川という土地は、瀬戸内海に面した北側と、讃岐山脈の居並ぶ南側にキレイに二分できる。それを貫くように二本の国道が走り、一本は徳島、松山に繋がり、もう一本は高知まで繋がっている。

二本の国道を繋ぐように、何本もの県道、市道が走り、香川の道を制するには、その縦のラインをいかに熟知するかで決まる。といっても、香川の面積は二本で一番狭い。どうでしょう班に「ちっちぇー香川」という異名をいただくほど、狭い。だから、一日あれば、香川を全周することなどワケないのだ。

狭い面積に比例してか、香川にコレといって観光名所はない。全国規模の場所など、ごくごく限られる。うどんばかりが先行して、留まる場所というものがないのが悩みの種だ。温泉地もないことはないが、湯どころというわけではない。

その一番の名所、というべきなのが、琴平、いわゆる金比羅さんだ。船の神様として、古来から信仰を集め、江戸時代には伊勢参りと並んで一生に一度は参るべき土地として有名だったと、今に語り継がれるパワースポットだ。旅館や温泉など、琴平一帯は香川の観光地の中心として開けている。

もちろんガイドブックもそこをメインで取り上げている。だから、彼女が行きたい、と言ったのも無理はない。彼女は特に、麓のしょうゆうどんというのに、惹かれたらしい。

だけど僕は、それに渋い顔をした。理由は単純だ。それはたぶん地元の、ごく一部しか知らない情報だ。

「こんぴらさんの神様は女の神様だから、カップルで行くと必ず別れる、っていうジンクスがあるんだよ」

僕のその話を聞いて、彼女はぷっと吹きだした。そして、笑いながら、信じてるの?と聞いた。

「信じているワケじゃないけど」

確かに、そういう話が迷信で、何の根拠もないのは分かり切っている。事実、旧い友人夫婦が香川に遊びに来た時に、金比羅さんを案内したが、未だに離婚していない。第一、誰がそんなことを言い出して、実際にそういう事実があったのかどうかもわからない。

でも、僕はなぜだかその話を信じていて、こんぴらさんの階段を女の人と上ったことはない。あるのは幼い頃妹と登ったぐらいだ。もっともその時は、一家で登ったんだけど。

「イイよ、そんなの。関係ないよ」

全く意に介さない、と言った表情で彼女はそういった。

考えてみれば、香川に行った思い出話として、うどん以外にどこがあるか?と言われれば、こんぴらさんしかないのも事実だ。他にないわけではないが、それはたぶん、他県の観光地、と比べて見劣りすると僕は勝手に思っている。

それよりは、ずっと、僕らは自分たちの憩いの場、を持っている。肩肘張らない、どこにでもあるけど、僕らだけが知っている場所、そういったもので、香川は埋まっている。適度に商業施設があり、有名ではないけど、それなりに小学生が社会見学に出向くぐらいの名所はあって、自然もそこそこ残っている。どれもコレといって飛び抜けて目立つ何かがあるわけではないが、でも僕らはどこにいても、憩う場所には事欠かないのだ。

それが香川らしいと思うのだ。

まぁ、誰かが来たら、うどん屋をつれ回し、最後は琴平の宿に放り込んでおけば、香川はそれで事足りる。そういう意味でも、便利な土地だと思う。

とりあえず、僕らは琴平を目指して、早い時間には出かけていた。クルマでまずは、南を目指す。山の手に向けて走ると、すぐに里山と田圃の広がるのどかな場所になる。クルマも走っていないわけではないが、渋滞とはほど遠い。その代わりに、ランドセルの小学生の列が歩いている。

僕は、琴平に直接向かわずに、ある場所に寄ることにした。それは、香川の特徴であるため池のひとつなのだが、水不足が香川用水で改善されてからは、ずいぶんと造成されてしまった。香川では、ため池の真ん中を道が走っていたり、半分を埋め立てられたため池をよく見かける。今でも、農業用水として利用されているが、それほど需要が多くはない。

今ではだいたいが、堤に公園が整備され、散歩のコースや、サラリーマンの昼寝のスポットになっている。

そのウチのひとつに、僕は立ち寄る。県道から小道に入り、少し行って堤の坂を上がる。すると眼前にはさほど広くない湖面が広がる。そのほとりに駐車スペースがあり、一番奥に車を停める。

