考えてんスか」

さっきから、隣でハンドルを握るヤツの声を半ば無視している。業を煮やすでもなく、ヤツはずっと俺の気を惹こうと声をかけ続けている。

だけど俺は、この車の中に流れている水曜どうでしょうのDVDの副音声に耳を傾け続けているようなフリをして、ただ、無視し続けていた。

「でも、良かったっスよ。哲也さんが捕まって」

捕まって、という言葉に俺は少しだけ反応した。気色の悪い言葉を使う。イヤ、別に捕まったのには変わりがないのだが、こう気分がガザガジしている時は、どんな言葉もしゃくに障る。そういう気分なんだ。

それもこれも、全部俺のノリのせい。

ちくしょう。何かに当たり散らしたい。でも、そういうのこそ、本当に転がる石がどんどん落ちていく。

「この間、バックれられた時には、もうどうなるかと思いましたよ」

ふん、と鼻で嘲り笑って、俺はもう一度、DVDの副音声に耳を澄ませる。今度はちゃんと、もう何度となく聞いて聞いて聞いて聞きまくったその声を、なぞるように聞く。

こっちは作り手の馬鹿だから。

藤やんの声が響く。大泉洋のぼやきが覆い被さる。

一週間程前、俺のやっているバンドのミーティングがあった。俺はそれに前日まで、イヤ、その日の昼まで行く行く、といって結局逃げた。行かなかった。ただそれだけのことだ。

虫の居所が悪かった。そんな気分じゃなかった。理由はそれだけのことで、それだけじゃなくて。でも行きたくなかったのは事実で、行かなかったのも事実。

別にそれぐらいイイじゃん。で、どうなったの?何か決まったの?

普段なら、それで済む話が済まないのは、やっぱり俺のノリのせいなのか?

イヤね、そうでもないと思うんだよな、今回。と、俺がそう思っているだけで、周りはなんとか丸く収めようとしているのかもしれないから、そうすると、やっぱり俺のせいか。

もうこうなると、一挙手一投足が、すべて事態を悪い方へ悪い方へと押しやっているような。坂道が目の前にあると解っていて、躓いてみせるんだ。絵はがきの旅2で大泉洋が宮崎のモアイ像を見つけた時のように、ゴロゴロと転げ落ちていくのは、あからさまなプロダクションがあったせいで、それがあると解っていて俺は転ぶ。

で、気が付くと、止められなくなっている。唖然とするのは俺の方。

「上島さんにも、鈴木さんにも、絶対につれて来いよ、って言われてますからね。とにかくホッとしましたよ」

今回も、実は逃げようと思っていた。どうしたって、行ける気がしない。行く気がしない。

でも、仕事が終わって部屋に着いたところを、今隣にいる大介に待ち伏せをされた。実に巧妙に、ヤツは俺がクルマで帰宅するところを押さえられた。

俺はこう見えても、実に小心者だ。人の顔を見ると、それがどんなに嫌いな相手でも、何処かでいい顔をしてしまう。

ヤツの顔を二、三発ぶん殴って、捨てぜりふのひとつも吐いて、そのまま帰宅したままの格好でクルマに飛び乗り、でっかい音でアンスラックスでも大音量でかけながら一路海沿いのハイウエイをドライブ、なんて事が出来たら、と思う。

そういうドラマチックで軽快な、一昔前の映画みたいな光景を、望んでいても、何処かでそんな絵空事を、と鼻で笑ってしまっている。現実はもっとドロドロしていてね、なんて思っている。

そこら辺が、やっぱり俺の重いノリの所以なのかな、なんて。

出来ればなんとか言い訳を着けて言いくるめて、イイ感じで触れないようにしてそのまま逃げる。

ことが出来なかったので、今俺は大介の運転するクルマの助手席に押し込められて、バンドのミーティングが行われるファミレスへと護送されていた。

あぁ、やっぱりこれは、捕まったんだよな、と。

 

たちのバンドは、もう三十路をとうに越えた、諦めの悪い集団だ。特に飛び抜けて何が特色っていうモノでもなく、時代を先取りするようなメロディに恵まれているわけでもなく、軽快なリフが空から降ってくるわけでもない。

中学時代に知り合った俺たち四人は、高校生になって俺が退学するまでずっとバンドをやっていた。一度、そこで途切れて、十年ほどしてノスタルジックに再会した。俺以外はみんな家庭を持ち、でも、何処かで音楽に対する何かを引きずっていた。

かろうじて、俺は音楽だけは続けていた。学校も、仕事も、お嬢さんとの付き合いも、普通の生活ってヤツも何も長続きしなかった俺が、音楽だけにはとにかくしがみついていた。誰に聞かせるわけでもなくただ、曲を作って自宅の機材に録音して、一人悦に入っていた。

ちなみにその途上で拾ったのが、今隣で運転しているヤツ、大介だった。俺より一歳だけ若くて、境遇は似ていた。でもヤツには音楽の才能はなかったが、人をまとめる才能はあった。つきあいはもう、十年近くになるのか?

そういう四人と一人が集まって、まぁ、バンドでもヤルベ、っていう話になって、今に至っている。

智春は俺よりはギターが上手かったからギターで、鈴木は俺より気を遣うことに長けていたのでベースを弾いて、上島はずっと俺より落ち着いていたのでドラムを叩いている。俺はただ、物怖じしない、というだけでボーカルを担当している。ちなみに大介は、バンドのエンジニア兼マネージャーだ。

趣味の範囲を超えない程度に真剣にやる、というのは上島の名言だ。現実に夢を失い、音楽に夢の残照をみている俺たちにとって、それは一番ピッタリの言葉だった。

家庭の領分ってヤツは、俺には解らないが、他の連中はみんな、そこら辺を上手く調節してバンドを続けていた。

俺は俺で、仕事をして、一応彼女も抱え、どっちかというと音楽ってヤツに寄り添って、人並みの生活ってヤツを営んでいた。

でも、それがどっかで壊れた。イヤ、正確には壊れかけていた。たぶん、それを感じているのは、俺だけではないはずだが、誰もそれを口にしようとしていない。

あ、唯一口にしたヤツがいたな。俺の彼女の、桜子だった。

「バンドって、こうやって解散していくのね」

普段音楽には全く無関心で、この間コブクロのコンサートに行った、といって激しく俺に叱りつけられた経験を持つ女だ。控えめで、彼氏彼女なんていう曖昧な存在の中でも、音楽に携わる俺との距離は保っている、頭のいい女だ。確かに国立大を出ているだけはある。

そう口に出されると、それはそれで不快なモノで、俺は少しだけ事態収拾に勤めよう、なんて気を起こしてしまう。それがまた坂道を転げ落ちていくことになるんだけど。

「もしかすると、これで終わりになるかもな」

俺はDVDがメニュー画面に戻ったところで、そういってみた。こういう、イヤミな一言に関しては、天下一品、という自負を持っている。

「そんなこと言わないでくださいよ」

「でもな、知ってるか?終わりはいつでも準備されているんだよ。終わってみないとわからないものだけど、その時が来たら、ああ、あの時から終わりは始まっていたんだな、おあつらえ向きにこれがこうしてこうなって、ちゃんとサヨナラを言うように出来ているじゃないか、ってわかるんだよ」

クルマは赤信号で止まった。さっきから細々と落ちていた雨が、本格的に降り始めてきた。

「い、イヤなコト言わないでくださいよ。今日ミーティングに出てくれさえすれば、それで丸く収まりますよ」

の言葉に自信がないのは、俺にもよくわかる。予言めいたことを言っている俺でさえ、確信はあっても少なからず、そうなることが怖い。

あぁそうだ、転がる石は疾走する時にとんでもないエクスタシーをもたらすけど、転がり落ちる石が向かう先には恐怖しかない。だから必死で食い下がろうとする。何処かで踏みとどまって、そのスピードを緩和しようとする。

でも、俺のノリは重い。

落ちるなら何処までも真っ逆様に、そっちの方がずっと気持ちいいのかも、ということを俺は思っている。

 

