校入学のお祝いに、ギターを買ってもらって以来、僕は音楽と付き合ってきた。自らの手でフレーズを奏でる、ということを覚えてから、僕はある程度の自分の人生を決定づけてしまったような気がする。

ただ、根気のない僕は、全く上達しないギターを早々と諦め、ベースを経てドラムに転向した。ドラムは意外に、僕の性に合った。それ以来、ずっとドラムを叩き続けたが、結局高校は、途中で止めてしまった。

一時期は音楽で身を立てよう、と志したこともあったが、次第にバンドで音楽、というよりも、音楽をネタにみんなでワイワイする方が楽しい、ということになんとなく気が付いてしまった。音楽でなくても、気の合う仲間が集まれればそれで良くなった。それ以来、音楽は僕にとって趣味以上の何物でもなくなった。

再びギターを手にするのは、いくつか転職した後に、香川に帰ってきた時に、腰を落ち着けるのなら、自分の究極のバンドをやろう、と決心したからだ。当時ボーカルトレーニングを積んでいた女の子と付き合っていて、周りに高校時代に一緒にバンドをやっていた仲間が、何人かまだ香川に居座り続けていた。

ちょっと真面目に趣味をやる、というので、集まった仲間と、最初のウチはスタジオに入って、昔良くやっていたコピーを演奏していた。しかし、究極のバンド、というには物足りなくて、自然とオリジナルを作ることになった。

僕はその当時のボーカルと、一緒に曲作りに入った。その準備と称して、パソコンを手に入れ、音楽ソフトやらオーディオ・インターフェースやらを、楽器店の店長に勧められるままに買った。そして、ついでにギターを一本買ったのだ。

何で曲を作って良いのか、わからず、とりあえずギターを弾きながら、というイメージだけが頭にあって、それでギターを買ったのだが、いつの間にか、のめり込んでいた。そろそろ体力的に、或る程度の鍛錬を必要とするドラムに限界を感じていたのだ。

それよりは、ギターならどこでも弾くことが出来る。当時勤めていた職場の昼休みに、僕はギターの練習をしていた。そうやって、再び僕はギターに戻っていった。

オリジナルも増え、その間に、メンバーは入れ替わり、その最初のオリジナルを作った女の子とも別れ、今に至る。結局今は、僕一人のユニット、となっている。唯一、もう十年以上、腐れ縁を続けているヤツが一人、ボーカルや曲作りのサポートをしてくれている。

しばらくのブランクの後だったので、曲作り、レコーディング、というモノの雰囲気を、なかなか僕は思い出せなかった。ソフトを立ち上げても、機材に火を入れても、どこかしっくり来ない。使い方は覚えていても、そのクリックの感触や、つまみの重さに戸惑うのだ。

しかし、一度培ったモノは忘れているようで、簡単には消えないモノだ。僕は、準備を重ねているウチに、徐々にその感触を思い出していた。

その間に、彼女の方はというと、着実に自分のペースで歌を歌う体勢を作っていった。仕事で何度か、レコーディングを体験したことがあり、また、ボイス・トレーニングにも通った経験もあった。その時の先生に、教えられたことを忠実に守っている、という。

まずは、ちゃんと湯を張り、自分一人で長い長い入浴をした。ぬるめの湯で半身浴、まるで滝に打たれる修行のように、じっと腰までの湯に浸かっている。

湯から上がると、またいつもより時間をかけて、ストレッチを繰り返した。いつもならいくつかの体操を、ワン・セットやって終わるのを、何度も繰り返す。さらに、そのワン・セットが倍になっていた。

そして、キッチンに入り、野菜を中心にした、品数の多い料理を作って、良く噛んで食べる。それに付き合わされた僕は、普段ほとんど食べないレタスをたくさん食べさせられた。

彼女が入浴している間に、準備はほぼ終わっていた。彼女が湯から上がるのと入れ替わりに、熱いシャワーを浴びた。なんとなく身体がほぐれて、指が動きそうな気がするから、普段もシャワーを浴びるのは希でも、必ず熱い湯で手を洗う。

そして彼女が腕を伸ばしたり、上半身とか半身を逆向きにひねって、息を大きく吐いている姿を見ながら、スケール練習を重ねた。練習というよりは、ウォーミングアップであり、僕は派手な蛍光イエローのタンクトップに七分丈のスエットズボン姿の彼女の肉体が、流麗に曲がったり、伸びたりするのを見る方が面白かった。そのついでにギターを弾いていた、という感じだ。

でも、そうやって、一日が音楽に向かうように始まる雰囲気は、嫌いではなかった。ずっと昔、実家にいる頃は良く、合宿、といってウチに泊まりがけで曲作りや、レコーディングをしていた。もちろん、相変わらず音楽は趣味で、何かを得るためではなく、自分たちが発散するためにやっている。

