日も朝から良く晴れていた。僕はずいぶんと早く目が醒めてしまった。ベッドルームに面した窓は、いつもカーテンが引かれてあったが、リビングに出ると陽光はくっきりと朝の輪郭を浮かび上がらせていた。

僕が起きても、彼女はまだベッドのシーツにくるまったままだった。こんぴらさんの階段が相当応えたらしい。浴衣に着替えるまもなく、下着姿のままで寝ていた。それは僕も同じはずだったが、二度寝を決めこもうとしても目が冴えてしまって結局起きてしまったのだ。

僕は新聞を取り、のんびり眺めてから、仕事場に入って読みかけの本に取り組んだ。

いつの間にか彼女は起きていて、リビングのテレビを点けて床に転がっていた。彼女も、一昨日の続きを読みながら、無造作に足をバタバタ遊ばせていた。

仕事部屋を出て、おはよう、と言うと、彼女はすっきりした笑顔でおはよう、と返した。僕はキッチンで今日三杯目のコーヒーを淹れる。

「ところで、歌詞は出来た?」

僕がそう訊くと、彼女はう〜んと唸って、仰向けになる。

「メロディーにあわせて歌ってみるんだけど、今ひとつしっくり来ない」

どうもロケハンはうまくいかなかったようだ。昨日は山ばっかりだったでしょ、と批判めいた目で僕に言った。

「でも、どこからでも海が見えるのが、香川の特徴だよ」

そうだけど、と彼女はまたゴロリと転がって、今度は俯せに寝る。後ろで手を組み、上体反らしをする。まっすぐに伸びた喉から後のラインが、とてもエロチックに見える。その姿勢でフィックスしたまま話す。

「あの曲の印象なんだけど、もうちょっとウエットな気がするのね。山の植物の、サラサラした感じとはちょっと違う。もっとじめじめしてる」

彼女はそのまま、いくつか体勢を変えて、ストレッチを続けた。深い呼吸を繰り返して、その都度、身体が伸びる。柔らかいな、と僕は思う。

「朝から、元気だね」

「昨日よく寝たから」

そのまま、コーヒーカップを手に、僕は仕事部屋に戻った。しかし、なんとなくもう文字には集中できなかった。パソコンに火を入れ、ネットに繋いでみる。彼女が述べたキーワードを元に、思いつくまま検索をかけるが、何かに辿り着く、と言うことはなかった。

昨日実家から持ってきたギターケースを開ける。手に取ってみて、手癖で短いフレーズを弾いてみる。錆がキシキシと鳴る。気分転換に、弦を替えようと思う。

僕はちょっと、リビングの方を覗いてみた。彼女は床に寝ころんだまま、ストレッチを続けている。薄いイエローのタンクトップの背中が見えている。

こういうのを、気を遣うというのかな、と思いながら、僕はギターの弦を取り替えにかかる。

作業の間、ふと思い出した。昔のある日曜日のこと。

その日、僕は泊まりがけで当時付き合っていた女の子の家に遊びに出かけていた。土曜の夜、その娘の手製の夕食を終えた後に、連絡があって急遽休日出勤になった。そのころ僕はまだ実家に住んでいて、木工工場でNCを動かしていた。

翌朝、その娘の部屋から出勤し、何とか昼までで仕事を終わらせた。その娘に今から帰る、とメールしようとケータイを見ると、友人からメールが入っていた。そいつは近々引っ越すから、その時に或る漫画の全巻を僕に譲ってくれる約束をしていたのだ。それを取りに来ないか、という誘いのメールだった。ついでに、そいつの嫁さんや子供たちと晩飯を一緒にしないか、と。

僕は女の子を優先して、また今度、という返事を返した。そして、女の子の部屋に戻ると、その娘はお帰り、といって向かえてくれて、昼ご飯を用意してくれていた。それから、半日何もせず、ただ、その娘と肩を並べて夜まで過ごした。