たちはここ一ヶ月、ずっとスタジオにこもっていた。といっても別に俺たちはプロじゃないから、平日の夜にスタジオに集まって、日曜日は昼からとか、そういう感じで。

そうやって新曲を作っていた。知り合いのスタジオで俺たちが演奏し、大介がガラスの向こうでハードディスクに収める。演奏が終わると、ああでもないこうでもない、といいながらパソコンの画面に向かって言葉を吐き、大介がマウスを動かす。

できあがったモノは、CDに焼かれる。それを携えて、ちょっとした小旅行に出掛けるのがひとつのルーティーンになっていた。土日祝日連休を利用して、各地のライブハウスをブッキングし、演奏してCDを売る。といって儲けは小遣いにもならないが、そのルーティーンが俺たちにやる気を起こさせる。五年もやっていれば、それなりに固定客も着いて、まぁ、年に一度の宴会みたいなモノだ。同窓会?といって学校中退者の俺には実感がないけど。

でも、どっちかというと、それは俺たちが音楽を続ける為の言い訳みたいなモノだ。それは嫁さんやら子供やらを連れて温泉で一泊、なんていうモノを絡めてゴキゲンを伺う、というものだけでもなく。

俺たちは音楽をやるのでさえ、理由がいる。理由がないと、俺たちはトンでもなくナマケモノになる。

待ってる客がいるんだから、とか、いつまでにCDを作らないと、とか。そういう目的がないと、音楽は現実の世界に埋没してしまう。そのうちそのうちで時が過ぎ、仕事が、子供の参観日が、嫁の実家で法事が、に押しつぶされてしまう。

本気でやっている人たちに比べれば、と人は言うだろう。音楽は自分の中からわき上がるモノで、締め切りだ、なんてのに縛られるのはアーティスト失格、なんて人は言うだろう。

俺もそう思う。

でも、いつからか、その重荷を肩から下ろした時に、俺たちにはどうしたって置いては行けないモノを見ちまったんだ。

それが音楽だった。

逃避だと、人は言うだろう。俺もそう思う。ストレス発散ならば別にそこまでやらなくても、と人は言うだろう。俺もそう思う。

でも、見ちまったんだよな。仕方がない。

やり続けたい、というものがあって、現実に押し流されそうな自分がいて、どちらも自分。逃げることが出来ない、自分。そして俺たちは鈴虫大の脳みそで必死に考えるワケだ。

それが俺たちのバンド、ストロベリー・クラブだ。風俗の店みたいな名前だろ?俺たちらしいよ。

 

ってくれ、なんて言いませんよ。ただ、みんなの前に顔を出せば好いんですよ。それだけで、丸く収まるんですからね」

まるで、大介は自分に言い聞かせるようだな、と思ってしまうのは、俺がもう坂道を自分で下りかけている証拠なのか?

そもそも、俺は謝る気なんてさらっさらねぇし。

一番最初に難癖を付け始めたのは、智春だった。

俺たちが初めてギターを手にした頃は、とにかく演奏することでしか、その気になれるってことはなかった。メンバー集めて、スタジオに行ってコピーでもなんでも、とにかく演奏すればバンドをしているって気になったもんだ。でも、そこら辺の、ちっちゃなサークルの中でしかその気ってヤツは伝わらないわけで。

それが今は自宅で録音が出来たり、CDを作ったり、夢にまで見たそんじょそこらのアーティストと同じ地平に立って、その気になることが出来る時代になった。パソコンって、ある意味革命だと思うよ。

だから、ってわけでもないが、一応バンドのリーダーであり、メインスポークスマンの俺は、ちっちゃなホームページを立ち上げ、ささやかなブログを書いていた。まぁ、日々の日記というよりは、普段一年に数度しか逢うことのない観客の皆様方に、俺たちの活動状況なんてモノをお知らせする、というのが建前だ。

当然、ここ一ヶ月ぐらいの話題の中心は、レコーディングだった。

このレコーディング、今回は思いの外、難航した。

コレもまたパソコンの恩恵ってヤツだ。パソコンはいろんなことを手軽に気軽にしてくれた。そっからすべての最先端と呼ばれる機械が、お手軽お気軽を最優先にしてきた。

レコーディングの最中も、パソコンがメインの機材だ。一昔の山のように積まれた機材の城は、今はノートパソコンの中に収まってしまっている。

そいつで録った音は、各自が持ち帰ることが出来る。持ち帰って、聞き返す。何らかの感想を持つ。思いついたら忘れない内に、誰かに言っておかないと。それで俺たちの間を電波なんだかビームなんだか、光の速度で飛び交ってメールが入るわけだ。

お気軽お手軽、っていうのは、別に悪いことではない。言いたいことを、それほど抵抗もなくササリン、と他人に伝えることが出来る。それはいろんな面でスムーズなコミュニケーションというモノを産む。それ自体、悪いことではない、と思う。

だが、それが出来るようになって、同時に混乱も生じる。

誰もが好き勝手に、言いたいことを言う世界は、ある意味アナーキーな世界だ。秩序が個人に限定されるから、許容範囲を模索するのが難しい。

内容は、些末なことだ。エコーの量が多い、少ない、音を変更しろ、音程が微妙にずれている、音を足せ、減らせ、ギターのリフが気にくわない、リズムが悪い。

一曲5分。それは案外長い。小節単位で区切れば、百何十小節のひとつひとつに、それぞれの思いが交錯する。それが噴出してそれぞれのカラーに染められると、果たしてどれが一番しっくり来る色なのか?

お手軽お気軽は混迷をもたらしたのだ。

気が付くと、次の日仕事を終えてスタジオに集まると、昨日のメールでこんなコト言ってたけど、から始まって、どうするああするこうする?という話で時間が過ぎていくようになった。実際に演奏する時間より、それを修正したり、いじくり回す方に多大な時間がかかるようになった。

一度終わった気になった曲を、再びいじくるのは随分と骨の折れる作業だ。

もう一度テンションを上げて、頭を整理し直して、新たに気を遣うポイントに集中する。それは案外、めんどくさいモノだ。

だが。俺たちはそれをやった。果たした。どうにかこうにか、着地点を見つけて、そして曲はエンディングを迎えた。相変わらずの俺の重いノリと、正確無比なリズム隊が微妙なズレを残して余韻の中に消えた。

一応の満足感と、一抹のわだかまりが俺たちの胸には残った。妥協、というのはそういう事だ。

わだかまりという事を自覚しないまま、俺はその一部始終をブログに書いた。それはそれで、俺たちの音を待ってくれている数少ない、貴重な人達の為だ。俺の誠意でもあった。

だが、その誠意は数少ないライブに来てくれている人には伝わったかもしれないが、当の本人たちには伝わらなかった。

書き方がどうのこうの、表現がどうのこうの、あからさまな言い方がどうのこうの。

そして、智春は、待ったをかけた。お手軽お気楽に、書いたブログに対して、ヤケに重いメールを寄越してきた。受信アドレスにはキッチリと智春以外の四人の名前。

その曲は、お蔵入りにする、という事になった。

当然俺は反発した。苦労して作った曲を、このまま無かった事にするのは、どうしても許せなかった。

でも、智春は強硬だった。俺の言葉のせいだと、ヤツは完全に突き放した。

まだレコーディングの為のスタジオの作業も残っていた。あらゆる予定がずっと先までめちゃくちゃになる。

しかし、レコーディングは宙に浮いたまま、ストップしてしまった。

俺は思ったモノだ。あぁ、コレが、血がべっとり付いたレコーディング、ってヤツか。

 

迷は混迷を産む。一度、ぎくしゃくした歯車は、油を注してスムーズに回り始めたように見えて、その実確実に寿命が近づいている。交換するか、捨て去るか、そのタイミングを見極めるのは難しい。

だが、日常ってヤツは、だいたいにおいて、そういうヤツとは無関係だ。スタジオから離れれば、俺の部屋には整理し切れていない図面やら、数字の書かれた規格表やらが散乱している。いつの間にか、楽譜よりもそっちの方が多くなっちまった。

俺はまるで、何か鋭利な刃物を突きつけられたような気になった。どっちにするよ、オイ?そう迫られているような、笑って済ませられる範囲を少しばかり逸脱している。

そんな気になって日常をやり過ごし、自分にとってかけがえのない音楽ってヤツをやり過ごし、答の見えない日々が続いた。

そいつはまさに、無為な日々、ってヤツだ。

もちろん、何らかの答を求めようとかけずり回ったヤツもいる。

その最初の訪問者は、ベースの鈴木だった。

土曜日に仕事が終わった俺を、ヤツは待っていた。俺の駐車スペースに別の見慣れたクルマが停まっていた。見て直ぐ、鈴木だとわかった。

部屋でちょっと話そう、と鈴木は言った。俺は承諾して部屋に入った。部屋にはいつもの習慣で、桜子が待っていた。彼女は毎週土曜日の夜から、日曜日の夜まで、俺と一緒に過ごしていた。通い同棲、っていう感じ。

問題の整理をして話は始まった。事の起こりをもう一度お互いに確認し合って、それから誰がどう言って、他の誰かはどう言ったか?