だからといって、手を抜くのはどうも性に合わない。でも、或る程度で妥協する。そのさじ加減の基準は、とても曖昧だけど、それでも真剣に取り組んでいる、という自分への言い訳が心地よいのだ。お金にもならないことを、真剣にやることほど、面白いことはないのだ。

僕も、そして僕以上に彼女は、エンターテイメントに近い所にいる。表現に、お金が付いて回る。そういう僕らでも、自分たちだけのための表現に、興奮するのだ。真剣に、まるで仕事のように、自分たちのためだけのことをこなす。

コレも一種の仮想現実だと思う。バーチャルな世界は、何もサイバーな空間にしかないわけではないのだ。日常の、先っちょにそんな面白い世界もある。

しかし、幻想の中を旅していても、現実の人間がそこを歩いている限り、肉体にその軌跡は残る。しばらくギターを弾いていなかった僕の指先は、ジンジンと痛み出していた。コレを何度か繰り返すと、堅くなってまたタッチが変わる。チョーキングにかける力が微妙に変わってくるのだ。

少し間を置いただけで、指先の痛みが響いてくる。僕はそれを避けるために、昼食の後も、別のギターをリビングに引っ張り出してきて、フレーズを引き続けていた。おきまりの、ブルース・ペンタトニック。

その横で、彼女は足を組んで、腹式呼吸を丹念にやる。目を閉じ、瞑想をしている。観想や、座禅というより、ヨガの一種みたいだ。

歌うことに、こんなに準備をするのを、僕は初めて見た気がする。僕らは、あくまでも趣味で音楽をやるから、どこかで片手間ですませる。仕事の合間にギターのフレーズを考え、レコーディングの最中に営業のケータイに応答する。そんなことが普通にある。

それでも一日をつぶして、趣味に明け暮れることはあっても、それはあくまでも趣味だ。ここまで真剣に、本格的に、を感じさせられると、僕は変に緊張してしまう。あまり良い傾向とは思えない。

彼女が目を開け、肩の力を抜いた拍子に、僕は言った。

「あまりそう、肩肘張らずにサ。気楽にやろうよ」

「気楽にやっているつもり。こう見えてもネ、歌うのが楽しみで仕方が無いんだから」

だったら、もうすぐに歌い始めればいいようなモノだけど、やはりそれまでの準備に時間をかけるというのは、いかにも女性らしなと思った。

そんなことをしているウチに、昼は気怠い時間になった。サラリーマンでも仕事を再開する時間だ。お昼の長寿番組も終わって、ドラマの再放送の時間になる。

彼女は、飛び上がるようにフローリングの床に立ち、準備OKと言った。

 

ースの中は、楽器倉庫も兼ねているので、彼女が立つスペースは限られる。バンドで顔を見ながら合奏、ということを想定していないので、人一人が入って演奏するスペースのみを確保している。それに、そもそも、パソコンを中心に曲作りをするようになって、打ち込みと呼ばれるプログラミングが主流になった。すると、実際に音を出して、それをマイクが拾う、というレコーディングはずいぶんと少なくなった。それだから、ベッドルームミュージックが浸透したのだ。

彼女がマイクの前に立つと、ドラム・スツール兼用の丸い簡単なイスと、譜面代を置くとそれだけで足の踏み場が無くなる。コーヒーカップにお茶を淹れて、彼女は持ち込んだが、結局それはギターアンプの上に置くことになった。

ヘッドフォンを渡して、彼女が歌いやすいように、自分で音を調節できるようにコントロールするミキサーの操作を、簡単に説明する。

そこで、彼女は喉馴らし、をしたいと言いだした。いきなりレコーディング、というのは想定していなかったが、それよりも前に、何かカラオケのようなモノは出来ないか、と言う。それで、彼女は小型のオーディオ・プレイヤーに、かつて自分が仕事で歌ったことのある曲が入っているので、それを歌いたいという。

僕は彼女のリクエストに応えるために、パソコンにオーディオプレイヤーを繋ぎ、彼女に言われるまま、曲を流した。

町中で良く流れたあの曲が、主旋律を消して流れる。僕は、彼女の声を聴きながら、レコーディングの調整をした。音質的にフラットに、とりあえず録れるように機材をセットする。そうしておけば、後でどうにでも音は作れる。さらに、パソコン・ベースでのレコーディング作業は、編集を格段に容易にした。つまり、良い所取り、が簡単に出来るのだ。素材として、いくつかのトラックを残しておき、そこから音声ファイルを切り張りして、完成トラックを仕上げる、というのは今では日常的に行われている。