あの日、僕は幸福感に包まれていた。何かの渦中にいる時に、幸せを感じることは希だ。だいたい、後になってあの時は、と気が付くことが多い。

でもその時は、確実に、僕は今、こういうことを幸せに感じるんだな、と実感していた。

仕事、恋人、友人。かけがえのないモノが、みな僕を気にしてくれている。そのことが、とてもバランス良く、そして何気なく、僕の目の前にあったのだ。そんな昼下がりを、僕は幸福に感じた。当たり前のことを、当たり前に幸せだと思えたのだ。

それに比べて、今は、何かが突出して目立ったり、消えて無くなったりしている。あくまでも、そのころと比べて、ではあっても、きっと歪なバランスを取っている。それを望んだのであるし、また結果に不満はない。

でも、今リビングにいる彼女の存在が、僕にはあの懐かしい、甘い想いを呼び起こさせる。そういう幸福を、僕はもう一度取り戻せるとは思っていないが、しかし、なんとなく希望を持てる程度に、僕は幸福のしっぽを掴んでいるような気がした。

危うい綱渡りではあったが、それでも今、僕は彼女を気にしていて、彼女もきっと、僕がここにいることを感じているはずだ。その距離感が、やっと僕らはつかめてきたのだ。

その、何かが始まるような淡い予感に酔えること、そのことこそが、本当に幸福な瞬間なのかもしれない。

僕は弦を張り替え、新しい手触りでしばらく、思いつくままのフレーズを並べた。二人で作ることになったあの曲に、きっとこのエピフォンの、フロントの音が合うはずだ、と直感で思っていて、それは甘く、柔らかい音がする。彼女が、ウエットな感じがする、という感覚は、なんとなくわかる気がする。

レコーディングする時は、一発勝負だ。その場でフレーズを考えて、決まったら何度か繰り返して、レコーディングする。日をまたぐ時は、また別のフレーズを考える。そういうスタイルで、だいたいの曲は完成されていた。今度も、僕は先入観無く、レコーディングの時間まで待っていた。

ただ、今度は、あの幸福感に満ちた、音を出したいと思う。あの日経験したささやかな幸せを、もう少しだけ、先に進めたような、甘い感じ。そんなフレーズが浮かぶことを、ぼんやりと夢想していた。

  

ター弾いてるんだったら、どっか連れてって」

僕は調子づいてギターに夢中になっていると、口をとがらせた彼女が仕事部屋の扉を開けた。反射的に、どこ?と訊くが、どっか、としか応えない。

僕はリビングに戻った。二人で食卓の前に相対して座る。

「何か今ひとつ、イメージが沸かないのね」

どうも彼女は、歌詞が浮かばないことを気にしているらしい。そういえば、彼女は後一日しか、香川にいられないことに、僕は気が付いた。それで、焦っている。

「そんなに無理しなくてもイイよ。また今度、っていうのも無理じゃないし」

彼女は何度も首を左右に振った。

「明日までに、完成させたい」

キッパリと言い切った。そして真剣な眼差しで僕を見据えた。

「パパはどういう感じで、この曲を作ったの?」

僕はしばらく考える。この曲は、数年前に作って、彼女に訊かせるまでの所で止まっていた。作った段階ですぐに、本来歌詞や歌を担当するメンバーには、イメージを伝えたはずだが、それは今は朧気にしか記憶していない。

「そういうの覚えてないんだよ。ただ、なんとなく夕陽、とかそういうイメージがあったのだけは覚えているよ」

彼女はキッチンの傍らに置かれたメモを目の前において、ボールペンで僕の言葉を書き写す。

「それっていつ頃?」

「今ぐらいだよ。夏が終わるなぁ、っていうので、ピアノのフレーズが思い浮かんだんだよ。何かを手に掴みそうで、転がっていくような感じ。夏休みの終わりに、もっと遊びたかった、みたいな感覚だよ」