結局、それは無駄な時間だった。起こった事は、すでに誰よりも自分たちが一番よく知っていた。そうじゃなきゃ、俺たちは一緒にバンドなんて面倒なモノやっていない。

一番知りたいのは、この先どうしたいのか、だった。誰も、このまま何かが潰えてしまう事は望んでいない。

だが、それさえも、少なくとも俺も智春も、信用出来なくなっていた。

潰えないで済むようにする答なんてあるのか?

あるんだったら教えてくれ。

つまりは、どんなに話し合っても、自分がどうしたいか、という事を訊きたいに過ぎない。でも、それが一番、やっかいな質問なんだよな。

ウロウロと腹を探るような時間が転がって、じゃあ、おまえはどうなのサ、という話になる。

鈴木は言った。俺はやっぱりあのブログは書きすぎだと思う、なんて。

いい事かどうか、俺は何処かでその言葉に、敵、という言葉を刻みつけた。それほど自分のした事に、毎度毎度、確かな確証があるわけではないが、少なくともそれが受け入れられない立場に立つのなら、それは俺とは相反する、という事だろう。

だから敵。

鈴木は重ねてこういった。

「智春、ちょっと最近仕事がうまく行ってなくて、家庭もちょっと忙しくて、精神状態が不安定なんだよ。実際今薬を処方してもらってるみたいだし。仕事も何日か休んだって」

同情、ですか?同情で、レコーディングがストップした事を受け入れろ?

「そういう精神状態だから、あのブログもそう読めたんだろうよ。俺もあの記事は、微妙だと思うしな」

自分の事を棚に上げて、他人に攻撃した事実はおざなり、だと?

それがそういう理由で、受け入れる範囲がちっちゃくなっているのはわかるよ。それは同情すべき事かもしれない。ならば正直に、何故そう言わない。

俺が心の狭い男だという事は、自覚している。でも、それでかけがえのない俺の音楽を、いいように扱って好いはずはない。別にコレは仕事じゃないんだぜ。俺たちが俺たちの器量でやっているだけの事なんだぜ。

俺なら、その前に下りるよ。ちゃんと自分が矢面に立つ。

どうしたって、こっちの方が折れる筋合いはない。俺はそう思った。なんか違うぞ。俺はそう思った。

だが、何故だか、それ以上反論出来なかった。上手い具合に口封じをされた。そんな気がした。

謝るべきだ、記事も削除して、と鈴木は解決案を示した。

俺は考えてみる、と言った。そうとしか答えられなかった。

そこに居合わせたのが、桜子だった。

ウチの部屋は別に、友達が来てちょっと深刻な話をするから、といって声も聞こえない部屋があるわけではない。どうしたって台所にいたって、ふすまを挟んで別の部屋にいても、声は聞こえる。

それに別にバンドの奴らと桜子は不仲ではない。普段ならバンドのメンバーが部屋を訪れれば、当然隣にいて一緒にコーヒーを啜っている。

その日もそうだった。そして、桜子は、私も、と言った。

鈴木、その向こうにいる智春の意見に同調した。あの記事は、と。

なんだ?ここにも敵がいるのか?男は家を一歩外に出ると七人の敵がいる、と古の言葉。

でも、俺の周りは敵がいっぱい。だってそうだよな。俺の知っているヤツって、仕事の相手か、バンドの奴らしかいねぇもん。七人なら味方の方が少ない。

俺はたぶん、頑なになるために扉をまたひとつ、その時閉じたんだと思う。

 

ヨナラの足音は、ヒタヒタとかバッチャンバッチャンとか、ゴロンゴロンなんていう風にはやってこない。黙って身辺整理をして、ホイ、なんて具合に綺麗に治まった席を用意するだけだ。

そんな静かなヤツだからサ、予感とかそういう敏感な物とは無関係に、気が付かないモノ。

準備されているとわかっていれば、すんなりそれに治まって、ちゃんと後始末のプログラムに協力するぐらいの心意気は持ち合わせているサ。たぶんね。

希望ってヤツが、それを邪魔するんだよ。おそらくね。

でも確証がない俺には、憤懣やるかたない気持をとりあえず何処かにぶつけるぐらいしか、手がないんだよね。

それで、起こった事っていうのは、鈴木が帰っていった後の、俺と桜子の言い合いだ。

俺はコレでも、人前で歌なんか歌っているし、気分のいい時はお調子者の一面が顔を出して、他人を言いくるめる事に関して他人に負けた事はないのを自負している。自慢じゃないけど。

だから、昔と違って、怒っても手は出さない。その変わり、難クセ着けて徹底的に相手を疲弊させる。そういう姑息な手段というか、ちっちゃいところというか、ロクデナシなところは、それこそ誰にも負けねぇ。

自分でわかっているぐらいだから、辞めればいいのにな。

でも、言葉尻とか、ちょっとした仕草とか、ああでもないこうでもないが、それこそ線香花火みたいにパチパチくすぶり初めて、やがてエンドレスの言い合いになった。

気持がおさまんねぇんだよ、といっても時間は有限だし、週末の時間はもっと貴重だ。

それを知っててネチネチネチネチネチ、いつの間にか自分でも何を言っているのか解らず、最後には俺はもう欲求不満で仕方がないんだぜ、って事しかわからないのに、言い続けている。攻撃のやりすぎだ。作戦もねぇのに、ひたすら進め進め。死人はでないが、コレはもうどっかの戦争よりよりも質が悪い。

やがて、窓の外がうっすらと白み始めた頃に、桜子は出ていった。

ちくしょう、と誰に向けて好いのかわからない叫びを、俺はひたすら語尾を伸ばして心の中で叫び続けていた。

でも、こういう時、俺はとても冷静なフリをする。桜子がでていった?関係ないね、好きにすれば?別にあいつだけが女じゃねぇしな、コチトラロッケンロールに魂を売った、いつまでだって孤独な戦士ダ馬鹿野郎。

本心は違うのがわかっている。桜子を追いかけて行きたいだろうし、なんかもう、全部ごめんなさいで済むのなら、それで気が晴れるのなら、それでイイや、とも思っている。

でも、ちゃんと心の隅には、それで好いのかこの野郎?というもう一人の俺が必ずいる。それはたぶん、それこそ、ロック魂、ってヤツだ。

誰だったか忘れたけど、中学生の頃に読んだ本の中で、ロックってヤツは、自分の心にプライドを持つって事だ、なんて書いてあった。それからずっと後になって、ストーンズに出逢った時に、俺はそのことを強く意識した。

東京ドームへ大介と夜行バスに乗ってストーンズを見に行った。その時、STONESは俺に言ったんだよ。ここで俺たちが出逢ったのはどういう意味があると思う?