それはかつて、熟練のミキサーの腕の見せ所だった。テープをスプライシングしてする編集もあるが、だいたいは、エンジニアがミキサーのフェーダーやミュートボタンを操作して、仕上げていた。まさしく、人力サンプリング、ミキサーで演奏するのだ。

そういう技を、パソコンは容易にした。そして、その技を含めて、お茶の間に浸透させた。だから、誰でもCDが作られる時代になった。僕らはその恩恵に浴している。

ただ、技術が熟練しても、変わらないモノがあると信じている。それが音楽のチカラだ。どんな方法で、世に出る音楽でも、誰かの耳に届く時に、何かが通い合う。最低でも、拒否するなり受け入れるするなり、何らかの反応を促す。時にはしっかりと心を掴んで離さなくなる。

それも古来から、アマチュアもプロも格差はなかった。ということは、きっと、技術が音楽の本来持つ力に、近づいたのだろう。

彼女の音が決まってから、僕はもう一度、ギターを膝に置いた。スピーカーからは、彼女のカラオケが流れている。ずいぶんと調子づいてきたようだ。それとは全く別のフレーズを、こちらはこちらの思惑で奏でる。彼女が今歌っている曲を、僕は良く知らない。

そのうちに、彼女の声が途切れる。僕が顔を上げると、小窓を通してこちらを見ていた。

「どう?」

「良いんじゃないの?」

何がどう?で、何が良いのかわからないが、僕は彼女が歌う気になれば、それでイイのだ。既に準備は出来ている。データも立ち上がっているし、RECのボタンをクリックすれば、彼女の声は記録される。彼女がノートに書いた直筆の歌詞のコピーも、キーボードの上に用意されている。

「まずは、何度か繰り返して歌って見よう」

彼女は指でOKのサインを出す。

まだ、ちゃんとしたバックを流して、CLOSEを歌ったことがなかった。歌詞の確認のために、軽くリビングで歌ったモノしか、僕は聴いてなかった。本来なら、歌詞の変更も含めて、ウォーミングアップを兼ねて仮に歌ってみる。そういうスケジュールを予定していたのだが、彼女は喉馴らしを既に、終えている。歌いすぎて、逆に喉を痛めてしまうことの方が心配だった。

短いカウントに続いて、バックが流れ始める。僕は彼女の横をじっと見つめた。

スピーカーからは、最初のワンフレーズが流れる。トーンは素直だが、リズムが後ろに落ち着く癖がある。いわゆる後のり、と呼ばれるグルーブだ。

ギターソロの空白で、彼女は咳をした。しかし、続いて歌い出した声に、変化はない。

淡々と彼女は歌う。元々の歌が絶唱系の歌い上げるモノではないので、イメージとしてはほとんど違和感はない。彼女の持つ、歌のグルーブも個性として許容範囲のウチだ。

今は声が、ひどくフラットに流れている。イメージとしてはもっと、ウエットな感じで仕上げるつもりだが、それが歌い方やノリに左右されるモノではない。僕は最終形を朧気に想定しながら、彼女の声を頭で変換しながら聴く。

最後まで歌いきって、僕はデータを停める。

どう?と彼女が不安げな目をこちらに見せる。

「特に注文はないよ。いい感じだ」

「ここ”たたずむ”のところが歌いにくいっていうか、音程聴いてて変じゃなかった?」

「気にはならなかったけど?」

じゃあ、もう一度、といって、再びデータをスタートさせた。

僕は一応、スピーカーではなく、ヘッドフォンをして彼女の声を聴いた。音に集中する時には、必ずそうする。

先ほど彼女が気にしたフレーズは、特に注意するほどでもなく、すんなりと流れていく。他に何か見あたるモノはない。僕は安心して、聴いていられる。イスに座り直して、ギターを構える。

よっぽど音程をはずすとか、タイミング間違えるとか、歌詞がはっきりしない、という以外は、後は歌い手である彼女の判断になる。突き詰めていけば、彼女が気持ちよく歌えれば、それでかまわないのだ。音程をはずしても、タイミングが微妙でも、歌詞が手元のコピーと違っても、彼女が僕にその判断を仰がない限り、歌い手本人の気持ちよさが前提になるのだ。少なくとも、僕はそうやってコミュニケーションしてきた。

そういう意味では、彼女の歌はとても安定していた。僕は後半、彼女が歌っている姿を見続けていたが、彼女はもう歌詞のノートを見ていなかった。何時の間に覚えたのかわからないが、自分の言葉として歌っていた。

