少しずつ、少しずつ、大きくなっていったが、そこに辿り着くのにまた、長い時間がかかった。私を抱える警官は、どこからともなく現れて、交替してまた消えていく。

不図、もしかするとこの警官の姿は、私に刻まれた恐怖がそう見せているだけで、違うものを想像すれば、姿形を変えるのではないか、と思い立った。試しに私は次の交替があるまでひたすら、父親の姿を思い浮かべた。

私の父親は、先代の社長だが、強いることなく私を経営者の道に導いた程の成功者だった。ゆえにやはり仕事人であり、それなりの威厳と厳格さはあった。それが幼い頃には苦手だった。幾らか甘やかされて育ったせいもあるが、家庭に父親がいる時、食事で同席する時などは緊張した。恐怖に怯えるというほどのものではないかもしれないが、手抜かりがあってはいけないというような緊張はずっと感じていたのだ。

だが、手を上げられた記憶だけはなかった。それが今の私の唯一の希望だった。

私の思惑は的中した。次の交替の時、警官の服装は同じだが、顔つきはまったく父親の顔だった。

その顔を見て、私は思わず、ニヤけてしまった。自分の予想が当たったことと、それでも懐かしいその顔に出会えたことで、心に張り詰めていた糸が僅かに緩んだのだ。

だが、次の瞬間、父親の顔をした警官は、私の頬をあらん限りの力で殴りつけた。

「何を笑っとるっ」

威厳のある声は父親そのもので、口調も明治生まれ独特の聞き覚えのあるものだ。それはまさしく父親だったが、その父親に、力任せに殴られたのは初めてだった。私は吹き飛び、鼻血を出した。それを拭うことも許さず、父親の顔をした警官は、私を引きずるようにして歩き出した。

私はなんとか立ち上がり、そしてもう一度、横目で父親の顔を見た。面影は正しく父親のそれだが、般若のようにつり上がった目と真一文字に結んだ唇は、怒りを露わにしていた。私はそれ以上父親を見ることもできなかった。

そして、自分の想像の中でもっと優しく接してくるものを思い浮かべようとしたが、そんな者たちにまた殴られるのかと思うと、実行する気にはなれなかった。

父親の顔をした警官は、またしばらくすると他の警官と交替した。その間際、私にだけ聞こえるような小さな声で、恥をかかせるな、と言い放って消えていった。

私は愕然としたが、深く考える暇もなく、また歩くことを強いられた。

そうしてまた長い時間、ひたすら歩き、やっと光の前に辿り着くことができた。

光を潜ると、そこは簡素な壁に囲まれた灰色の部屋だった。目の前に、長机がひとつ置かれ、そこに男が座っている。やはり警官の服装だが、どことなく見覚えがある。

私の腕を掴んでいた両脇の警官が後ろに後ずさるようにして離れると、二人共が同時に背中をついた。私はよろけるようにその、長机の前に押し出された。

そこでやっと、座っていた男が顔を上げた。私と目が合う。

長男だった。

思わず声を上げそうになったが、喉が干涸らびたように音にはならなかった。代わりにぽっかりと口だけが開いて、私は長男をジッと見つめた。

長男は、私の顔を一瞥すると、また手元に視線を移す。そこには一枚の紙切れが置かれてあった。

久しぶりの再会のはずなのに、彼の態度はまるで他人のそれだった。元々、私の父に似て冷静で寡黙な男だったが、家族の中では普通に接していた。これほどまでに突き放したような態度をとるのを見るのは初めてだ。

しかし、なぜここで私は長男に会わなければいけないのだ、と思いついて愕然とした。

私はおそらく今ここで、何か過酷なことを伝えられるはずだ。その内容は頭では予想はつくが、実感としてはまだ曖昧なままだ。ただ、不安と恐怖だけが得体の知れないガスのようにその予想に纏わり付いている。いずれにしろ、好ましいものではないはずだ。

それをこれから、私は長男の口から告げられるのだろう。

別に仲違いしているわけでもなく、親子関係は穏便で順調だったはずだ。

できる限り、長男には教養と学識の機会を与え、社会に出てからは経営の哲学とノウハウを実践的に教え込んだ。私の代は苦境の連続だったが、冷静で堅実な長男に会社を引き継ぐと、派手さはないが順調に業績を伸ばしていくようになった。それは彼の資質がそうさせるのだろうが、その基礎を作ったのは私だと自負している。