夏休み、終わり、転、といちいち丁寧に、彼女は言葉を記してゆく。

「ギターとかは?」

「それは、君が言ったとおりにウエットな感じ、というか、甘い感じの音を出したいと思ってる。昨日持ってきたギターのフロントの音で、そうだな、指の腹で弾くような。だから、ミックスも、エコーを深めにかけて、水滴が滴る感じにしようと思ってる」

結構あるじゃん、といいながら、彼女は水滴、とメモした。それにウエット、と付け加えて、その下に二本線を、キュッキュッと引いた。

「やっぱり海?夏休みとか、ウエットなら、海」

キーワードという絵の具を塗り重ねて、絵を描いていくような作業だ。しかし、意外に無駄のような気はしない。イメージがどんどん膨らんでいく。

「でも、海に潜る、青色、っていうのはちょっと違うなぁ。青色より、夕方の赤」

「混乱するなぁ」

彼女は口をとがらすが、青より朱色、と書く。

「とりあえず、海沿いを、西へ?」

「それ、またロケハンだね」

彼女はにこっと笑って、頷いた。どこからどう見ても、媚びを売る営業スマイルだが、どうも、この華やかな笑顔には勝てる気がしない。

  

女は昼食にフレンチトーストを用意した。厚切りのトーストに、卵。どちらも普段は、僕の冷蔵庫には入っていない代物だった。

なんとなく、昨日の反動か、僕らの動きは緩慢だった。集中力に欠けるというか、ずいぶんとダラダラと用意をして、部屋を出た。彼女は、また鏡の前で何度も着替えて、最終的に白のTシャツの上に、薄いブラウスをだらしなく着こなした姿に落ち着いた。ミニスカートを迷って、結局少しボトムの広いジーンズにする。歩きやすさを優先した、のだそうだ。

クルマを出して、ふと給油ランプが点灯しているコトに気が付いた。僕がセルフのスタンドに寄る、というと彼女は、目を輝かせた。東京に住む彼女に、セルフで給油する経験は皆無だった。

彼女は嬉々として、給油の作業のひとつひとつを、楽しんでいた。まるで子供のように、全部自分でやると言ってきかない。僕は指示だけ出して、フロントガラスを丁寧に拭いた。いつもは簡単にすませるが、今日は、全ての窓を拭いて回る。

何でもない作業が、彼女のテンションを上げたのか、クルマを再スタートさせた頃にはずいぶんとご機嫌だった。

僕はとりあえず、サンポートに向かった。その名の通り、香川の海の玄関であり、高松の街の玄関だ。昔は、ここから連絡船が岡山まで出ていたが、瀬戸大橋が開通してからは、瀬戸内海の島々に渡る船が主で、本州へ行くルートは大部分が電車に取って代わった。

地下の駐車場に止めて、僕らは広々とした空き地を歩く。所々にオブジェを飾ってあるが、だだっ広い芝生、という印象しかない。少し行くと防波堤が長く続く船着き場になる。先端には灯台があり、そこまで遊歩道が延びている。昔は釣り客しかいなかったが、今はちょっとしたデートスポット、観光スポットに整備されている。

島の多さがそうさせるのか、船の行き来が頻繁だ。少し見渡せば、確かに瀬戸内海は様々な船が行き交っている。タンカーから小さな漁船まで、縦横無尽だ。のんびり眺めていても、飽きることはない。

しかし、イメージじゃない、のは、二人ともすぐにわかった。一応ブラブラと歩いてみたが、こういうんじゃないよね、と彼女が言って、僕らは引き返した。

一度高松駅の方まで行って、横のスーパーでペットボトルのジュースとスナック菓子を買った。

駐車場を出て、そのまま浜街道、を走る。コレも瀬戸大橋が出来、宇多津の街の塩田が埋め立てられて、整備された道だ。五色台を貫くルートが、以前は有料だったのが、無料開放されてからは、高松と坂出・丸亀を結ぶ最短ルートになった。そのうちこっちの方が、国道になるかもしれない。

浜街道、というだけあって、海沿いを通るが、見晴らしが良いというものではない。どこも海辺を愛でるには、少し脇道に逸れなければいけない。そのまま海を右手に快走、というのは、丸亀を過ぎてからでないと現れないのだ。