それから、練習、と称して後二度ほど繰り返した。僕は、ギターソロの間、ギターのボリュームを上げて、フレーズを模索した。その間だけ、彼女がこちらを向いて、僕を見ている。定まらないフレーズに戸惑うウチに、短い小節が終わり、歌が再開する。

何でもないことだけど、壁を挟んで、一緒に演奏をしている気がする。

二度目に歌い終わった時に、彼女がぼそりと言った。

「一番最後のソロのフレーズ、結構良かったな。覚えてる?」

僕は手癖で流したフレーズを思い出し、弾いてみる。

「そうそう、それそれ」

彼女のジャッジメントは、僕の心を軽くした。だいたい、ソロのフレーズをフィックスする前に、迷いが生じるモノだ。その迷いを抱えて何度も弾いていると、時々滅入ってしまってうまくいかなくなる。その前に、彼女が判断を下してくれると、僕はそれを信じて、スタートを切れるのだ。

「諸々よろしければ、いきましょうか」

コレは、本番を始める僕の口癖だ。僕と一緒に曲作りをした連中は、みんなこのフレーズを聴いている。

「よろしくお願いします」

彼女はそう答えた。そんな風にいわれたのは、初めてだった。

  

女のレコーディングは、あっという間に終わった。あっけない、とすら思った。ほぼ、最初のRECボタンで、完成品は録れた。後は彼女の気持ち次第で、二、三回繰り返したが、一応バックアップのような意味以外に、特に変化はなかった。

まさしく、準備半日、本番5分、である。

僕は、レコーディングの最中にも、ギターソロのパートが来ると、弾いていたが、フレーズが決まる前に、彼女は仕事を終えてしまった。それ以降は、彼女と向かい合ってフレーズを完成させた。

実家から持ってきたギターは正解だった。フロントピックアップにセレクトして、また指で弾くと独特の甘い感じが香った。ほぼ彼女のリクエストに沿ったフレーズをなぞると、短い空間に、適度なアクセントが産まれた。

二人してプレイバックをして、互いに顔を見合わせて、レコーディング終了、を確認した。

一度休憩をするためにリビングに戻った。時計は長針が二周ほどしかしてなかった。

本番のレコーディングは数度しか歌ってないが、考えてみれば彼女は朝からずっと歌うための時間を費やしてきた。その結果、素材は完成し、仕事は終わった。彼女はそのことに満足していた。重荷から解放されたように、リラックスしてソファに横になった。

「完成したね」

彼女は明るい声でそう言った。

「まだだよ、ここからがオレの本番」

素材をまとめて、音を造り、バランスを調整して、聞きやすくまとめる。いわゆるミックスダウン、という作業が残っているのだ。

元々、機械を扱うのが好きで、音楽のアーティスティックな部分に、エンジニアリングという技術的なことが加わって、両方合わせて音楽が完成することを知った時に、僕は本当の音楽の魅力にとりつかれたのだと思っている。元来、アマチュアにエンジニアリングは、無縁の代物だった。それが、技術の進歩で、そこまでアマチュアが踏み込めるようになったのだ。それは僕にとって、楽しみの範囲が増えたことになる。

僕らはコーヒーを一杯飲んで、また仕事部屋に戻った。僕はパソコンの前に座り、彼女はその後ろでスツールに腰掛ける。

ソフトをミックス用の画面に切り替えて、前処理を施す。単純な作業だ。

それが終わると、まずはボーカルから音を決めてゆく。彼女の声だけが何度もプレイバックされる。その間に、僕は細かく、専用のソフトを立ち上げて調整してゆく。

ボーカルが終わると、本来はリズムの音を決めてゆくのだが、CLOSEにはリズム楽器は一切入ってなかった。なので、その代わりを担う、ピアノのフレーズを決めてゆく。

音決めは、元々の音数が少ないので、簡単に済んだ。一番やっかいなのは、全体のバランスだ。音の大小や、位置だけでなく、全体を鳴らしてみると、干渉する部分や、変な間が出来る所が見えてくる。それを調整するのだ。ここで、この曲のカラーが決まる。

CLOSEは、何度もロケハンしたおかげで、僕の目の前には一枚の抽象画が透けて見えていた。それと同じモノがスピーカーから流れてくるように、輪郭を整え、色づけしてやるのだ。エコーの深さを調節し、イコライザーで音質を調節する。時には、パラメータに時間的変化を書き込んで、部分部分で風景に見合った演出を施す。

しっかりとしたバンドスタイルの曲よりは、遙かに色づけは容易だったが、それでも二時間ほどは費やす。何度も同じ曲を聴き返し、マウスで細かなクリックを繰り返し、数字を打ち込んで保存する。