子育ては妻任せではあったが、立派な経営者として育て上げることができたはずだし、それに彼も感謝しているはずだ、と思っていた。

その証拠に病院の中では終始、気丈に振る舞っていたが目には涙を溜めていた。その感情が一気に切れたのが、葬儀の時の親族代表のスピーチだった。冷静な彼が人目も憚らず嗚咽し、その言葉のほとんどは涙に沈んでいた。

その彼が、まるで従業員を面接するような事務的で、無表情な目で私に接している。そしてその口から、私は最後の審判を受けるのだ。

ここは私の想像が形になる世界だとして、果たして私は長男に会いたいと願った結果なのだろうか。

いや、おそらく私は最も望まないものを厭う気持ちが強かったのだろう。だから最も望まない状況が目の前に現れたのだと理解した。神か仏か、どんな者がこの死後の世界を司っているのかは知らないが、彼はどこまでも過酷な攻めを、私に与えようと仕向けたに違いない。

この地獄という世界は、私の精神に対して、容赦ないのだとつくづく思った。

長男は白い紙を片手で取り上げ、肘を突いて紙の隅を親指でギュッと押すようにして持った。自然と紙は、丸まって、指とは反対側の隅が、私の方を向く。直角の隅が、ひどく鋭利な切っ先のように見えて、私の背筋を冷たいものが流れ下る。

「あなたはこの世の中でもっとも、罪なことをした一人になりました。それ相応の罰を受けてもらいます」

地獄行きです、と淡々と長男は私に告げた。

その瞬間、私の中の痛みという痛みが、急に全身を覆った。先程殴られ蹴られしたものだけではない、ここに来る前に手術した患部がまたしても疼きだし、それを切り取ったメスの痕も強烈な痛みを放ち始めた。更にあちこちが、大小様々な痛みに襲われる。終いにはあの時の骨折の鈍い痛みや、昔患った盲腸や尿管結石の時のものまでがぶり返してきた。

全身をくまなく、痛みが走る。私自身が痛みそのものになってしまったような気がした。

それでも、体はその痛みに耐えようとする。いつもよりもはっきりと、体が痛みを乗り越えようとする。体が頑張っているのだ。それが、また疲労と奇妙な苦痛を私に強いる。それほどまでに痛いのなら、感覚がすべて事切れて欲しいと願っても、体は無意識に痛みを克服しようとしている。

頼む、止めてくれ、と願っても、どうしようもなかった。

私はその場に蹲ろうとするが、やはり両脇から警官に捕まれ、直立の姿勢を強いる。

私は涙を流した。痛みに悲鳴を上げようとするが、ポカンと開いた口からは呻きのような空気と、涎しか漏れてこなかった。

その表情を、長男はジッと見つめていた。こんな情けない顔は見せたくなかった。そう思えば思うほど、彼の視線は私に吸い付いた。

不図、その傍らからひとつの影が近づいてきた。それは机よりもちいさな背格好で、私からは頭のてっぺんしか見えない。それが長男に近づき、横からすっと、小さなメモ用紙を机の上に置いた。

長男はそれに気付いて、持ってきた者を見下ろす。幾らか柔和な顔になって、えらいね、上手に持って来れたね、と優しげな声をかけた。

そこにいたのはたぶん、孫なのだろう。長男の長男、私にとっての初孫だった。今はもっと成長しているはずだが、ずいぶん幼い。やはりこれは私の願望がそうさせているのだろうか。

痛みにのたうつこともできず、私はただひたすら立つ事を強いられ、唯一の救いのように、その見え隠れする頭頂部を見つめていた。だが、それ程度で収まるものでもなかった。

長男はメモ用紙を時間をかけて読んだ。そんなに長文が書いてあるようにも思えないが、時間がかかっている。その間、私の苦痛は続く。

ある瞬間、長男の目が僅かに見開き、何かに驚いたような表情が浮かんだ。そしてすぐに、ひとつ、溜息をついた。

あっちへ行ってなさい、と長男は孫に声をかけた。孫はそのまま消えてしまう。

長男の目が再び、私を見上げた。冷静で無表情だった目が、僅かに笑みを滲ませたような、そんな気がした。

「運がいいですね、父さん」

何が?

「あなたはずっと地獄にいられますよ」

それのどこが運がいいのだろう?

「だって、もう生まれ変わるべき人間が、この世からいなくなったんですからね」

 

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