僕は香西から、北に折れて、五色台の麓の海岸沿いを走った。細い道だが、景色はすこぶる良い。のんびり走るのには、こちらのルートの方がうってつけだった。

野球場のある運動公園を過ぎると、峠を登るようになる。そこを越えると急に、海が見える。大崎、と呼ばれる岬の突端を過ぎてからは、目の前に瀬戸大橋が見える。どこから見るより、ここからの眺望が一番雄大だと、僕は個人的には思っている。特に夕陽を浴びた瀬戸大橋は、運転しながらでも魅取れてしまう。

まだ夕陽には早かったが、やはり、目の前を横切る瀬戸大橋の姿に、助手席の彼女も感嘆の声を上げた。

「こうして見ると、長い橋だよね」

当たり前だが、確かに近寄ると見上げるほど大きな印象が残る。少し高台から見ると、ひとつひとつの造形が、大がかりなのに驚く。だが、実際は瀬戸内海を横断する、その距離も雄大なのだ。景観の美しさなら、他にもキレイな橋はいくらでもある。しかし、海を渡る流麗さは、きっと瀬戸大橋の大きな特徴に違いない。

だから、つい、魅取れる。目の前を橋が横切っているのだ。それも海の上を。その橋の上を、豆粒のようなクルマがちょこちょこ走っている。大きさの感覚を見失いそうだ。

瀬戸大橋に魅取れているウチに、道は港町に入る。それを横切って、河の堤を走ると、再び浜街道に合流する。つまりは、大きく迂回したことになる。浜街道に合流すると、走るのは埋め立て地なので、今ひとつ見劣りする。まるで工場の中を通っているような、感覚がするのだ。

途中ショッピングセンターがあったり、今は営業を止めてしまった大型プールのそばを通ったりするが、今ひとつ、人の息吹が希薄だ。工場のごみごみした印象が強くなる。

それが宇多津の街に入ると、一転華やかになる。昔ここは、塩田だった。僕はかろうじてその頃、というより造成前のだだっ広い埋め立て地を覚えている。JRがまだ単線で、前の宇多津の駅のホームに入ると、北側がただ広いだけの空間だった。

それが今や、人口の密集する開けた場所で、あの頃の面影など見る影もない。商業施設が建ち並び、高層マンションがいくつもそびえている。少なくとも見栄えは、華やかだ。でも、なんだか開発が途中で止まってしまってそのままになってしまっている所が目立つ。めまぐるしく景観が変わっていたのが、ある日、急に時間を止めたような、そんな気がするのだ。

ちぐはぐな印象は、そこから丸亀を抜けるまで、なんとなく続いている。やたらと広い道が続いて、急に狭くなったと思ったら、また開けて、そこだけ大型ショッピングセンターが建ち並び、また木立に隠れる。小さく変化はしているのだろうけれど、なんとなく中途半端で終わっている。

多度津に入ると、昔のままの道路に繋がる。田舎道に入るが、文字通り浜に沿って走る道になる。そこから観音寺までは、海のそばの街、が続く。

浜街道を途中で折れ、僕は荘内半島を回るルートにはいる。といっても、山道と大差ない。所々で、海は見えるが、崖の下だ。でも、ここら辺の海が、香川では一番キレイだ。砂浜は小さいが、ダイビングスポットは多い。

「ここは浦島太郎の伝説があってね」

半島の各所に伝説のモチーフが散りばめられている。途中紫雲出山の登り口にあるトイレは、竜宮城の形をしている。そんな話をしているウチに、仁尾町内に入る。昔遊園地のあった埋め立て地を過ぎると、いくつかの海水浴場が連なる。

長い弓なりになったビーチは、もう閉まってしまっているが、その景色を見るなり、助手席の彼女が、声を上げた。

「なんとなく、こんな感じだね。夕陽の感じが」

ちょうどビーチの向こうの海に向けて、陽が傾いている。まだ日没には時間があったが、空気が朱色に染まっている。少し走って、道の傍らにクルマを停める。水産加工所の横が、長い長い砂浜になっている。干潮なのか、遠浅の砂浜が現れていた。