僕はそうやって、少しずつ、曲に色が付き、絵画というよりは舞台のセットのような、奥行きのある画像が浮かび上がる、そのできあがっていく課程が好きだ。自分の中で、漠然とした想い、みたいなモノが、どんどん形になって目の前に積み上がっていくのだ。そしてやがて、心をきゅっと、掴まれる瞬間が現れる。僕はその一瞬を求めて、長い旅に出るのだ。

しかし、後ろで見ているだけ、聴いているだけの彼女には、少し退屈だったようで、いつの間にか部屋を出ていた。僕がヘッドフォンをはずして、後ろを振り向くと、彼女はいなかった。仕事部屋をでて、リビングを覗くと、そこには居らず、結局ベッドにで大の字になって眠っていた。

一応声をかけると、彼女は眠りについたばかりだったのか、ひどく物憂げな顔をした。気怠い声で唸って、それでも起きあがった。

今度は僕はイスを後ろに引き、彼女と並んでプレイバックする。少しボリュームを上げて、音に浸かる。

シーケンサーが鳴り、ピアノのフレーズが絡む。雲のようにストリングスのフレーズが覆い被さり、背景に色が付く。

そこに彼女の声が現れる。素直な声よりも、低音がカットされて少し掠れた声をしている。そこに深いエコーと細かなディレイが重なり、幻想的な声になっている。

背景が質素なので、彼女の言葉が一言、一言際だって流れる。

やがて、ギターのフレーズに受け渡される。ボーカルと同じような処理を施されている。指で弾いた音が、ピンと目の前で閃く。甘い音の割には、輝かしい音をしている。

それが終わると、彼女の言葉が繰り返される。声は流れ、言葉は過ぎてゆくが、単調なメロディーが、しっかりと刻み込まれる。

それはやがて、背景の中に溶け込んで、言葉すら色を放つ。夕陽の赤に、空気さえも染まったような、そんな印象を残して、音は消えていった。CLOSE、というキーワードが、心の中で色を持って留まる。少なくとも僕は、そのことに感動を覚えた。

「イイね」

彼女はそう、一言。併せて、自分の言葉が、メロディーになって、音として刻まれることに、感慨深い笑顔で応える。

「お気に召しましたか?」

頷いた彼女を見て。僕はようやく、ホッとした。

  

ちらから言ったわけでもなく、しかし、明日は早いから、という理由で、それからの日常は少し前倒しで進んだ。僕が最後の仕上げとして、できあがった曲をmp3に変換して、彼女のオーディオプレイヤーにコピーしたり、僕のクルマ用にCDに焼いたりしている間に、彼女は台所で夕食の準備を始めた。

彼女の手際は、すこぶる調子よく、あっという間に夕食が完成する。テレビにつなげたDVDプレイヤーに焼いたばかりのCDを乗せ、何度も出来たばかりの曲を流す。それをBGMに夕食を囲んだ。

だから、夕食の間に交わされた言葉は、ほとんどが自分たちの曲の感想だった。じっくり何度も聞き返すと、所々で粗が見える。思いがけず、創作時の想いが零れ出てくる。僕らはそれを、丁寧に語り合った。

料理を全て食べ終わった後で、彼女は小さくこう言った。

「少し余分に作ってあるから、明日の夜にでも暖めて食べて」

それはたぶん、どうしても語りたくなかった明日からのことが、初めて僕らの間に提示された瞬間だった。言った彼女は、それをとても残念そうに言った。言われた僕は、何事もなかったように、ありがとう、とだけ云った。

それから食器を洗いに僕がキッチンに入り、彼女はソファに座って、DVDプレイヤーのメーカーロゴが浮かんでいるテレビ画面を見るともなく、見ていた。相変わらず、僕らがふたりで作った曲はリビングに流れている。

食器を洗いながら、僕は奇妙な感覚にとらわれた。たった二、三日、この場所に主が現れた。まるで家具の一部でしかなかった、このシンクや食器棚のスペースに、風が通るようになっていた。すると、そこは本当に生活がぴったりと張り付いていて、水滴のひとつひとつが命を宿していた。

それを明日から、また風化させてしまうのはとても惜しい気がした。でもたぶん、僕はまたここに埃まみれにする羽目になるに違いない。でも、僕は彼女に言わずには居れなかった。

「オレも、料理とかしてみようかな」

その言葉が出る瞬間、僕は恥ずかしくなって滑舌を悪くした。歯切れの悪い僕の言葉に、彼女は苦笑する。今になって気が付いたが、乾燥機に並んだ皿やカップが、ひとつのブランドで揃えられ、キレイにペアになっている。たぶん、僕にはないセンスだな、と思う。誰か違う人間が重ねるセンスだと思った。

