テレビが音を無くすと、沈黙がこの部屋を支配した。

まもなく、トモアキは洗面所に走った。

オレが背中を見送ると、水を流す音が聞こえて、その後に嘔吐する声がする。何度も、何度も、苦しそうに喘ぐ。

オレは後を追って、背中をさすろうとすると、触るな、とトモアキは大きな声で怒鳴った。

トモアキは昔から、暴力を徹底的に批難する。きっとそれは、彼の父親のせいだ。酒が過ぎると、決まって母親と衝突した。それがエスカレートすると殴りかかる。小学生の頃までは、それを黙って見ていて、逃げる母親に着いていくしかなかった。だが、体つきが大きくなると、それに対向するようになった。取っ組み合いの喧嘩に、警察が止めに入ったことも何度もある。

そんなトモアキと父親との間にしばらく距離を置くために、トモアキはオレの家に居候した。その間に、俺たちは長い時間をかけて話をした。女の子や、音楽の話は通じないと思ったのか、あまりした記憶はない。だが、とにかく、父親のことだけは悪く言い続けた。

最も象徴的だったのが、父親の葬儀だ。トモアキは一切、出席していない。事件を起こしてしばらくしてからのことだったが、この部屋に閉じこもって、出てこなかった。オレは斎場から、呼びに来たがその時は頑として戸を開けなかった。

今日はまだ、戸を開けてくれたのだから、それほど深刻ではなかったのかもしれない。

しかし、それもオレがぶち壊してしまったかもしれない。

ひとしきり、吐き終えたトモアキは、俺の前を素通りして、キッチンへ行くと、冷蔵庫を開けた。ペットボトルのミネラルウォーターを、一気に飲み干す。空いたそれを、シンクに放り投げた。

「トモアキ、すまなかった」

オレは素直に謝った。

「イイよ」

ソファに座り直したトモアキは、小さな声でそう言った。

「俺たちが争っている場合じゃないよね」

「本当にそうだ、すまなかった」

幾らかトモアキの表情が、緩むのが分かる。

その時、テーブルの上に、真っ二つに割れた湯飲みがあった。あ、とトモアキが声を出し、残念そうにその欠片を手にした。

「これって、オレと同じ名前の作家さんが焼いたヤツなんだ。一目惚れでさ」

そんなに高くはなかったけど、気に入ってたんだ、とトモアキは欠片を眺めながら言った。

「弁償するよ」

トモアキは頭を振った。

そしてその欠片を丁重に二枚重ねると、テーブルの真ん中に置いた。周囲に細かく散らばった、破片を集め、ゴミ箱に捨てる。名残惜しそうに、トモアキは重なった二枚を眺めて、最終的には同じゴミ箱に捨てた。

そして、再び、テレビの画面を見る。何も写っていない、真っ黒な画面だ。

「兄さん」

「なんだ」

「例えばね、どうしても見られたくないものを、どうしても見られたくないヤツに見られているって、その見られている方からしたらどう思うんだろう」

あの画像は完全に消去され、トモアキの手元には無いと、彼女は信じているはずだ。だが、それが真実では無い、と知った時は、衝撃を受けるだろう。いやしかし、トモアキの話が本当なら、案外見逃したのは彼女の方かもしれない、とも思う。

それにあれから十年以上の時が経っている。トモアキの元に訪れた、真実らしき話は、それは確かにショックだろう。だが、それも過去の話としての価値しか持たない。それが今になんの影響ももたらすはずは無いのだ。

同じように、今、彼女がそのことを知ったとしても、きっともう時が解決しているだろう。そう信じるしかないではないか。そうでないと、俺たちはずっと、過去という地面に伏して、その辛酸な土の味を舐め続けるしか、生きていく方法がないでは無いか。

俺たちはそこから立ち上がって、上を見なくては生きてはいけない。空はまだ、曖昧なままでいてくれる。

オレは応えないまま、じっとトモアキの横顔を見続けていた。

印象的には代わらないが、右頬はやはり少し腫れてきたのか。オレの胸の奥が、キュッと縮んだように痛む。

「真実を知ったからといって、何も変わらないんだ」

「いや、そんな事はない。よく考えてみろ、今回知り得たことを思い返してみろよ、おまえは何も悪いことしてないじゃないか。どっちかと言えば、嵌められた方だ。それで、前科までつけられて散々だよ、オレは同情するよ」

「同情だけ?」

「他に無いだろう。だって一人はもう墓の下だ」

ああ、といってトモアキは天井を仰いだ。ソファの背もたれに体重を預け、更に下にずり下がる。

「そうなんだよな、そうなんだよな」

トモアキは繰り返した。そして一つ息を吐くと、噛みしめるように言葉を紡いだ。

「オレは祐海子の心に深いキズを負わせた。それでオレは間違った方法かもしれないけど、彼女のその後をオレは縛ったつもりでいたんだ。俺を愛するにしろ、憎むにしろ、思うことに変わりはないからね」