「ここから先、砂浜ってないの?」

「イヤ、大きなところがあるんだよ」

どうやら今日のゴールが定まった。ずいぶんと西の端まで来てしまったな、と思う。

  

びクルマをスタートさせると、短いトンネルが見えてくる。それを過ぎると道はまた市街地に入る。狭い県道をしばらく行くと、河の手前の少し開けた所に出る。それを右に折れると、川沿いの道路と平行に、遊歩道が整備された道が続く。

それをすぐにまた右にはいると急傾斜の坂道になる。クルマ一台分の狭い道だが、一方通行になっている。うねる山道をずっと上がっていくと、展望台が見えてきた。そこだけ屋根があって、小さな階段で上られるようになっていた。

少し過ぎた所の駐車場にクルマを停め、展望台に上がる。足下から斜面を松林が続く。それが目前でパッと円形に開ける。

そこには、砂を盛り上げたオブジェがあった。巨大な江戸時代の貨幣、寛永通宝を象った砂絵だった。

「なんだか砂ばっかり見てるね」

「でも今度は、海が見えるよ」

僕らは鳥取砂丘で、砂丘を登ってゆくのを断念していた。

「あの時はパパがめんどくさがっただけじゃないの」

そんなことを言いながら、彼女はじっと目の前を見ている。砂絵とその向こうの砂浜、そのまた向こうの静かに波打つ瀬戸内海、全てが朱色に染まっている。西の空に、太陽はずいぶんと高度を下げていた。

「ここって一応、観光地なんだけど、知られて無くて。香川の人間でも、東の方の人は来たことがない、って人がいるくらいなんだよ。まぁ、もうちょっと行けば愛媛だし」

しかし、コレがとびきり目を惹くモノか、というとそれもどうかと思う。人工物だし、大きい、といってもどこか中途半端だ。一度、香川が台風の影響で高潮の被害が出たことがあった。地元新聞は冠水したこの銭形の写真を一面に載せたが、その水と砂のコントラストの方が、ずっと見栄えが良かった気がする。

ただ、夜になるとライトアップされて、それなりに幻想的な姿を見せるらしいが、僕はまだ一度も見たことがない。

彼女は銭形を指さして、僕を見る。

「コレはさすがに、曲には合わないよね」

「そうだね、まぁ、観光のひとつだから」

その時、まぁ、と彼女が声を上げた。彼女の視線は、砂絵の片側に広がる畑に向けられていた。キレイに区画された畑にまっすぐ畦が伸びる。ところどころにビニールハウスが見える。整然と並ぶ畝は、まるで土の規則正しい波のように見える。

その畑のあちこちから、スプリンクラーのパイプが立ち、一斉に水を撒いていた。夕陽に水滴が輝くシャワーの様子が、展望台からもよく見えた。飛沫の霧が、光を反射して朱色のカーテンをはためかせていた。

「あそこを走り抜けると、涼しそうだね」

彼女は眩しそうな目をして、その風景にしばらく魅取れていた。砂地に何が植わっているのかわからないが、そろそろ秋が近い。収穫の季節がやってくるのだろう。そのころには、ここら一面土の色にむせかえるに違いない。

僕らは駐車場に戻り、また山を下り始めた。再び急カーブの連続する道を下りてゆく。やがて中学校のグラウンドが見えてくる。その脇の壁沿いを走ると、松林に入ってゆく。

しばらく行った駐車スペースにクルマを停め、浜辺まで歩いた。

銭形の砂絵の横を通る。そこ部分だけキレイに松林が切れている。雄大な造形も、地上からではこんもりとした砂山が、連続して並んでいるようにしか見えない。そして、あちらこちらから伸びる足跡の列。