それから僕らは、バスルールでゆっくり湯に浸かった。

「今日は一日、家にいたね」

彼女はそんな風に言った。

「なんとなく、初めてみたいな気がする。ずっと一緒にいたのにね」

その言葉に、僕は申し訳ない気分でいっぱいだった。ふと、島根から離れる日の夕方の景色を思い出した。あの時感じた、何かやり残したような、後ろ髪を引かれる感覚。でも、旅はまだ終わらない、という安心感。

その魔法も、今日で途切れる。

急に、僕は思いだしたように、彼女を後ろから抱きしめた。彼女の柔らかい肌の弾力、濡れた髪の匂い、項に小さく覗いた黒子。何だ、こんなところに黒子がある。僕は口づけた。こんなに一緒にいたのに、気が付かなかったよ。

一緒にいたのに、どこまでも重ならない、感覚。それは、別に今に始まったわけでもなく、彼女に限ったことでもなく、たぶんそれは、僕の中にずっとある性根、みたいなモノのせいだ。間違っても彼女のせいではない。

だから僕は、イベントを考える。観光をしに、夕陽を見に、一緒に曲を作り。

それは、確かに心をすりあわせる確認ではあったのだけど、だけど、それはどこまで行ってもひとつにはならないことの確認でもある。

何をしても、それはふたりの間につきまとう。きっと、僕はこの旅が終わる頃には、そのひとつになった実感、というものが得られるはずだ、という希望を持っていた。でも、何か時間ばかり過ぎ、焦りばかりが募り、それが果たせたかどうか。

確かに、僕らは近づいたのだと思う。何もないよりも、僕らは有意義な時間を過ごしたはずだ。

でも・・・と思う。

ふと、或る曲のワンフレーズが、僕の頭に浮かぶ。それはまるで、忘れていたオルゴールを見つけて、ふたを開けた時のように、突然あらゆる感情と共に、頭の中で緩やかに流れ始めた。

    

    たったひとつ たったひとつ

    残してやれたのは 冷たさだけ

    

僕が二十歳の頃、熱心に追いかけていたバンド、SHADY DOLLSの「たったひとつ」という曲だった。アコースティックギターのストロークがもの悲しい、しんみりとした曲だ。

そして、まるで僕を責めるように、最後のフレーズを繰り返す。

    

    欲しいものは いつも雲の上

    おまえじゃなくて 空の上

   

僕の口を、思わずそのフレーズがついて出そうになる。だが、それを制するように、彼女が口ずさみ始めた。バスルームのエコーが、彼女の声を柔らかく解き放つ。

    

    長い闇を切り裂いて 目覚めたての朝のなか

    辿り着いた場所にきっと 君が待ってる

   

親不知のパーキングエリアで、彼女の前で僕が口ずさんだ曲だった。

「あ、覚えてたんだ」

僕がそう言うと、彼女はだって、と笑った。

「あのあと何度もクルマの中でリピートしてたでしょ?覚えてるよ」

じゃあコレは?と僕は、海辺の喫茶店で流れていた、ソロモン・バークを歌って見せた。嗄れた、悲しみを抑えつけたような歌い方を真似してみる。

「覚えてるよ、って言ったでしょ?ご飯食べた時だよ」

下手くそだけどね、と今回は付け加えた。僕は彼女の脇をくすぐる。彼女が身もだえするたびに、パシャパシャと湯が波立つ。それがひとしきり収まると、彼女はクルリと体を交わして、僕を正面から見据えた。じっと、僕の目を大きな瞳が射抜く。

「でもね、パパは気が付いていないかもしれないけど、毎日のひとつひとつが、私にはちゃんと刻まれているんだよ。私は、刻みつけようと思って、この旅の最初に思って、そしてちゃんと、刻まれたよ」

それはまるで、僕を慰めるような言い方だった。でもそれは、充分に、僕には慰めになっていた。というより、それはきっと、彼女自身の、この旅のケリの付け方なのだろう。明日から始まる、戻ってゆく、日常というものへの準備なのだ。

僕らはゆっくりと、旅の終わりを確認し合っていた。

    

   

    

上がりに、リビングのライトを落として、テレビも消して、僕らはフロアに直に座った。カーテンを開けると、ちょうど月がキレイに見えていた。僕らはベランダに続くガラス戸を開けて、月を見上げた。