ちょうどその時、演っていたのはスタート・ミー・アップだ。あのキースのカミソリみたいなリフが閃いた時に、俺の隣にミックがやってきて、そう言った。

その言葉に応えるように、キースが駆け寄ってきてこう言った。

「おまえは何も間違っちゃいネェよ」

もちろん、二人とも完璧な日本語で。

だから、俺は一瞬にして理解した。

その時思ったんだよ。俺はここに来て、ストーンズに逢う為に今まで生きてきたんだ。中学の時に初めてギターを手にして、それからなんだかんだと言い訳しながらずっと音楽にぶら下がっていたのは、ここに来る為だったんだ。

その時の幸福感といったら、今とは正反対だよ。まさに至福の時、あんなに生きてきて良かったと思った瞬間はなかったね。すべてが、俺のそれまでの一生が全部肯定されたんだよ。何も間違ってないぜ、ってね。

その時以来、でもないが、こういう、誰も彼もが俺から離れていってしまったような気になってしまう時には、別にCDとかはいらねぇ。ギターを弾くとか、歌を歌うとか、でもねぇ。

心の中のロックスピリッツってヤツに耳を澄ますんだ。

そうすれば、錯覚でもなんでも、おまえは何も間違っちゃいねぇぜ、自分に自信を持てよ、って言ってくれる。

逃げた女なんて追いかけるなよ。新しいもっととびきり胸の大きい、なんでもしてくれる女が、ほらそこにいるぜ、ってね。

おまえにケチ着けるようなバンドメンバーなんて、さっさと切っちゃえヨ。おまえの音を求めているヤツは、もっとたくさんそこら辺に転がっているぜ、ってね。

今はそこにいろ。やつらを見返す事をなんでもやれ。何したって好いぜ。な?おまえなら、なんでも出来るだろ?

そこで俺は、ふと自分に立ちかえっちまうんだ。

俺に何が出来るんだろう。

歌唄うのだって、好きでやっているけど、それほど上手くないし、曲作るセンスだって、それほどあるとは思えないし。

だいたい、俺たちのバンドだって、見栄えのいい智春目当ての客が多いのも事実だ。あいつは昔っから女には苦労しない。俺みたいに女の子を追いかける事しか能がないヤツとは違う。女の子達が追いかけてくる方だ。俺にとっては、それは夢みたいな物で、とうてい叶わない夢なんだ。

じゃあ他に何がある?

鈴木みたいに、バリバリ仕事をして、家庭を養って、おまけにベースを弾けばしっかりとリズムをキープする。さっきみたいに、何かあればかけずり回って、調整能力には長けている。そういうのとは無縁だ。人をまとめるとか、足場を固めるとか、そういうのはどうも苦手だ。

上島のように、後ろででーんと構えて、なんてもっとも縁遠い。俺が俺がでいつも前に出てくるのが俺だ。やっぱりバンドで一番目立つのはボーカルでしょ、なんて言ってずっとその場を譲らなかったのが、今でも続いているぐらいだからな。

大介なんて、俺にいつもくっついているようで、あいつの人脈の広さは舌を巻く。みんなに好かれる器量ってヤツを持っている。俺にはどっちかというと敵が多い。老若男女関わらず、俺の事を嫌い、というより憎んでいるヤツは多いだろうな、というか多いんだ。

じゃぁ桜子は?あいつの、あいつの、生活感、というか道徳観というか、普通さ加減というか、なんだろうか、言葉では言い表せないけど、俺にはない物を全部持っているっていう気がする。もちろんあいつの持っていない物を、俺はたくさん持っているのだろうけど、それは全く金にはならないし、生活ってヤツを営むには、無駄な物ばかりだ。

だからこそ、みんなにはコンプレックスを感じている。だからこそ、惹かれているんだろう。

あらためて問うよ、俺には何がある?何かある気がするのか?

そういう時の朝日はまぶしい。

結局俺は、図面の束を抱えて、休日出勤した。

 

は常に何かを考えている。曲の構想だったり、ステージのびっくりさせるような仕掛けだったり、桜子とベッドインする時の趣向だったり、今日のお昼は何を食べたいとか、今度どういうCDを買おうとか、そういう事。

仕事といっても、図面を読んで、プログラムを書いて、材料をセットして、後は機械を走らせるだけ。簡単といえば簡単で、めんどくさいといえばこんなにめんどくさい事はない。

そしてまた新たに考えるんだ。どうしてこんなめんどくさい事を日がな毎日やっているんだろうか?何か嬉しい事があるのか?見返りはコレっぽちの給料袋しかないじゃないか。いくら不景気でも、コレはないだろう?あってもこんなに忙しかったら使う暇ねぇよ。

しかも、なんで俺は休日にまで、こんなコトしているんだ?本当なら、今日は桜子とちょっとユニクロへ行って、秋物の服でも見てこようか、なんて。

あぁ、そういえば、そういう事があったな、なんだか懐かしいよ、この野郎。

時間が経つと、だいたいどんな気持も、萎える。ガッカリする。寂しくなる。情けなくなる。

現実ってヤツがね、そうさせるんだよ。そう、休みの日に旅行に行って、翌日出勤するあの朝のことを思い浮かべてご覧よ。あの色褪せた生活の風景ってヤツを思い浮かべてご覧よ。アレが真実の現実ってヤツだぜ。いろんな物が沈鬱な表情で、何がそんなに明るいんだっていうぐらい太陽が照りつける、あの感じだよ。そんなに晴れるなよ、っていう朝の感じだよ。

でも、そこにしか逃げ込む場所が無いというか、他人に真似出来ないのが仕事だけって、なんだかな。

何もしないよりはマシ、っていう程度。意味もなければ、少なくとも俺の為にはならない。喜ぶのはたぶん社長だけ。社会に貢献だってしないだろう。地球温暖化とか、エコロジーとか、そういうのにも影響はない。

ただ、体を動かす事によって、生きているという実感を自分とは関係なしに身体に言い聞かせるだけだ。コレが生きているって事だよ、わかる?ってね。

唯一頭の中は、グルグル、メンドクセーメンドクセーが周り廻っている。メリー・ゴー・アラウンドだ。

時々、こういう人生しか自分にはなかったのかな?と思う時がある。毎日ろくでもない事しか考えていない俺でも、たまにはそういう事を考えるときもある。

例えば、仕事で鉄くずの山をトラックに乗っけて、処理場に捨てに行く時なんか。ちょっと触れるとやばそうなお兄さん方がウロウロしているような所へ、ぶつけるとやばいよなっていうような気持でバックしながら入っていく時なんか。ハラハラしながら一仕事終えて、その帰り道こういうエキサイティングな人生しか、用意されていなかったのかな、なんて。

あの時、ああいうふうに、なんて。学校辞めなければ、とか、あのお嬢さんを罵らなければ、とか、やけになって血だらけになるとか、そういう瞬間に別の判断をしていたら、なんて。

でも、かわんねぇだろう、という結論しかまっていない。昔は、そんな可能性、なんてヤツを無理矢理希望とか、そういう美しそうな言葉に上手く変換して、まるで人生はバラ色だった。

結局、俺にはイヤな事はイヤっていうしかなくて、めんどくさい事はめんどくさいっていう気持しかなくて。それを出来ればおおっぴらに言ってなんとも思われない環境が欲しいだけなんだ。

そうなると、他人とはなるべく触れないように、接触しないように、干渉されないように、なんていう行き場しかなくて、それは何処かで選択を誤ったというより、用意されていた席にすっぽり治まったってだけなんだ。そう、サヨナラが用意してくれていた、その席に俺が望んで落ちていっただけだ。

他人は俺のこの人生を、ジェットコースターのようだ、なんていうヤツもいる。別にそういうのを望んでいたわけではなく、たぶん、俺がギターとか歌とかバンドとか、一生懸命やっているのもその辺に理由がある。要は見栄えの問題だ。何かやっていないと、俺にはたぶん人は寄りついてこないし、女の子だって知り合う機会さえないだろう。そういうのはちょっと寂しい。

そうやって世間という物とアクセスするツールが、俺にとっては音楽なんだろう。

だからしがみついてきた。しがみついていると、いろいろと見えてくる事もある。ラッキーに恵まれる事もある。そして、自分てヤツも見えてくる。だからもう、手放せないんだろうな。

自虐的なのかな?他人を傷つける事よりは、自分を傷つける事の方が、ずっと気持がスッキリする。

ドキドキさせるのも俺で、ドキドキするのも俺。

結局、他人になんの魅力も感じなくて、女の子だって、それは快楽の捌け口なのかな、なんて。

あぁ、ロクデナシだね。

 

局、桜子との仲違いは、桜子のガンバリによってなんとか回復の兆しを見せた。

俺は勝ったのだ。ロック魂の勝利だ。

桜子曰く。私はもうそろそろお年頃だし、あなたを運命の人だと思っている。そろそろ付き合って二年にもなるし、お互いいい年なんだから、それなりに、つまりなんていうか。

結婚だろ?あぁ、こんな俺だって意識ぐらいはしているサ。

おかしな話だが、俺が高校生の時、結婚願望が異常に強かった時期がある。ノストラダムスとか、五島勉とか、ザ・デイ・アフターとか、そういうのに嵌ったときのことだ。

理由は簡単で、世界最後の日に、やっぱり好きな人と一緒にいたいだろ?