そこから少し歩くと、また頭上を松の枝が覆う。その足下には、枯れた松の葉が一面絨毯になっていいて、それを踏みしめて歩くと、遊歩道に出る。砂浜に一直線に伸びる、何でもない道だ。所々に、錆びたベンチと不釣り合いな遊具が残っていた。

松林を出ると、小さなコンクリートの防波堤があるが、ほとんどが砂に埋まっている。かろうじて近づくと、その向こうに段差があって、防波堤があるのがわかるが、その高低差は座って足が着く程度だ。そこから緩やかに砂浜は波打ち際へと下っている。

「意外に、大きな砂浜だね」

感嘆の声を出して、彼女はそのコンクリート壁に腰掛けた。彼女は今日はパンツ・ルックにサンダルを履いていた。こういう景色を、あらかじめ想像していたのかもしれない。

サラサラの砂は白く、その向こうの海は紅く煌めいていた。海水浴の季節はとうに過ぎていたが、まだ、人が訪れた足跡が所々に残っている。花火の後だろうか、焦げた砂の跡が目の前に見えた。他は打ち上げられた海草や水草が、波打ち際に続いていた。

瀬戸内海に浮かぶ小島が、所々に影を作っていた。波はどこまでも穏やかで、そこをゆっくりと船が横切ってゆく。

「宍道湖も、こんな感じだったね」

「あそこよりはもっと、開放的な感じがしない?」

「でも、夕陽って言うのは、どこで見ても神聖な気がするね」

「紅いからかな。燃える火と同じ、燃やして清らかにするとか、そういう感じ」

そんなことを言い合っていると、彼女がぽつりと呟いた。

「終わる、何かが閉じる、そんな雰囲気」

彼女の表現に、少しドキリとした。目の前にバッと、形でもなく言葉でもなく、音でもない何かが、カーテンのように左右からさっと視線を覆う。それが放つオーラが、何か僕らにインスピレーションを与えようとしている。

赤はどこまでも紅く、いつの間にか空気すら燃えているような、静かに熱を帯びて染み渡っていくような、不思議な感覚だ。足ともがおぼつかない。砂を踏みしめて、その反応が心許ないのだ。それは、あの曲のふわふわしたシーケンサーの音に重なる。

「身が引き締まるというか、再生の決意とか、そういうのを感じるんだよね」

思いつくままに、彼女は肌にまとわりつく感覚を言葉にしてゆく。僕はその声を、音楽のようにある種の旋律を付加して耳を澄ませる。心を一定のバイブレーションが揺らして、口の中にあのエピフォンのフロント・ピックアップの音が醸す味が広がる。

瀬戸内特有の夕刻の凪が、ゼリーのように留まった空気に光の矢だけを通す。わずかに屈折した色が、湿気を奪い去り、乾燥した肌触りで撫で回す。

CLOSE

ぼそっと、彼女は言った。

「店じまい」

タイトル?と僕がきくと、キーワード、と彼女は言った。

その時、目の前を木の葉のような、黄色い羽根をした蝶が通り過ぎていった。ひらひらと、まるで枯れた銀杏の葉が二枚重なり揺れているような、そんな羽根の動きを、僕らは見つめていた。何という名前の蝶なのか、僕にはわからなかった。名前どころか、それが幻のようにさえ感じた。

でも、不安定に上下する蝶の軌跡は、目の前の紅い景色の隙間を埋めるように、何かサインを紡ぐように、ゆっくりと飛んでいった。

僕はそれをじっと目で追った。彼女も同じように、目で追った。

CLOSEだね」

その言葉で、僕らは我に返った。夢の中を、一緒に旅したような、不思議な感覚が残る。

一瞬、僕らは自分たちがずっと聴き続けた音楽の中にいたような気がする。昨日からずっと、繰り返し聴いていたから、そのせいかもしれない。ただ、その一瞬、時が止まり、波音さえ消えた。

今は、繰り返し、終わることなく打ち寄せる波が、心地よい旋律を奏でているのが聞こえる。水しぶきが霧のように立ち、砂が舞って、空気がわずかだが揺れている。一度胸の中を満たした、ゼリーのような固まりが、代謝物を吸い取って、溶け出したような、爽快さを感じた。