もう一度、トモアキは息を吐く。

「でも、実際は、アイツの胸には森口しかいなかったんだ。今頃オレよりも、森口の死を悼んでるよ」

その話を聞くより前に、とトモアキは言ったきり、しばらく黙った。一度目を閉じ、また目を開ける。

「本当に偶然だけど、今の祐海子の職場って言うか、本当に今もいるかどうか分からないけれど、とにかく祐海子が居た痕跡がある場所を見つけたんだ」

そこで彼女は介護関係の仕事に就いていた。

「オレにそんな事を云ってたな、って思い出したよ。介護の仕事に就きたい、って。オレはそんな、祐海子が介護って向いてないよって思ったけどね」

「それを実現したって事か」

トモアキは頷く。

「でね、なぜそれを知ることになったかって、名前を検索したら出てきたんだ、本当にあっさりと。簡単に辿り着いた。だからね、名前変わってないんだよ。名字がね」

少し首を傾げて、トモアキは背もたれに頬を預ける。やはり少し腫れてきていた。

「それはきっと、オレのせいだ、って本当はオレ、満足って言うか、そんな風に思ったんだよ」

「でも、実際は違っていた」

「そう、祐海子はそこで森口祐海子になるかもしれなかったんだ。そうなると、オレはきっと見つけられなかった」

「どっちが良かったんだろうな」

トモアキは、背もたれの上をすべるように、ゆっくりと左右に首を振った。

「つい二週間前、この話に触れる前までは、普通になんの気持ちの変化もなかったんだよ。別にその祐海子の今の職場に辿り着いてもね、全然なんとも思わなかった。オレの中で過去の話だったんだよ。それが、何がいけなかったのか、オレにも良く分からないんだいけど、真実が見えてきた途端、焦ったんだよ。本当に、なぜか分からない。オレの想像していたとおりが現実だったなんて、そんなこと今までにないからさ。オレの思惑と外れていくのが、俺の人生だったはずで。でも、ぴったり、俺が思うとおりになった」

でもさ、とトモアキはオレを見つめた。

「それはあくまでも、オレの妄想の中での話だったんだよ」

ちょっとへんな話するけど殴らないでくれ、といいながらトモアキは、身体を起こした。そして真面目な顔をしてオレに正対した。

「オレずっと祐海子がオカズだったんだ。さっきの画像とか動画もさ、こんなもの撮るような淫乱が、なんて、祐海子を貶めてさ。その上、最もやっちゃいけない、人として間違っているような裏切り場面なんか、徹底的にリアリティを追求して森口と浮気している場面とか想像してさ、。もう本当に、考えられる限り、あらゆる事で祐海子を辱めてさ、それで納得していたんだ。

だから、今回も、本当はその妄想の補完ぐらいに思ってたらさ、笑っちゃうぐらいその妄想が現実になっちゃって。その時気付いたんだよ、オレはそれが妄想だから、納得していられたんだ」

「つまりは、二人を信じていたって事か?疑っていたけど、不義はなかったって信じていたって事か」

「心のどこかでね、そう思いたかった俺が居たんだろ」

少し投げやりにそう言って、トモアキは一つ頷いて見せた。

「それにオレは戸惑ったんだよ。ずっとオレは自分の本心だと思っていたことが、実は自分を欺いていたって。そうするしかなかったんだ、って今は分かるけど、その空しさは酷いもんだよ。自分は偽れないって、やっぱり本当だね」

また自嘲気味に、トモアキは笑った。

「それで、おまえはどうしたいんだ」

「分からないよ。どうしたいんだろう」

トモアキは頭を振る。自分の言葉に体温が上がっていたのか、額にうっすらと滲んだ汗が飛ぶ。

「ただ、同じ失恋を、二度繰り返したような気分だよ。こういう時って、どうしたら良いんだろう」

再びトモアキは項垂れた。

オレはその目をのぞき込むように、恐る恐る言葉を継ぎ出す。

「オレにも分からないよ、でも、やっぱりその、話を聞く前に戻りたいんじゃないか。むずかしいけど、でも、考えてみたら今までもずっと、同じコトを考えてたんだろ、だったら無理でもないじゃないか」

でもね、とトモアキの声は穏やかに響いた。

「あれから全然勃たなくなっちゃった」

「何が?」

「オチンチン。完全にフニャフニャなまま。別のまったく関係のないエロ動画とか見ても、ダメ。ああ、こんな声、祐海子は森口の前で漏らしていたんだろうな、って思っちゃう。さっきの祐海子の画像もさ、見ていたら、一途に森口のことを思う祐海子の姿が浮かんじゃって、全然ダメ。なんだろうな、どんな心境なんだろう。オレは邪魔したいのかな、それとも・・・」

そう言ったきり、トモアキはどこか遠くに視点を定めたまま、押し黙った。

しばらくすると、まぶたの辺りがフルフルと震え始める。だけれど、何かが凝って溶け出さない。

「死んだヤツには敵わないよ。アイツのことを考えただけで、世界が全部、アイツの味方になったような気がするよ。その傍で看取った祐海子と一緒になって、世界の同情を一身に集めてる。オレは蚊帳の外、完全に敗北者だよ」