その嵐が過ぎ去って、結局アンゴルモアも何処吹く風になって以来、結婚願望は消えた。

まぁ、智春の所の子供とか、鈴木の所の赤ん坊とか、上島の所の長男とか、触れると俺にもこんな玩具が欲しい、という気もする。でも、俺には無理。もし俺に子供が出来て、大人になって、俺みたいになったらイヤだな。禿げるだろうし。

結婚願望って、そのまま生活能力のバロメーターに変わっている。そういう時期だし、とかいうのはもう考えない。どれだけ収入があって、嫁と子を喰わせる事が出来るやいなや?出来る、なら結婚、という具合。

俺は本当の事をいうと、結婚なんてしなくても、ずっと一緒にいればそれで好い。毎日逢わなくてもいい。週末だけとか、一緒に住んでいても昼夜逆転生活とか。そういうので好い。その24時間の中で、ちょっとした触れ合いがあって、それでお互いが生きている事を確認出来ればそれで好い。

もっといえば、例えば桜子が今、他の男とどうこうなっていてもかまわない。週末にちゃんと俺に会いに来て、日曜日の夜にちゃんと帰ってくれればそれで好い。ずっと一緒にいるのは、盆休みの旅行とか、正月明けの初詣とか、それぐらいで好い。

結局それは、俺の好きな時間に、桜子を合わせるということで、ワガママ放題の典型なんだよな。

でも、それは本心なんだから仕方がない。まぁ、ただ、最近は少し違っているけどな。

今は桜子に逢わない時間は、ずっと仕事をしている。桜子って常識を振りかざして、そういう無言のプレッシャーというか、当たり前の事をさも当たり前ですよ、ヤリなさいよ、ヤレよこのニャロウ、って俺に押しつける。人間としてどうのこうの、って。

それで、実はバンドするのも、けっこう至難の業だったりもする。時間を見つける為に、寝る時間を減らさないといけない、という苦行を課しているわけだ。

そういう感じだから、家に帰って桜子がいれば、そっちの方が楽、という気がしなくもない。

それは言い換えれば、無駄な時間を使いたくない、って事だ。仕事を終えて、スタジオへ行くとか、桜子に逢いに迎えに行くとか。その数十分だか何時間だかが、恐ろしく無駄にも感じるんだよな。

ロックってサ、もっともっとを求める事だと思うんだよ。だから俺の性に合っているというか。

もっと桜子とは一緒にいたいんだよ、矛盾しているけど。もっと音楽やっていたいんだよ、めんどくさいけど。

それと仕事の三つどもえなんだよな。せめぎ合いなんだよな。

で、その調整するのは、全部俺なんだよ。桜子は待つ女だし、音楽は一応俺がリーダーなんてやっている物だから、みんなおんぶに抱っこで俺が言い出しっぺ。最初に桜子に声をかけて口説いたのは俺の方だし、バンドヤルベ、って言いだしたのも俺だから。

じゃぁよ?俺が言わなきゃバンドやらねぇのか?俺が会いに行かなきゃ桜子は俺との付き合い解消するのか?

そういう事を感じながらも考える暇もなく、時間ばかりが過ぎていっているんだよな。混沌としたまま、ドロドロドロリン。

で、まぁ、そういう不満とかは、ちょっとした小競り合いの中では出てくるもので、少なくとも桜子は、俺との付き合いに誠意を目に見えるように努力をしている。それが週末のお泊まりだったり、今回の口げんかの後始末だったり。

だから、私はなんとか頑張るからその辺で妥協すれよ、オイこのニャロウ、というのが桜子の言い分だった。

まぁ、それで万事丸く収まって、というわけにいかなかったんだよな。

それがサ、タイミングが悪いのか、おこっちまった事がどうしようもなくヘヴィな事だからっていうか、とにかく、サヨナラの準備は着々と進んでいたわけだよ。

 

すぶったまま何かを抱えて顔を合わせる、っていうのは、出来ればやりたくない。そういう時はベッドの中で一人、自分が王様になる夢を見るのが一番。世界が俺にひれ伏し、裁判官は他人を全部罪人にする。俺はそこへしゃしゃり出ていって、みんなに恩赦を与える。感謝と謝罪を一心に受けて、俺の人生は栄光に満ちあふれる。

でも、やっぱり生きている限り、生活っていうものが俺の背中にべったりと張り付いている限り、現実っていうヤツは俺の目の前で踊り続けるんだ。

そこで俺は誰かの奴隷?みんな、俺に謝罪を求める。みんな、感謝を示せと言う。そして、恩赦にありつきたければもっと奉仕しろよ、ってね。

昔アダム・スミスっていう有名な哲学者が、人には心の内に公正な裁判官がいる、っていう事を言ったとか言わなかったとか。

でも、理屈じゃないんだよな。時間が解決するっていう事もあるし。ただ俺はどっちかっていうと刹那な夢にすがる方だ。直ぐ目の前に答が現れるモノ。時間が経っても、だいたいの事は悪い方にしか転がっていかない、と俺は思っている。

くすぶりは、何処かで疑心暗鬼を産む。

俺はちょうど、上島の所に、借りていたベース用のレコーディング・ギヤを返しに行った。もちろん、桜子と一緒に。その日、桜子は泊まる事はせずに、早朝から俺の部屋に現れた。

上島の家の玄関先で、俺たちは立ち話をした。それが人のいい姿なのか、それとも本心からそう言っているのか、上島は俺のブログは、智春が言うようには捉えなかったけどな、と言った。

たぶん少し前の俺なら、パッと表情なんか明るくさせてサ、なぁ、そうだろう?やっぱりおまえはイイヤツだよな、なんて言ったに違いない。でも、その時は、なんとなく曖昧な返事しか出来なかった。

またしても返答を保留したのだ。

自信のなさの現れかもしれない。強気でなんでも押し進める俺、と周囲の人は言うけど、それはただ世間を知らないだけで、怖い者知らずなだけだ。確証も、勇気も、本心ってヤツさえ曖昧だ。

四人っていうのは、かのストーンズだってそうだし、どうでしょう班だって黄金のカルテットだ。俺は自分が好きになるモノが、いつも四人組だったので、何時しか四人組最強理論、なんていうものを広言していた。だから俺たちも四人組、最強だぜ、なんて。

でも、こういう時にはどうもバランスが悪い。少なくとも、二対二で意見が別れて多数決も取れやしない。

おまけに今回の場合、俺が当事者。詰まるところ、二対一で、俺の負け。分が悪い。

そういうところの気遣いか、と気を回すと素直に喜べもしない。

とりあえず用事だけ済ませて、俺と桜子は上島の元を離れた。

それからちょっと早い昼食を取って、俺たちは部屋に戻った。何処かに行きたそうに桜子はしていたけど、俺にその気力はなかった。

部屋に帰ると、テレビで囲碁をやっていた。いつの間にか、そう、今の仕事に就いてから、平日にテレビを見るっていうことが無くなった。見たい番組は、ビデオに録って、後から後から、で随分と何時録ったのかわからないビデオが山積みになっている。

休日なんてあってないようなモンだし、元々家にいることの方が少ない。

だから、見るといってもBGM代わり。別に囲碁のルールを知っているわけでもないし。こういう時には、そういう意味のないモノが、一番心地イイ。

桜子は、台所で洗い物をカチャリンチャリンとやっていた。俺が一週間貯めたヤツを、きれいに洗って片付ける。そういうのが、女の仕事だと、桜子は思っている。俺もそれに甘えている。

俺はテレビの前に横になって、頬杖を突いて見るでもなく、でも白とか黒とか、解説をしているちょっと綺麗なお嬢さんとかを見つめていた。見たって、何がどうなっているか、わからないんだけど。

コレがこうなってココに来ると白が有利、それに対して黒はこうしたくないんでココにこうやってこっち辺りを望んでいるわけです。全く何が何だかさっぱりだ。

「なぁ、桜子、よぉ」

桜子は、なんとなくぼんやりした返事を、背中越しに放つ。

「コレ、どっちが勝ってんの?