「何コレ」

坂を上がった時点で、それは見えていた。こちらを向いて、そいつは長い舌を出していた。

僕らはクルマを降りて、直接目の前に立つ。僕らはその顔を、見上げた。

「この池って、何か龍神か、蛇の伝説があって、それを元に作ったオブジェだよ。コレでもベンチなんだぜ」

それは細長い金属製の竜のオブジェだった。鎌首をもたげ、長崎の祭りに出てくるような造形がされた竜の顔があり、その後ろにご丁寧に鱗に包まれた胴体が長く続いている。その一部は平らにならされ、腰掛けるようになっている。

彼女は首の周りをぐるっと回って、丁寧に眺め回すと、そのベンチに座ろうと手を当てた。

「熱っ」

慌てて手を引っ込める。

「金属製だもの。夏は尻が焼ける。冬はたぶん、水辺に来ようという人はあまりいないんじゃないの?」

彼女は一応、という感じで、竜の姿をデジカメに納めて、とりあえず顔の前でピースサインの記念写真を撮った。

少し堤を歩くと、竜の伝説の謂われが書かれた看板がある。青い字で書かれたその謂われを、彼女は熱心に読んでいた。

「満濃池って?」

看板に書かれた地名を僕に問う。

「香川で一番大きなため池。弘法大師さんが作ったんだ。今はでっかい公園になっていて、今年の夏も大きなライブがそこで開かれたんだよ」

「香川はどこに行っても、弘法大師さんだね」

「香川の一番の有名人だからね。あの人を越える人は、未だに出ていない」

「オヘンリストならではの意見だね」

どこで作ったのか、聞いたのか、お遍路さんをそういう言い方するのを僕は初めて聞いた。何とかリスト、なんていう風に言うと、どうもスタイリッシュすぎて、ありがたさが半減するような気もする。

だけど、今では観光バスで休日を利用してホテル・温泉を交えて回るツアーが主流だから、それと比べれば、オヘンリストという言い方の方が、独りストイックに歩いている感じはする。いずれにしろ、香川に限らず、四国は弘法大師が築き、その心で形作られている所があるような気がする。

自分が八十八カ所を回って後しばらく、空海の伝記などを読んで、高野山に出かけていってお坊さんの講釈を聞いたりするのに没頭していた。それまで全く無縁だった宗教というものに、自分なりに向き合ってみたかったのだ。

ちょうど僕が事件を起こして、一生拭えない罪を背負った時だ。しばらく続いた監視付きの生活から解放されてすぐに、霊場を回った。車を使ったのではあったが、僕は自分の中の寄る辺なさに唖然とした。自分の中に確固としたものがあって、その軌道修正をすればいいと思っていたが、そうではなく、全く自分に何もなかったことに愕然としたのだ。

その規範のひとつとして、宗教をまさぐった。しかし、僕が欲していたものは結局、得られなかった。迷いは今も続いていた、それはたぶん、かなり果てしない作業なのだということだけ、今はわかっている。

ただ、その巡礼の最後に、地元である香川を回って、意外な一面に気付いた。それは、意外に弘法大師、という存在が香川という土地にしっかりと根付いている、ということだ。接待の心、みたいな風に象徴されて云われるが、もっと根深い、血脈のようなものを感じるのだ。

それは香川と云うより、四国全体に根を張っている。それを感じた時に、僕は郷土、という言葉を初めて意識したのだ。

そして、こんな場所を見つけた。僕はこういうオブジェがあることを、つい最近まで知らなかった。とりたてて有名でも、特徴があるものでもないが、存在をおもしろがることが出来る。そういう意識を持って、香川という土地を眺めたのは初めてだった。

良くも悪くも、香川という土地が、僕を作ったのだと思えば、僕は自分を知らないことを恥じる以外無かった。だから少しでも、郷土を見つめる目を養おうと、僕は努力した。

全ては、お遍路から始まり、やはり弘法大師さんの息のかかった所にいつも帰結するのだった。

彼女は、それほど広くはない水辺の景色を、それでも満足そうに眺めた。ここのところの雨で、少しはかさ上げされている湖面だが、見えている岩肌は赤茶けて人工的に手が入れられていることがあからさまだ。自然を愛でる、という風情ではない。

でも、コレが日本の風景でもある。どこにでもある風景だから、感動は呼び起こさなくても、どこかホッとする。

池の畔には神社があった。僕が行くかどうか聞くと、一日に神社のハシゴは良くないんだよ、と彼女はもっともらしいことを云った。

「途中どこかまだ寄り道するの?」

僕は首を振った。竜だけ。

竜だけ?といって彼女は指さす。僕は頷く。

ふ〜ん、といって彼女はすたすたとクルマに戻っていった。

  

れから山道を抜けて、やがてアップダウンのある細い道路を進む。途中やたらと狭い市街地を抜け、またのんびりとした道に出る。高松空港沿いを通って、しばらく行くと、山の手を貫く国道32号線に出た。

