ここは何もない処だ、というのが私が最初に抱いた印象で、そして唯一のものだった。

目の前には、淡いクリーム色に染まった空気が立ちこめ、それがぼんやりと脈絡もなく白にグラディエイトしていき、やがてまたクリーム色に戻る。白が基本で、クリーム色に染まるのか、或いはその逆かは判然としない。

だが、そういうことはどうでも好いことだ、と思う。

そう思うことが、今ここにいることのすべてなのだ。

私はこの明滅する空気の真ん中に一人、座っている。足をやや開いてだらしなく伸ばし、両手を後ろについている。腰は緩く曲がっているけれど、ほんの少し上を望むような格好だ。

それが一番楽な姿勢なのだ。というより、苦痛がない。手が痺れるとか、腰が痛くなるとかいうことがない。だからこの姿勢のまま、ジッとしている。

おそらく、横たわっても、立ち上がっても、同じように私はその姿勢をずっと続けるだろう。どんな格好でも、私はその姿勢を維持し続けることに苦痛は感じないはずだ。

その、苦痛を感じない、ということがここの唯一の法則のようなものに違いない、とやっとわかった。

そして、苦痛を感じない、という以外のことは、全く何もない。私という存在があるだけだが、見渡す限りクリーム色に明滅する空気以外に何もないので、私という存在すら曖昧だ。

ただ、私には記憶がある。そして、思考と呼べるものかどうかは覚束ないが、何かを考えるような機能は残っている。時々視線だけを下に向けて、伸ばした足先を見やると。五本の指が扇形に並んでいて、それが左右に対称に分かれている、その様子を認識出来る。それが指であり、足に生えてあり、そこから自分の腰に向けて体を支えるべき足という存在が伸びている、ということは認識出来る。

それは生きている時と変わらない。生きている時の姿と変わらない、ということはわかるのだ。

なぜなら、私に記憶があるからだ。それも鮮明な、産まれてから今ここに至るまでの事細かな事象のすべてを覚えている。覚えているというより、思い出すことができる。まるで、ハードディスクに保存された膨大な数のフォルダの中のひとつをワンクリックで開いて見るように、記憶は鮮明に蘇る。

だが、それ以上でもなく、それ以下でもなく、ただ事実を確認して終わる。記憶を呼び戻したい衝動のようなものも、瞬間に消え去る。満足してしまうのだ。

最初のうち、面白がって、特に幼い頃の、私自身が物心つく前の目で見、耳で聞いた話を思い返してみてみたりしたが、それもすぐに止めてしまった。理由はわからないが、それがそこにあるということに、満足してしまうと、反芻しようという気がまったく起こらなくなってしまった。

そして、そのうち、感情の動きがなくなり、苦しみだけでなく、悦びや快楽のようなものまでが取るに足らないようなものに思えてきた。

やがて、ただここにいる、ということに満足してそれ以上でもなく、以下でもなくなってしまったのだ。

そのうちに、私という存在もあのクリーム色の空気の中に溶け込んでしまうような気もする。なぜかわからないけれど、それだけは不確かなまま私の中に未来予想図として存在していて、ただそれもおそらく間違いない、という確証にも似た感触もあった。それはまるで、読みかけの説明書のような感覚なのだが、終わりまで読めばきっとそうなる。

そうやって人は本当に死んでいくのだ、と私は何の感情もなく認識している。

さればここが、天国、という場所だということは、やはり説明書の表紙の真ん中に書かれているように、私の中に刻まれている。

つまり、天国には何もない。苦痛がないこと以外、何もない。

ただ、それが本当の安らぎなのだろうと、私は感じている。

 

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