?と少し後ろを振り向いて、小さな17型のブラウン管に目をやる。もう20年いろんな場面を写してきた、年代物のブラウン管。

「なぁ、コレ、どっちが勝ってんの?

あらためて俺は聞く。

「わかるワケないじゃん」

軽く鼻で笑って、桜子は再びお皿をカチャリコやり始めた。

俺はまた、画面に視線を向ける。

オッとコレは激しくなってきましたね。攻め合いです。ヨセですか?地に辛い白としてはココにこうは来たくないわけですからね。残り時間無くなりました。コレより一分以内の考慮時間となります。

解説らしきモノすら何を言っているのか解らない。でも、おかしな事に、目が離せない。雰囲気は伝わるのだ。なんとなく緊迫してきた感じ。コレが侘び寂ってヤツなのか?

「桜子、激しくなってきたんだってよ、オイ、解説してくれよ」

「だからわかるワケないでしょ」

蛇口を止めて、桜子はこちらを振り向いた。

「わからないって、そんな事無いだろう。おまえ国立の大学出ているんだろ、高校中退の俺よりは頭好いんじゃないの?

俺としては、ちょっとした戯れとか、そういう感じのつもりだった。

「ちょっと何言ってんのよ、子供みたいに」

くすぶっている時っていうのは、言い換えれば、事態が停滞している時っていうことで、どちらもが無言でいる、っていう時なんだよな。

「子供って、今更何を」

その物事が先にも後にも進まないとか、展開もなくのんべんだらりとした時間が過ぎていくとか、そういう時間、空間が俺には最大の苦手だっていうことだ。

「ホント、子供みたいにウジウジ、変な事で突っかからないでよ」

たぶんそういう事を一番よく知っているのは、桜子なのだろう。

「突っかかっているワケじゃねぇよ」

俺には好きだよとか愛しているとかちゃんと言ってくれ、って望むくせに、自分の事は察してくれ、感じてくれって望む女だからな。

「じゃぁ、変なコト言わないでよ。私に囲碁なんてわかるはず無いでしょ?

それは言い換えれば、自分は最大限に相手の事を感じていて、ちゃんと気を遣っているんだよ、っていう意思表示というか、抗議というか。

「なんだよ、大学じゃそういう事教えてくれないのかヨ。頭がイイヤツが行く所じゃねぇのカヨ」

だから、俺が本当は黙っていてもいらついている、という事をちゃんと知っている、っていう事を確認もせず信じ切っているってコトなんじゃないのか?

「だから、それが子供みたいだって言ってるのよ。ホント、おかしな事で八つ当たりしないでよ」

人はどんな関係でもコミュニケーションが大事なんだぜ。

「八つ当たり?八つ当たりってなんだよ?

音楽も観客とのコミュニケーションで、上の空みたいな事を歌っていてもちゃんと会話しているんだぜ。

「八つ当たりじゃないの。結局、智春さんとの事が上手くいかないから、私に当たっているだけでしょ?

ましてや男と女、これから少しの時間は親密な時間を重ねようっていう仲じゃないか。

「何時俺が智春の事で、おまえに八つ当たりしたんだよ」

感じるとか、そういう前に、ちゃんと話し合ったり、文書を交わしたり、握手をして頷き合ったり、そういうちゃんとしたアクションが一番大事な関係じゃないのか?

「そうやって変なコト言って、私に突っかかってきているじゃないの」

それは最初の方だけで、いつの間にかあうんの呼吸で、なんて老人のする事なんだぜ。

「突っかかっているワケじゃねぇよ、俺は素直におまえに聞いただけだよ」

俺たちはまだ頭の中だけは若いつもりでいるんだからさ、ちゃんと言葉を交わすっていうことでしか、お互いを理解し合えるって事は出来ないだよ。

「そんな変な事を聞く事自体、おかしいじゃない?

俺は本当に、チョとした戯れみたいなモノのつもりなんだよ。

「変な事って、俺はいつも変な事しか言ってないよ」

ホンの戯れ言、コレもコミュニケーションなんだよ。

「またそういう屁理屈を言う」

俺はちょっと人と違う感性を持っているみたいだから、人を楽しませる事が好きなんだよ。

「今更なんだよ、何言ってんだよ」

一番おまえに笑って欲しいんだよ。

「またそうやって直ぐに開き直って、自分の事を正当化するんだから、付き合ってられないわよ」

何時の間にこうなっちゃったのかなぁ?

「おまえの取り方がおかしいんだよ。おまえの方こそ、何かやましい事があるから、そうやってつっかかってんじゃないの?

あぁ、やっぱり、サヨナラっていうヤツは用意されているんだな。

「やましい事って何よ?

そういう筋書きが何処かで出来ちまっているよ。

「自分の胸に聞いて見ろよ」

台詞まで用意されているような気もするよ。

「ワケわからない。ホント責任転嫁っていうか・・・」

俺はただの舞台俳優みたいだよ。

「やけに智春の肩を持つとかサ、なんとなく、おかしくないか?

あぁぁ、いっちゃった。

「もう・・・もう・・・信じられないッ!

そのまま、俺はもう何度も見た桜子の背中を、ずっと見送るしかなかった。

 

認した、というわけではない。実のところ、何か揺るぎがたい証拠が、俺の手にあるわけでもない。漠然とした不安、よりは少し信じ込むに足るものを持っている。信頼のおけるわけではない筋からの情報だが、状況証拠は揃っている、という類のもの。

もちろん、自白はない。させるつもりもない。

別に、桜子が誰と寝ようが、最後の俺の元に戻ってくればそれで好い。第一、桜子が求めるモノを、すべて俺が提供出来るわけでもない。時間もない。

それを他人が用意してくれるなら、それに越したことはない。俺は俺に出来ることだけをやっていればいい。

ただ、嘘は嫌いだ。隠そうとして無理をするぐらいなら、ちゃんと正直にいってくれればいい。

おかしいかもしれないが、それが俺の、正直な気持ち。いつからか、自分の許容範囲というか、どんなに転んでも真似出来ないものというか、そういうことを思い知る機会に恵まれた。それは別に自分を卑下しているわけでもない。俺には俺にしか出来ないことがある。

それを知った途端、自分には出来ないことも知った。

誰がそれを必要として、不必要なのかはわからない。時と共に変わることもある。

だからこそ、やりたいヤツに任せるのが一番だ。効率的だし、無駄な努力に時間を割くこともない。

桜子だってもう、立派な大人なんだから、それなりのリスクマネージメントも出来るはず。というか、して当然。

それはね、ちょっと違うかもしれないけど、桜子を信用しているってことなのよ。

鼻血の代わりにいろんなものをダラダラ流していた若造ならまだしも、大人なんだから。俺も桜子も。

何をすればどうなってこうしてこうでオンコロロ、なんてことはね、知ってて当たり前、考えてこその年齢。

だからって、昨日何していた?なんて聞かないよ。桜子がこんなことがあってね、なんていうまで、俺は俺の話をする。俺の周りは何故か、毎日毎日ネタの宝庫だ。というか砂粒みたいな事件も、そうだな、寝物語に小一時間、語りきる自信はあるサ。

なんにも知らないヤツはね、自分のことばっかり話してプン、なんていうけど、それぐらい自分のことを話せるか?っていえばどうなんだい?