もう、ずいぶんと、夜風は涼しくなっていた。

「この浴衣」

彼女はそう言って、浴衣の袂を持って、月明かりにかざした。

「明日洗って干しておくから、ちゃんと畳んでしまっておいてね」

「持って帰らないの?」

「もう季節じゃないし、それにコレは、パパの部屋専用」

彼女は袂をゆらゆらと揺らす。

「明日朝とか、バタバタ忙しいよ」

そう僕が言うと、

「私が洗ってく。ユウさんに洗ってもらうのは迷惑だろうし」

彼女がそう言って、舌を出すのが見えた。そして、袂をパタパタと、鳥の羽ばたきみたいに遊んでから、ストンと僕の膝に寝転がった。

「コレは、パパの部屋の私専用」

自分に言い聞かせるように、彼女はそう言った。同時に、僕は釘を刺される。

そのまましばらく、僕らは何も喋らずに、ただ、月を見ていた。窓を開けても、聞こえるのは、ぼんやりとした喧噪だった。何が発しているのかわからないが、街は音を発てていた。それが混沌と解け合って、言葉にならない言葉を紡いでいるようだった。時折それを切り裂くように、車が通りすぎる音がする。電車の汽笛が重なる。遠くで船が鳴いている。

「今度、いつ、東京に出てくるの?」

ひとつひとつ、言葉を句切って、彼女はそう言った。はっきりとその言葉のひとつひとつが、僕の耳に届いた。

「予定は、ないよ」

その答は、お互いに想定済み、だった。だけどたぶん、彼女は、奇蹟を期待していたはずだ。そして、僕も奇蹟を用意するべきだった。

でも、僕には踏み出せなかった。

僕らはきっと、既成事実を重ねて、長い長い道のりの半分を乗り切ろうとしている。恋人たちのほとんどが、そのスパイラルに呑まれると、それを楽しみと勘違いする。少なくとも、僕はそれで浮かれるほど、若くはない。

彼女の流麗なラインに、僕のようなくすんだ色が塗られて、不格好なアイコンを形作るのは、どう見ても美しくない。それは最初からあきらめていた。きっと、そうだと思う。

だけどそれも、長いこと見ているウチに手に馴染んで、そういうものだと思えるかもしれない。僕らはその入り口にいると思う。だから本当は、僕は一刻も早く、また彼女に会うべきだと思う。

でも、僕はその努力が、いつか潰える想像を、簡単に出来るのだ。何のもくろみもなく行動を起こせないように、何の担保も無しに、未来を描くことが出来なくなっている。

イヤ、未来を思い描くのは容易い。だけど、それが心地よいものばかりとも限らない。特に僕は、と思うのだ。そのことを僕は、ちゃんと彼女に訊くべきで、だけど、訊くべきではないのだ。

そう、僕にとっての奇蹟は、彼女が彼女の方から、全てを許す、と言われることだ。

僕が手を差し伸べるから、その手を取っておくれ。そうしてくれれば、僕は大空も飛び立っていこう。そう歌ったのは、U2だった。僕はそれをずっと、ずっと、試してきた。

何人もが手を取ってくれた。だけど、それは結果、僕の翼をもぎ取っていった。

僕が欲しいものは、そのもっと向こうにあるのだ。雲の上のさらに向こうへ。そう思いたいだけかもしれないが、きっと、それは間違いではない。

だから、たとえ彼女が僕の手をしっかりと握っていても、きっとそれは離される。

それを乗り越える何か、とはいったいなんだろう?

僕にもわからないものを、僕は求めようとしている。彼女なら知っているのかもしれない、そんな風に。

でも、たぶん、僕が何か変わらない限り、きっと奇跡は起きない。求めるものをぼんやりとでも、イメージできるようになるには、僕らは出逢うのが早すぎた。

そう、ただ、早すぎただけなのだ。

僕に多くの失敗がなければ、彼女との関係もすんなりといくのだろうか?それもどうも、違うような気がする。僕はきっと、別に過去にとらわれて、逡巡しているのではないのだろう。

コレが僕、本来の姿なのだ。

「また、逢えるよ」

そんな風に言う僕は卑怯だ。そんな風にしか言えない僕は、愚かだ。

そんな僕を見透かしたのか、彼女は何も応えない。

「逢いたくなったら、逢いに来ればいい」

僕は卑劣の上塗りをする。どうか僕を、嫌ってくれ。

「それはパパも、一緒だよ」

「そうしたければ、そうする」

「それは、今は逢いたくない、ってこと?」

そんなことないよ、と言って、僕は彼女の髪を撫でた。その手を、スッと彼女は払いのける。

「昔或る女の子がね、僕に言ったことがある。一ヶ月30日、ずっと一緒にいたい人と、一日でも良いから自分の時間を持ちたい人がいる、って」

「パパはどっち?」

「一日は独りでいたい方」

断言した。それに偽りはない。

「ずっと一緒にいたくなる人が現れたら、オレはその人とずっと一緒にいるよ」

彼女は僕はじっと見つめた。僕をまっすぐに、視線を射る。

「イヤ、間違い。ずっと一緒にいたい、と言ってくれる人と、ずっと一緒にいる」

彼女は、小さく、本当に小さく、唇を開いた。影が揺らぐぐらいの微かさを、僕はそれを見逃さなかった。僕は彼女の唇を見つめた。月影に陰影のくっきりとした、唇の動きをじっと見つめた。