32号線は、昔は高松からまっすぐ琴平まで一本道だった。だが今は、大きくバイパスして山の方へ逸れている。琴平に行くには旧国道に出ないといけない。バイパスは最近出来たばかりなので、広く走りよい。

僕は途中から看板に従って旧国道に下りて、土器川の橋を渡る。渡りきると大きな鳥居が僕らを向かえる。ここからが神域、といわんばかりの風情だ。

だが、道は少しばかり古めかしい商店の間を抜ける。バイパスが出来て、いっそう寂れたような雰囲気を感じる。しかし、この道は今も昔も琴平街道、なのだ。参詣道へ続く、メインストリートなのだ。

角にスーパーがある交差点を越えると、そこからが本当の琴平市街だ。何個目かの信号を北に折れると、やがてJRの駅が見える。その手前に市営の駐車場がある。今時吹きさらしの、おじさんが料金徴収をする旧い駐車場だった。

クルマをそこに停め、そこから町中を歩く。程なく短いアーケードがあり、抜けると小さな河と橋が見える。橋の半ばで周囲を眺めると、明らかにそこが門前町である、という風情がよくわかる。河の周囲には小さな家が立ち並んでいるが、いずれも観光客目当てか、あるいはそれに類する店ばかりだ。しかし、派手なネオンや看板が並んでいるわけでなく、静かに神前の建前を守っている。

橋を渡ると、どこにでもある観光地になる。まっすぐに登り口に続く道が通っている。その手前では、県外ナンバーのクルマを呼び込もうとする、旅館や土産物屋の店員が、幟を持って並んでいる。一等地の駐車場には既に、観光バスが数台止まっていた。

僕らは横断歩道を渡り、観光地のただ中を進む。平日でも、そこそこ人はいる。目立つ場所にあるうどん学校という観光施設では、うどん打ちの体験が出来る。入り口にはここを取材で訪れた大泉洋の写真が飾られていた。

向かいには、彼女の見つけたしょうゆうどんの店があり、にぎわいが外にまで聞こえていた。少し行くと、酒蔵メーカーの博物館がある。

「ここら辺、というか香川は西の方が、良い水が沸くんだよ。だからうどんも美味しいし、清酒も作れるんだ」

僕らはそのしょうゆうどんの店に入った。

セルフに慣れている僕は、他人が運んでくるうどんを待つ、という行為に若干の違和感を感じていたが、彼女はそうでもなく、奥でうどんうちを実演している背中を、興味深そうに見ていた。

「パパはうどん打てるの?」

僕は苦笑する。僕らが若い頃、香川の家にはうどん鉢が十杯はあって、必ず麺棒やそれ用のまな板が揃っている、とまことしやかにいわれたモノだ。確かに、家で食べるうどんの頻度は他とは比べものにならなかっただろうが、本当に昔から住んでいる地元の人でないと、うどんを打つことは出来ないだろう。

かくいう僕の家も、関西からの転勤組で、僕が産まれる直前に香川に越してきた、いわば新参者なのだ。

「バイトはした時に、そこで手伝ったことはあるけどね」

彼女は少し期待をしていたようで、あわよくば家で打ってもらおう、というようなことを考えていたらしい。

運ばれてきたうどんに、しょうゆをかけて、大根お下ろしを摺ってのせる。単純な食べ物だ。だが、セルフにしろ、しょうゆうどんにしろ、必ず食べる方が何か手を下す。料理の最後の締めを担っていたり、味加減を調節する術が残っている。

うどんは日本独自のファーストフードのひとつだとは思うが、人の手を加える、というアトラクションが残っているのが特徴だと思う。それは人それぞれの個性を食べ物に与える。一節蘊蓄をぶってみたくなる。そして単純な作業が、食感以外の楽しさを与えてくれるのだ。

讃岐うどんは良くできているな、と思う。合理的で、そのくせ楽しさもふんだんにある。なにより、贅沢だ。

「昔うちの実家の近くにあったしょうゆうどんの店は、うどんが出てくるまで、大根を半分手渡されるんだ。来るまで摺ってろ、ってな具合にサ。ある時、ちょっと混んでて、いつもの調子で摺ってたら山盛り大根おろしが出来ちゃって。一口食べて、むせたよ。うどんが見えなかった」

キャハハハ、と彼女は笑った。

腹を満たした僕らは、すぐそばにあった足湯に浸かって、食後の休憩をした。

たぶん彼女は、こんぴらさんがどういう所か、観光雑誌を読んで知っていたはずだ。ある意味、御利益や、また僕が知っていたジンクスよりも、それはもっと有名なはずで、彼女の頭の中にもインプットされていたに違いない。