まぁ、言いたがらないなら、別にイイさ。それは聞かなきゃ何事も起こらないし。

そう、口にしなきゃね。

去年の忘年会の時とか、あのレコーディングの時の合間とか、ツアーに初めて桜子を連れて行った時とか。

こっちだって馬鹿じゃないから、アレ?なんてね、思う時はたまにあるよ。

でもね、聞いて話すってことは結局告白するってことだし、それはそれまで隠していたことを暴くってことだし、それはちょっと字面からいってもちょっとね。嘘ってヤツが背中の向こうに見え隠れしているじゃない?

話さなきゃ、それは嘘にならないのじゃないのかな?

嘘の反対の正直者、っていう事を考えてみれば好いんだよ。なんでも昨日あったことでもなんでも、ペラペラピラ、喋るとかひけらかすとか、そういうのの反対。

つまり、情報開示しなければ、それはただの秘め事で。それを他人に話して、何らかの価値観のズレが起こった時にそれは「嘘」って名札を張られるんだよ。

桜子が話さないのは、秘め事がないのか、いいたがらないのか、どっちか。

本当は何もないのかもしれない。とは思いたいけど、状況証拠ってヤツがね、半分ぐらいしか信用出来ないヤツの証言とか。これは刑事裁判だと、否認のまま有罪の可能性大。

まぁ、他人のこと言えない、というのもあったりはする。

俺はなんでも桜子には話してきたつもり。つきあい始めの頃だけどね、ある女の子と遊びに行ったことがある。

それをちゃんと次の日、桜子には話したのサ。もちろん、烈火のごとく桜子は怒ったよ。ただじゃ済ませねぇぞ、このニャロウ、ってね。

でも、俺は言ったんだ。別にちょっとドライブして、いちごのショート二人で食べてサ、花火を一緒に見てサ、そのまま帰ってきたよ、って。

何もなかったよ、って。

桜子が結局一番心配していたのは、種の保存の原則からであって、そこには触れてないと、ちゃんと安心させてあげたんだよ。

事実がどうかは、未だに言えねぇよ。

でも、ちゃんと包み隠さず話すっていうのは、そういう攻めの姿勢でもあるわけだ。敢えて自分のマイナスを晒して、一番大事な部分を隠す、とか何とか。

嘘も方便、ってお釈迦様だって言っている。だから、嘘を否定はしないよ。

でもね、何らかのものを求めるなら、それなりのものを差し出せ、っていうのも真理だ。真実には真実を、嘘には嘘を。

結局、信頼関係なんて、そんなもんサ。ちゃんとした方程式があるわけでもないし、共通認識、なんていう曖昧なもので成り立っているんだよ。

だから、ちょっとしたことで簡単にグラツク。それならば、パートナーはぐらつかないように見せかけるのが責任ってもんサ。

桜子は、減点方式の女だ。それはね、初めて話をした時からわかっていた。

だから最初のウチに思いっきり、俺の世間とはそりが合わない部分を思いっきり見せてやった。

すわ離別か?という直前で、今度はいかに俺が偉大で常識人で世間の信望が厚いか、いかに俺は社会に認められ必要とされているかを示してやる。

それで、簡単に桜子は騙された。もちろん、俺には相応の負担がのしかかってきたんだけど。ちょっとマイナスが大きすぎて、リカバリーに借金を重ね続けてしまった結果だ。

でも、たぶん150点じゃないんだと思う。まだ、マイナス点が若干残っているんだろう。

それを埋めるのに、一番身近で、女性に優しくて、金回りが良くて、見栄えも断然イイ智春がいたのなら、それはごく自然のことなんじゃないかと思う。

そういえば、こういうコトを言ったことがあるな。

俺がもし、ストーンズのキース・リチャードと面会することが出来て、もちろん、桜子も一緒で。で、なんだおめぇの恋人か?なんて言われたりして。そうです、って年甲斐もなく俺はハニかんだりして。

で、キースは俺にこういうワケだ。

「おめぇの彼女、一晩俺に貸せよ」

俺はさすがに相手がキースなら、イヤとは言わないだろうな。二つ返事で、どうぞ、コイツで良ければ、と言うだろうな。

そういう話を桜子にする俺も俺だが、さすがにまたしても彼女のゴキゲンを損ねたね。

ただ、その後に付け加えたんだ。

俺にはそういう人間が何人かいる。コイツにはどうしたって適わねぇな、って、つまり尊敬に値するヤツがサ。

それがサ、ストロベリー・クラブのメンバーだよ。

 

子と音信不通になって、俺は淡々と毎日というものを過ごした。表面上は。

だって、それ以外にすることがなかったんだもん。バンドは完全にストップしたまま、俺の手には仕事しか残っていねぇよ。

でも、何年も感じたことのない、この無力感というか、ぽっかり胸に穴が開いたよう、というのはこういうコトを言うのだな。

イヤ、正確には、俺は胸騒ぎというか、落ち着かない毎日を過ごしてはいたんだよ。何かしないと、何かしないと、何かしないと、何かしないと、何かしないと。

頭の中で想いは巡るが、どれも現実には足踏みしたままなんだよ。

失望、っていうヤツは、別にこれが初めての経験じゃないし、もっと酷いことがこれまでにもたくさんあった気もする。

でも、俺がその時に自分の名札の裏に、見えないように刻んでいたのはその文字だったよ。

俺はロックってヤツを、どんなものよりも信じてきた。それはどんどん前に前に進むことだ。前に進むってことは、鋼の意志が必要だし、そいつを育ててくれたりもする。壁が目の前に現れたらサ、ぶち当たって突き崩すか、駆け上がって乗り越えるか、もしくは遠回りして避けて通るかしかないんだよ。どんなことをしてでも、前に進むってことは、何かにぶち当たるってことなんだよ。

そこで、突き崩すことも叶わず、駆け上がることも許されず、避けて通るには回り道も見えない。

あぁ、こういうのを八方塞がりっていうんだよな。昔の人はちゃんと言葉を用意してくれているものだよ。

でも、その言葉が意味するところは、俺の胸を突き刺すばかりだぜ、まったく。

一週間経って、大介から連絡があった。

「ミーティングをしましょう」

簡単な短い文章のメールだったよ。あぁ、それは俺が手を下さないで動き出した初めての、前進だよ。

でも、何故だろう?

俺はそのミーティングというのが酷く不愉快だったんだ。

俺は想像したんだ。どっかのファミレスで五人が雁首並べて、それもムスッとした顔でサ。周りは子供連れやらカップルばっかりで、賑やかに笑顔で語らっている中で、だ。

そこで何の話をするって、結局、俺が謝るかどうか、って話だろ?これまでの経緯を棚に上げて、とりあえず今回は幕引き、って、オイ。

タマらねぇな。

確かにあれ以来、ブログも更新していない。桜子と話もメールもしていないから、俺はずっと口を塞がれたまんまだ。

そして、次に発する言葉が、謝罪、なのか?

そもそも、俺は未だに何一つ悪いことを言ったつもりも、したつもりもないぜ。

でも、バンドを続ける為に、ちゃんと音を完成させる為に、ツアーの為に、俺は思ってもいない頭を下げることになるのか?

それは一体何の為だ?何に気を遣っているんだ?

友情?

俺たちの絆?

それは根本からおかしくねぇか?何がこの度の事件を招いたんだ?それを口にするなら、もっと前に思い浮かべることだろう?俺がやつらとなんの違いがあるっていうんだ?

やっぱり俺は悪者なのか?

俺がしたことはやっぱりダメなことなのか?

そもそも俺たちは、なんの為に音楽なんてめんどくさいものをやっているんだ?

ロックってなんだ?俺にとってロックってなんだ?おめぇらにとってロックってなんだ?

俺は謝る為に音楽やロックやバンドをしているんじゃねぇだろ?

俺は俺であり続ける為にロックをやっているんじゃねぇのか?

それ自体が間違っているのか?

ロックっていうものは他人に気を遣って、丸く収めて、メンバーのゴキゲンを伺いながら、望まれた範囲の中だけでチマチマやるものなのか?