静かに、太陽は目の前に落ちてゆく。海の向こうに漂う、雲なのか霧なのか密度の濃い空気なのか、地上と空の間の曖昧な部分に、輝きを衰えさせながら、沈んでゆく。

僕らはその様子を、じっと見つめていた。宍道湖の時は、あっという間だったが、今日は時間をかけて、そのひとつひとつの動作を噛みしめながら、目に焼き付けている。あの日は、身を寄せ合って見た夕陽を、今、僕らの肩と肩の間には、わずかな距離があった。でも、今の方が、ずっと親密な気がする。

僕の思いは、未だ不安定なまま、完全に解決はしていない。もしかすると、僕が許されることなんて、一生無いのかもしれない。ただ、彼女は希望だ。

このまま、彼女が東京に帰ると、いつもの日常が戻ってくる。それは僕らにとって、新たな問題を呼び起こすかもしれない。ただ、それを乗り越える、曖昧だが勇気のようなモノを、僕らは不器用な手付きで、形作ったんじゃないか、そんな想像をする。

あの幸福感に包まれた日曜日のことを思い出す。ではなぜ、あの日曜日が長続きしなかったのか。僕はもっと、もっと先にあるモノの影を見たのだろう。それはもしかして、見なくても良かったのかもしれない。でも、それが手に入るモノだと、僕は見間違ったのだ。

それに似た感傷が、昨日、僕にわき起こった。それは全く似てもにつかない景色だったが、幸福感は似通っていた。そして僕はまた、あの夢を見るのだろうか?そして今度は成功するのか、失敗するのか。

人生はそのシミュレーションと、実践の連続だ。だいたいが失敗して、新たな旅が始まる。終わりのないロールプレイングゲームだ。そして、良くできたゲームだと思う。ただ、最後に勝って終わることが出来る見込みのないゲームだと思い知る。

そして復活のないゲームだ。僕らは二度と、過去に戻ってやり直すことは出来ないのだ。

夕陽は、火のイメージと重なり、今日を焼き尽くして沈む。夜の間に再生して、新たな明日を築く。その繰り返しの中に、立ち止まることは許されない。

そういうことを、彼女も感じたのではないかと、僕はぼんやりと感じた。涙こそ流さないが、彼女の横顔には、何かを得た確信と、寂しさが同居しているように見えた。きっと彼女は、与えられたメロディーに乗せる言葉を構築しながら、それがフィックスされていくことに、呆然としているはずだ。

そしてできあがったモノと、本当の気持ちとの間にずれが生じて、それがまた、次を呼ぶ。表現者は制約があるほど、その繰り返しを強制され、気が付くと、不毛の大地で迷い続けている。でも、それが生きる糧にもなるのだ。

CLOSEと言ったきり、彼女は無言だ。彼女の中で、何かが確信に変わったのだろう。曖昧なままの僕は、まだわずかに幸福なんだろうか?

CLOSEって閉じるって意味もあるけど、近づく、という意味もあるんだよ」

ふと思いついたことを、僕が言うと、彼女は沈んだ夕陽の先を見ながら、そうなんだ、と頬をゆるめた。その笑顔はとても、大人びて、落ち着いて、そしてとてもキレイだった。今までずっと、かわいいと思っていた彼女を、僕は初めて大人の人間としての美しさにも魅取れた。

こういう時に、年齢なんて役に立たないな、と思う。経験とか、そういうものは全く、役に立たない。その人が元来持っている個性、さらには、人間としての性が持つ個性の前では、どんなに言葉を重ねても無力だ。

僕は本当に、彼女を愛おしいと思う。初めて、彼女が東京に帰ることを、僕は寂しく感じた。それを隠すために、また乗り越えるために、僕はきっと頑なになるのだろう。わかっていて、僕は寂しさに耐えられそうもないのだ。

