翌朝、ひさしぶりに昇る朝陽を見た、というぐらいに早起きした。

雅人のリクエストで、ボクが設定しておいた目覚ましより、三十分早く、雅人は二階から降りてきた。

昨夜、ボクのベッドを美麗が占領し、雅人は床に布団を敷いて眠った。隣に一部屋あるのだが、今は物置になっていてそれを片付けるのも面倒で、ボクは階下の例のアトリエで眠ることにした。

アトリエには古ぼけたツイード地のソファがあった。そこにタオルケットを敷き、そのまま横になった。アトリエは不思議なことに、ひんやりとしていて、少し窓を空ければ風が通って心地よい。そんな事は、この部屋に越してきてから初めて知った。

寝るまで美麗も雅人も、ボクの部屋のパソコンで、昔の自分達の写真を見ていた。その多くは、プリントして彼等の家にある。でも、姉弟で昔の写真を見る機会というのも、ある程度の年齢になると少なくなるものなのか。そもそも、ボク自身もパソコンに取り込んでからは、何度も見返したわけではない。

ひさしぶりに見る幼い雅人も美麗も、カメラの前では無邪気に笑っていた。この写真に、千晴はどんな言葉を紡ぐのだろう。そしてそれを、ちゃんと二人には聞かせたのだろうか。

無意味に思えて、そういう言葉は必要なのではないか、と考えたりする。

それがある人生と、ない人生。

ボクは後者だろうな、と思う。

ただ、流れるいくつもの画像をぼんやり眺めていると、そこにあまり千晴が写っていないことに気がついた。ボクは、あの頃無邪気な笑顔にしか興味がなかったのか。

ただ、ボクが額装してある写真には、しっかり三人が並んで写っている。親子三人が自然に集い合っている、それはとても微笑ましい写真だ。今になって見るとそれはとても貴重な瞬間だったんだな、と気づいた。

ボクの方が先に根を上げて、二人を残して部屋を出た。それでもしばらく、二階からは賑やかな声が聞こえていた。ボクはそれを子守歌に、眠りについた。それは悪くない夢への導入部だった。

そして、雅人が洗面所でガチャガチャやり出して、ボクは目を覚ました。慌てて起き出し、ランニングシャツに短パン姿の雅人とキッチンで顔を合わせた。

「おはよう」

朝にふさわしいと言うべきなのか、不釣り合いと言うべきなのか、雅人の声は随分と溌剌としていた。

おはよう、と返したボクの声は、掠れて淀んでいた。まるで酒を飲んだ翌日のようだった。それでも、一応保護者代わりのボクは、朝食はどうする?と冷蔵庫の扉を開けながら、雅人に聞いた。

「好いよ、持ってきた」

そう言ってハンドタオルを持ったまま、さっさと二階に戻る。その後を着いていき、数時間ぶりに自分の部屋に戻った。

ベッドで美麗がタオルケットにくるまってまだ寝ていた。小さくイビキをかいている。お姉イビキが酷くて寝られなかったよ、という雅人の声は、昨晩よりもずっと活気に満ちていた。

昔は二段ベッドで寝ていたのに、二人が部屋を分けたのはいくつの時だったのか。

雅人は自分のデイパックからビニール袋を取り出すと、中からゼリータイプの栄養補給飲料を取り出した。CMでやっているように蓋を開け、あっという間に二袋、ジュルジュルと飲み干してしまう。それをまたビニール袋に放り込んで、それをボクに手渡した。

「これだけでいいのか?

ボクは、ビニールをくしゃくしゃに丸めながら尋ねた。

「十分だよ、今は。家帰ってからちゃんと朝ご飯食べるし」

「家って?おまえの家?

あっさりと雅人は頷く。

「家まで走って帰るよ、それから朝ごはん食べて、今日は午前中、部活あるし」

そう言うと、雅人はボクの椅子に引っ掛けておいたスポーツウエアに着替える。昨日ここに来た時の格好に戻るのに、数分とかからなかった。そして、デイパックを肩に引っ掛けると、スタスタと部屋を出て行った。

ボクたちの声に起こされたのか、美麗が不機嫌な声を出す。

「雅人、静かに行きなさいよ」

目を閉じたままそう言い終えた時には、もう雅人は部屋にはいなかった。

ビーチサンダルを突っかけて玄関を出ると、ハイラックスの前のコンクリート敷きの小さなスペースで、雅人は屈伸運動をしていた。車庫から目の前の私道へと緩やかに下っていて、その傾斜を利用して足首や、腿の筋肉を解している。加速度的に明るさを増す東の空には、背を向けていた。

昨夜、毎朝走るのが日課だから、といって雅人は起床時間を指定した。わざわざ他人の家に来てまで、日課をこなさなくても好いのに、と思うけれど、それがアスリートをやっているものの性なのかも知れない、と受け入れた。ボクは運動部の経験が全くないから、その辺はよくわからないのだ。

「オレ、コレでも一年でレギュラー、狙っているからね」

そういう雅人の通う高校は、さほどサッカーの強豪校というのでもない。その中で覇を争っても、と思っても、それはあくまでも部外者の目でしかない。雅人には雅人の世界があって、そこでの上昇志向に精を出すのは、何よりも必然なのだろう。

ボクが高校生の頃、こんなにまでひたむきになる何かがあったのだろうか?