何か違わねぇか?

おかしくねぇか?

おかしくねぇか?

おかしくねぇか?

やっぱり俺がおかしいのか?

結局、俺は「行く」と返信して、当日飛んだ。

 

の中、俺は高速を飛ばした。

その頃、俺にとって唯一の帰れる場所っていうのは、先祖代々の墓がある、海沿いの街だった。

別になんの宗教に関わっているわけでもなく、自分がなにを信じているかも知らない。でも、節目節目に、俺はそこへ訪れて、短い間に心の整理をする。

その場所は、少し遠くにある。その距離が、俺のやるせなさや、孤独感や、失望に、冷静に対処する時間を与えてくれる。長すぎず、短すぎず。

そしてそこは、自分のクルマで行けるところにある。電車とか飛行機とか、他人任せにしないで済む。自分が握るハンドルで、自分が踏むクラッチ・アクションや、アクセルの踏み込み具合で辿り着くことが出来る。

普段は小さな音でしか聞けないストーンズのCDを、大音量でかけながら行くことが出来る。

自分だけの空間がそこにあって、自分の好きな空間がそのまま、その場所に繋がっているんだ。

夜の高速は、都市部を過ぎると平気で真っ暗になる。もう何度同じ道を通ったのだろう。

走りながら、何度もケータイが鳴った。俺は運転中だから、一切それを無視した。

相手はだいたいが予想が付く。大介から。

何やってんですかミーティングにも顔出さないでみんな待ってますよ何処へ消えたんですか出ないとか来れないなら一言言ってくださいよこれからどうするつもりですか連絡下さいよ。

内容も、だいたいがそんなところだろう。

イイさ、なんとでも言え。俺は頭を下げるつもりはねぇ。

イヤ、別にそれで丸く収まるならそれでもイイさ。それで明日からまた笑顔でハイハイ、音楽も出来て良かったね、バンドも解散せずに良かったね、ツアー楽しみだね。

でも、きっと何か大きなものを失うはずだ。すでに桜子を失ったのは、バンドとは関係がないにしても、サヨナラが始まっているなら、桜子ごときで終わるはずがないだろう。

それに匹敵する何かを、失うはずだ。その恐怖は、俺には耐えられそうにない。

たとえこの世に一人きりになっても、その恐怖がないなら、俺はやっていけるに違いない。

何故それがわからないんだ。言いたくはないけど、それに繋がるような危ういフラッシュ・ポイントに、何故火を点けた?

俺にはそれがどうしても許せないんだよ。

ストーンズだって、たぶんこういう事態を何度も迎えたんだろう、という気分で、俺はずっとさっきからダーティー・ワークをかけっぱなしだ。血糊がべっとりと付いたアルバムだ、とキースが言ったアルバムだ。

たぶん、ミックの所業を見て、キースは俺と同じ想いをしたに違いない。おまえのやっていることは、バンドを潰すぜ。おまえにとってバンドってなんだ?ストーンズってなんだ?

同じようにミックもこう考えたに違いない。たまには気分を変えてみるのもいいもんだぜ。俺はキースのことが好きだ。でも、嫁さんより長く付き合っている俺たちのことだ。もっと新しいことに手を出したいんだよ。俺はストーンズをそんなノスタルジーにまみれたバンドにはしたくないんだ。

お互いにバンドってものを、かけがえのないものだからこそ、目を反らさずに自分の道を見つけるんだ。

決して妥協の産物にはしたくないはずだ。

俺にとって、俺のバンドもそうだよ。確かに俺たちはプロじゃない。でも、だからこそ、俺は真剣にやりたいんだ。

好きなものに妥協して、胸張っていられるのか?

今回、俺たちの間には溝が出来ちまった。それは疑いようのない事実だ。

でも、それを埋めても何も始まらない。惰性より、もっと酷いことになるだろうと、俺は思うんだ。

逃げることがその意思表示、というのは、卑怯なやり方かもしれない。ちゃんと智春を目の前にして、一発殴ればそれで好いんだろう?

でも、それも違うと俺は思うんだ。

Dirty Workは決して殴り合いのアルバムじゃないぜ。これは決別のアルバムだ。ここから先、ミックとキースがどうしたか、それが答だ。

でも、俺にはわかっている。俺たちのバンドが消えて無くなると、俺以外で他にバンドを続けるようなヤツがいるのか?

だからこそ、俺に常識を押しつけるんだろう。誰が決めたのか知らない、出る杭を叩き壊す常識を押しつけるんだろう。何たって、みんなには家族っていう常識の権化みたいなヤツがぶら下がっているからな。

俺は気が付いたんだ。

桜子と家族を作ろうと、ぼんやりと思っていた。でも、そんなのハナから無理だったんだ。

なぜなら、俺は相棒が欲しかっただけなんだよ。ラインハルトに付き添うキルヒアイスとか、北斗星司の南夕子とか、それこそ、ミックの隣のキースとか。その結果として、人生を共にしていければ、それで良かったんだ。

みんなにだって、それはわかっていたはずだよ。わかってもらっていた、と信じていたよ。

桜子だって、百も承知だと思っていた。

トラブルが起こるのは仕方がない。でも、その解決を誤ると、それ自体が大事なものまで浸食してつぶしてしまうんだ。

大事なものが、他にあるとそれがニブっちまう。霞んでしまう。見えなくなってしまう。

そのことを気づいて欲しいんだよ。

でも、それは無理なことだよ。家族を捨てろとは言えないし、桜子にだって夢に描いた家族という姿があるのだろう。

だから俺が今クルマを走らせているのは、覚悟を決める為だよ。

消えていくものを、そのまま見送るのは誰だって辛いものサ。みんなの顔を見れば、俺は謝っちまうだろう。

俺だって、そんなに強い人間じゃないよ。

だから、今日でないとそれを逸してしまうんだよ。俺は今日この時間、ココで走っている理由があるんだよ。

相変わらず、ケータイは何度も鳴り続ける。

途中のサービスエリアに入って、チェックしてみる。自分でも情けない。

案の定、大介からのメールが並んでいる。

だが、それはいつの間にか、桜子からのものに取って代わっている。

大介から桜子にメールがいって、もしくは智春から?イヤ、そんなことどうでもいい。

チェックすると、何処へ行ったのか?心配している、と綴られていた。勝手に出ていって、今更心配もないものだ、と思うが。

中に一件、留守電が紛れ込んでいた。

ケータイを耳に当て、再生してみる。

泣き声だった。桜子が泣いていた。

ちくしょう。こんな時に最終兵器カヨ。女の涙は核弾頭三個分に匹敵するな。

あの場所は、もう目の前だった。俺はしばらく逡巡した。

またケータイが鳴った。今度は親からだった。

桜子→親、と。

THE ENDだ。オオゴトになっちまった。

墓参りだけして、帰るという手もある。

でも、なんだか、そこで、俺の心は途切れた。

覚悟する為の翼が、まだ俺には残されていた気がしていた。でも、現実は、どっぷりと現実ってヤツに浸かってしまっていたんだと思った。

形だけ、覚悟を決めても、もうどうしようもないのだ。なんだか、何もかもが、全部、めんどくさくなってきた。何もしたくない。一言も喋りたくない。本当にもう、自分の中のすべてのスイッチが切れてしまった。

もう、眠い、眠い、眠い。

俺は次のインターで降り、そのまま国道を走って帰路に就いた。

帰り道、朝方近く、東の空がコバルト・ブルーに染まった辺り。いつの間にか24時間起き続けていたことに気が付いた瞬間。

クルマは角を曲がりきれずに反対車線のそのまた向こうの電信柱にキッスした。左側の二枚のドアに爪痕が走った。シートベルトをしていた俺は怪我もなく、よろよろとクルマから降りて、その様子を見渡した。

起き抜けの近くの住人が何人か玄関をでてこちらを見ている。新聞配達の青年がヘルメット越しにこちらを見ている。

俺はその場にしゃがみ込んで、呆然とした。何もかもが壊れて落ちていく、その破壊音だけが、頭の中をガンガン鳴り響いていた。

 

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