そう言っても、トモアキの瞳は乾いたままだ。昂ぶった感情が、やり場をなくしてしまっている。

「確かにヤツは、祐海子を寝取った憎いヤツだけど、オレの親友でもあったんだぜ。だったらせめて、正直に言ってくれたら良かったのに。時間が経ってからでも良いからさ」

「今更言っても・・・いや、今その時が訪れたんだよ。そりゃ本人の口から聞きたかっただろうけど、それは何度言っても詮ないことさ」

「うん、分かってる、わかってるんだけどね・・・」

トモアキの煮え切らない気持ちは分かるけれど、やはり前を向くことでしか、その泥沼の心境からは抜け出せないだろう。簡単に前を向け、とは言える。だが、簡単でないと言うことも、誰もが知っている。

空が青いことを、知っているのに、それを見ようとしない。

首が凝り固まって、顔を上げられないのだ。

それは誰しもが経験すること。

オレはその肩を、解すことが可能なのだろうか。

「今度はオレが、変なことを訊くぞ」

オレは、慎重に言葉を選んだ。

「おまえ、前の時も、あの事件って確かに祐海子が標的だったけど、ありゃ自殺だろ?自分を殺したんだ、自分を悪者にする、っておまえは言うけど、結局、死んだんだ。やっぱりそれも、今はどうしようもないよな。オレもそれ以上は言わないよ。

だけど今回はどうだ?死にたくなったか」

トモアキは少し驚いたように眼を開いた。だがすぐに、項垂れるように頷いた。

「いや、オレはそれを責めようと思っているんじゃないんだ。そういう時もあるよ、俺にもあった」

オレは今の妻と出会う前、やはり手痛い失恋をしていた。身ぐるみ剥がされ、一文無しになり、更に借金まで背負わされた。最初から、そのつもりでオレは拾われたわけだが、俺はその年上の女に心底惚れていた。

その時、死のうと思って、踏切の前で二時間、立ちすくんだことがある。その時、何かが背中を押せば、今の俺は居なかっただろう。

でもオレはその時、抜けるような青空に気がついたんだ。

その遠くに見える、この辺りでは最高峰の山の頂が見えた。

あそこに登ろう、となぜかその時思った。今こんな不幸のどん底に沈むオレなら、後はもう幸福しかやってこないだろう。高い山にだって、本気で登れる気がした。

その山には、頂上付近に、三つの鎖場があって、そこはかなりの熟練者でないと登り切ることは出来ない。

登山初心者のオレでも、今なら登れるかもしれない、とその時オレは思ったのだ。

「なぁ、トモアキ。今はまず、泣けよ」

え?という顔でトモアキはオレを見た。

「泣いてから、笑え。今のおまえに必要なのは、まず泣くことだよ。存分に泣いてから、笑えばいい」

「俺だって泣きたいよ。泣けば幾らか心は軽くなるだろう。でも、泣けないんだよ」

「それはな、今は怒りが悲しみを抑え込んでいるからなんだよ。悲しい、泣きたい、でも許せない、ってな。それをひっくり返すんだ、怒る前に子供みたいに泣いちまえ」

だから、と言いかけて、トモアキは呆れたようにそっぽを向いた。

「どうしても無理やなら、山に登れ」

「山?」

ああそうだ、とオレはあの青空の下に聳えていた頂の山の名を告げた。

「あの山を登り切るには根性がいる。三つの鎖場の話、知っているだろう?それには今は怒りのパワーが必要だ。それぐらいの破壊力がないと、あの山は無理だ」

それでな、とオレは身を乗り出した。

「それでもまだ死にたかったら、鎖場で手を離せ。そうしたらおまえの死は事故だ。誰も自殺だなんて思わない。頂上で足をすべらせてもいい。てっぺん登って、見た風景がどうしようもなく悲しみに包まれていたなら、そこからいくらでも堕ちて行けばイイさ」

トモアキは相変わらず、呆れたように鼻で笑う。

「一緒に登るか?」

トモアキはオレをまじまじと見る。

「兄さん登ったことあるの?」

オレは応えなかった。応えようがなかった。

「とにかく、頂上で泣けたら良いじゃないか」

考えておくよ、とトモアキは言ったきり、黙ってしまった。

オレはそのまんじりともしない夜の底に、嵌まり込んだことに気付きながらも、今はとにかく、トモアキと一緒に居ようと思う。人生を山に例えるような、野暮なことはしたくないが、本当に山に登るのは、案外悪くないアイデアだと思えた。

今トモアキを捉えている朧気な闇のようなものよりは、実体のくっきりとした輪郭を持った山塊の方がずっとどうにか出来るはずだ。どう攻略するか、考えも及ぶだろうし、そうやって思考も蘇る。今はその瞬間が、大切なのだ。

オレはあの時、そのことに気がついた。

踏切を渡りきって、そしてそこから自分の家までの十五分、オレは周囲も気にせず号泣した。

あの涙は一生忘れない。

「なぁ、兄さん」

「なんだ」

「今、冬だけど、その山登れるの」

「良いじゃないか、遭難してやろう」

トモアキは肩を竦めた。その表情は幾らか和らいでいる。

きっと朝には、トモアキは泣いているだろう。

そしてその時、俺は傍にいる。

 

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