その思いを振り払うように、僕は立ち上がり、お尻の砂をぽんぽんと払った。わざと、当たり前のことのように、日常に飛び込んだ。

「この近くに海の見える温泉があるんだよ。ひとっ風呂浴びて帰ろうか」

うん、と彼女は返事をした。でも、名残惜しそうに、視線は海の向こうを見つめたままだった。

    

だどこかに湯気が残っているような気がした。潮の香りがする温泉は、ずいぶんと温度が高く気持ちよかった。汗がキレイに流されて、しばらく涼んだ後、外に出るともう、夜が下りていた。

帰り道、もうだいたい決まったから、と言って、彼女は別のCDを強請った。それじゃ、ギターの参考に、と僕はソロモン・バークをチョイスした。

Cdをかけると、彼女はあっ、と声を上げる。

「コレ、福井の喫茶店でかかってたよね」

覚えてたんだ、と言うと、そうそうラブホの前にね、と言って笑った。

僕はサーチして、エルビス・コステロが作曲した、ザ・ジャッジメント、と言う曲をリピートする。短いギターのフレーズが、僕の中で今、一番出したい音の候補の中に入っている。

「切なくて、優しいね」

彼女はそんな風に評した。

「それは、ボーカル?ギター?」

「曲自体だよ。メロディーも、何か色あせた過去に思いを馳せるというか、とても悲しい思い出なんだけど、そうして良かった、何も間違ってなかった、って言いきかせるような感じ」

ブルースでよく歌われるモチーフだ。ただ、それはとても達観した考えで、それが現実にはびこっているか、というとそうではないような気がする。過去の一部分にしろ、肯定できる思い出を持っている人間は少ないんじゃないかと思う。

きっと、過ぎ去った時間に、人はきっと一抹の悲しさ、あらがえない悲しさを感じていると思う。そして、幸福な思い出も、今と重なってそれは、寂しさの色に染まる。

昨日思い出した幸福感も、今は形だけが残骸のように残って、鈍色に光っているだけだ。ただ、彼女の背中が、それを天然色に一瞬、彩ってくれたのは事実だが。

そうやって、時は重なり、過去を肯定する今、現実を積み上げようとするのが人間なんだろう。

「でも、このギターって、それこそ砂みたいに、乾いてない?」

「うん、CLOSEではもっと、エコーをかけて甘くするつもり」

もう既に、僕と彼女の間で、あの曲はCLOSEというタイトルで呼ばれていた。

帰り道は高速を使った。彼女が、早く歌詞を書き上げたい、と望んだのだ。

「ホント言うとね、せっかくの温泉だったけど、歌詞のことばっかり考えてて、全然ゆっくり出来なかったんだよね」

そういえば、珍しく僕の方が、後から出た。彼女の中で、CLOSEが膨らんでいるのがわかる。思いつきで始めたことだけど、案外僕らはこういう共同作業に向いているのかもしれない。もっとも、こうして一緒にいれば、なのだけど。

それから、一時間ほどで、マンションに戻った。彼女はそそくさと浴衣に着替えると、ノートを持ち出し、床に寝そべった。テレビも点けず、デモテープすらも流さず、彼女は一気に、歌詞を書き上げた。

その間に僕は、パソコンを立ち上げ、いつでも歌える準備をする。それが整うと、ギターを持ち出し、ウォーミングアップする。既にコピー済みの、ザ・ジャッジメントのフレーズを何度も弾く。

出来た、と言って彼女が仕事部屋に入ってきた。歌ってみよう、と言うことになり、早速彼女はブースの中に入った。

プレイバックし、彼女はノート見ながら、歌った。

いくつかのフレーズに戸惑いながらも、最後まで歌う。ほぼ、歌詞は完成していた。気になる点はあったが、わずかな修正で済みそうだ。

彼女が小窓越しにこちらを見て、親指を立てる。僕はトークバックのマイクに向けて、こう言った。

「ロケハン成功だね」

彼女は嬉しそうに笑った。

  

  

  

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