目標も明確な夢も何もなく、漠然と明日が来ることを信じていたような気がする。それは決して不幸なことではない気がするけれど、何かやり残したような後悔を、ボクの胸の片隅に隠してしまった。そして雅人のような姿を目の当たりにすると、その忘れてきたものの存在を思い出して、幾らか胸が締めつけられるのだ。

「コースはわかるのか?

何も考えずに、雅人が飛び出していきそうで心配だった。ここは雅人の行動エリアとは少し違うはずだ。学校も家も、生活圏が離れている。

「大丈夫、家に帰るだけだから」

家、とボクは思わず訊き返す。

「うん、家に戻るだけだよ」

「ああそうだ、自転車はどうするんだ?

昨日来た時に乗っていた自転車は、美麗のヤツと並んで、ハイラックスの横に駐めてある。二人とも律儀に鍵をかけているのに気づいた。

「夕方、部活が終わったら取りに来るよ、母さんの車で。どっちみち、今日のアシは母さん任せだよ。母さんがここにオレをよこしたんだから、それぐらいしてもらわなきゃ」

へへへ、と雅人はいたずらっ子のように笑った。幼い頃からお姉、お姉、といって美麗の後ばかり着いて歩いていた雅人は、どこかおっとりとしていて明るいけれど、子供っぽい元気さとは少し印象が外れていた。

それが今は、誰よりも快活で汗がよく似合う。

その姿はボクが知っている千晴とも、美麗とも、そして彼の父親とも違う。もっと言えば、ボクの周囲にも少ないタイプだ。それだけに、雅人が随分と自ら成長したことを強く感じてしまう。

入念に屈伸をする雅人の向こうで、陽が顔を出し始めた。新聞配達のバイクが、仕事をこなしてボク等の背後でUターンする。

道路を挟んだ向こうの家の屋根が、昇る陽に染まってキラキラと輝く。その煌めきはそのまま、雅人の横顔を照らす。クッキリとした陰翳の浮かんだその顔は、もう大人の青年に様変わりしていた。

「中学の時から、朝のマラソンは欠かせないんだよね」

雅人は太陽を見ながら、そう言う。

ああそうか、とボクは思う。雅人は、ちゃんと成長し、今という時間を生きているのだ。誰のものでもない、自分の道を歩いているのだ。

「雅人はサッカーが好きなんだな」

自分でも随分陳腐な言い方だな、と辟易したけれど、今雅人を全力で肯定するには、その言葉以外思いつかなかった。

「好きかどうかわかんないけど、身体動かしてないと落ち着かないんだ」

だからさ、と雅人は後を振り向いて、ボクを見た。

「お姉もきっと落ち着かないだけなんだと思うよ。何か、オレにとってのサッカーとか、日課とか、そういうものが見つかれば、自然となんとかなるって思えるんじゃないの」

よくわかんないけど、とつけたして、雅人は今度はアキレス腱を伸ばす。

「夕方ぐらいになれば、お姉も落ち着くんじゃないの?

なるほど、そこまで見越して、雅人は行動していたのか。それがただの思いつきでなければ、意外に雅人は策士だな、と思う。

そういう所は、千晴の抜け目の無さを受け継いでるのかも知れない。いや、案外父親の明晰さの方なのか。

それにしても、ボクの方を見る雅人の顔は、千晴の面影を深く刻んでいる。それが妙に、可笑しくなる。

「おまえ、ますます千晴に似てきたな」

?と雅人は言って、すぐにブスッと膨れる。ボクにはその反応が意外だった。

「似てないよ」

雅人はその言葉から逃げるように、車庫の外に出る。

「でも、ここから家って、相当あるぜ」

ボクの問いに、雅人は事も無げに頷いた。

「だから、昨日からワクワクしてたんだよね。こういうのって、ルーティーンになるとあんまりないから」

そう言ってもう小走りのステップを踏む。

ボクはなんだか、そのまま見送るのが惜しくなる。それは今に限ったことではないけれど、さよならバイバイ、と言って別れるのに、なかなか踏ん切りが付かない。未練を引きずってしまうのだ。思いがけない賑やかな週末が、そのまま思い出に融けていくのが忍びない。

「この近く、広い道が多いから、クルマに気をつけろよ。朝で空いてるからかなり飛ばして走っているからな。信号をちゃんと渡れ。それに結構距離あるんだから、休み休み行って、なんかあったらすぐ連絡しろ」

「わかってるよ、長澤くんこそ、母さんみたい」

雅人はそう言うと、待ちきれない、といった風に走り出した。

少し行って振り返り、ボクに向かって手を振る。

ボクも素直に手を振り返す。

雅人はそのまままっすぐな道を、前を向いて走って行く。ボクはしばらくその背中を目で追った。

向こうの家の屋根から、太陽が完全に顔を出し、辺り一面、朝の光に満たされて輪郭が起き上がる。

さあ、朝だ。今日も一日、暑くなりそうだ。

やがて、大通りに繋がる交差点のところを左に曲がって、雅人は見えなくなった。

また、遊びに来いよ、と見えなくなった背中にボクは呟いた。

さて、後はお姫様のご機嫌だ。ボクは、踵を返して、玄関まで歩き出した。

 

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