それは僕には、ずっと、と言いかけて、止まっているように見えた。そう見えた。そう見たかったのかもしれない。

しかし、彼女はそのまま、じっと静寂の中に沈んだ。そのまま、また、部屋の中が、月明かりの静寂に溶けてしまう。

と、何かがすっと横切って、緊張が解けたような、奇妙な溜息が漏れた。と同時に、彼女は横を向いた。

「わがままだね」

彼女はそう言った。僕はハハハ、と乾いた笑い声を漏らした。

「そうだよ、オレはわがままだ。オレは俺の好きなものを、愛してくれる人を愛する。オレの行く所を愛し、オレの愛でるものを同じように慈しむことが出来る人」

本当に、わがままだね、と彼女は笑う。

「でもね、オレが嫌うものを、嫌いであって欲しくはない。俺が嫌いなものを、嫌う必要はないんだよ」

もっと、わがままだ、と彼女。

もう一度、浴衣の袖を掴んで、袂をヒラヒラとはためかせると、彼女は蝶のように起きあがった。上半身を起こし、そのまま、ベランダの方に身を乗り出す。月を仰ぎ見て、肩を揺らす。その仕草に何の意味があるのか、僕にはわからない。

「私が生まれて初めてぐらい、男の人と一緒にいた旅だったんだよ」

こちらを振り向いた彼女が、そう言う。僕の方からは影になって、彼女の表情はよくわからなかった。やけに背後の月が眩しく感じる。

「ドキドキしたし、楽しかった。本当に楽しかったんだよ」

うんうん、と彼女は二度、頷く。僕も同じように頷く。

「旅が終わるのは、寂しい。だから・・・」

彼女はまた、口をつぐんだ。代わりに、頬を光るものが流れ落ちた。

「ずっと、とは言えないけど、もっと、一緒にいたいよ」

ああ、そうだな。僕は手を伸ばした。

「ゴメン・・・」

そう言って彼女は僕の手を、手のひらで押し返した。もう少し、と言ったまま、低い嗚咽が続いた。

「一緒に作った曲、宝物だよ。一緒に作ろうっていうそういう所が、好き。たぶん、それが絆、なんだと思う」

手の甲で頬を拭って、彼女は鼻をすすり上げる。

「ねぇ?パパは自分のことが好き?」

「俺自身・・・と言うこと?」

彼女は頷く。

それは僕には、一番つらい問いかけだった。僕はきっと、自分を愛でようとする自分が、嫌いなのだ。

「パパ・・・いや、あなたが好きなものを、私は好きになるんだよ」

不思議な感覚だった。その言葉は、僕の中の何かを空っぽにした。プログラムされた動きではなく、昔の機械仕掛けのおもちゃみたいに、その言葉が穴に嵌って、カチャカチャと歯車が回り出して、僕の心の中にあったバケツが、ひっくり返った。

その中に泥のように貯まっていた、何かがどろりと零れた。零れた拍子に、自分の重みで、それはドサッと下に落ちた。落ちた後には、茫漠とした浮遊感のような、妙に体重が軽くなったような、そんな感覚が僕を捉えた。

コレはいったいどんな感覚なんだろう。初めての経験のようで、ひどく懐かしい。

何だろう?

そうだ、コレは、幼い頃、思いっきり泣いた後に、ぽっかりと空虚な心持ちに唖然とする、あの感覚だ。それまでの自分を、どこかに置き忘れたように、心が洗われるような、すがすがしい気分に似ている。

同時に、きっと僕は、明日にはこの感覚を忘れるだろう、と思った。それは本当に、風のように駆け抜けてゆく、という感覚なのだ。

それが日常に戻る、ということだ。なだらかな坂道を、のんびりと下りてゆく、そういう毎日に帰る、ということだ。

でも、僕には背負う荷物がない。というより、ずいぶんと軽くなって、快適だ。重みに辟易することも、足を取られて転ぶこともないだろう。

少なくとも、しばらくは。

なぜなら、僕はこの月明かりに逆光で、僕を見つめる彼女の姿を、ピンナップのようにフィックスし目に焼き付けることが出来たからだ。そのピンナップが胸にある限り、僕は、彼女の問いかけに応えるように努力するだろう。

彼女がそこにいても、いなくても。

旅は終わった。楽しかった旅は、終わったのだ。

  

  

  

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