でも、それを知っていると云うことと、体験すると云うことのギャップが、これほどある場所も珍しい。

こんぴらさんの難関は、その本殿までの階段にある。

785段という数は、折れ曲がり時に穏やかに、そしてほとんどが急な坂を刻んでいる。その一段一段を踏みしめないと、本殿には辿り着かない。途中までは左右に、茶屋や土産物を売る店が並び、時折休むことが出来る。それを越えた辺り、ちょうど大門を越えて五人百姓、と呼ばれる飴売りが並ぶ広庭に来ると、うっそうとした森に囲まれた神域然とする。

彼女はまずそこで音を上げた。休憩する、といって門の前に座り込んでしまう。額に汗を浮かべ、ハンカチでそれを拭う。一応階段の存在をガイドブックを読んで知っていたのだろう彼女は、タンクトップの上に、裾丈の長い同じような服を重ね着していた。そして、素足に女物のトレッキングシューズを履いていた。ポロシャツにチノパン、という当たり障りのない格好の僕自身も汗かきなので、彼女以上にシャツを濡らしている。

すぐそこに、ジュースを売っている露天が出ていたので、僕と彼女はラムネを買った。昔ながらの、ガラス玉を抜いて飲むヤツだ。僕らは門を背にして、ゆっくりと涼んだ。

目の前には讃岐平野が見えている。平坦な香川の土地で、こんなに見晴らしが良い所はそうはない。特に、そこから見える平野は、海まで開けて眺望は快適だった。

「ここって、別に女の神様じゃなくても、ほらだいたい女の人って体力無いじゃない?だからこんな所つれてこられたら、仲も悪くなるんじゃないの」

と息を切らしながら、そう言った。確かにね、と僕は同意する。

愛媛の札所に、岩屋寺、という寺があって、そこは僕にとって最高のパワースポットなのだが、そこも長い坂道と階段に悩まされる。汗を掻かずして到着できる場所ではない。

寺社には二つの側面があると思う。ひとつは信仰の場としての顔、もう一つは修行の場としての存在。だいたいの人が、そこに御利益を求めて参拝する。それには、タダではすませませんよ、というアトラクションが用意されている。それも乗り越えられるぎりぎりの線を克服してこそ、の参拝であり、御利益への信頼だと思う。

岩屋寺と、こんぴらさんは、僕の知る限りその中で特にきつい場所のトップだ。体力的な意味で、近寄りがたい。

それでもやはり、彼女は若い。ラムネを飲み干す頃には汗も引き、不承不承だが、僕よりは先に立ち上がった。僕に、ここを選んだのは自分だ、と責められたくないのかもしれない。彼女はしばらく無言で、景色を眺めた後、僕を促して門を潜った。

本殿まで、いくつかの段階、広いスペースに様々な建物が並ぶ所をいくつか通る。その間をまた階段が繋ぐ、という感じだ。ずいぶんと標高が高くなっているので、いわば、富士山の何合目、といった風情だ。

それでも、だいぶ階段は緩やかなものが続く。段数は多いが、つまり高低差は多いが、広さがあったり、角度がそれほど着いていない。しかし、ここまでに相当な体力を消耗しているので、一段一段はやはりきつい。

僕も彼女も、周りを愛でるフリして、めっきり登るスピードが落ちてしまった。彼女はベンチがあると、すぐに座った。だんだん会話も途切れ、無言になる。

そして最後、ここで一番の急坂が待ち受けている。しかし、コレを登ればゴールだ。

彼女は石段を見上げ、そして僕と顔を見合わせた。肩を落とし、溜息をつく。階段の切れる先には、木立の枝の間に空が見えていた。

ヨシ、と自分に気合いを入れて、彼女は登り始めた。まるで何かの願掛けをするように、彼女は無言で一心不乱に登る。膝に手を当て、どんなにスピードが落ちても、足を踏み出すことを止めない。

僕は途中の灯籠の横で一度、休んだ。だが、彼女はかまわずどんどんと登る。

ついに、彼女は本殿の前に辿り着いた。頂上で、両手を上げ、万歳をした。後ろからノロノロ登る僕を振り向き、満面の笑顔を見せた。よほど嬉しかったのだろう。

やっとの事で追いついて、僕も本殿の前の広場に出た。参拝の前に、僕は傍らにベンチに座り込んだ。彼女も隣に座る。

観光客の数はまばらだった。大学生らしき男だけのグループが、代わる代わる本殿の前で写真を撮っている。本殿では神官や巫女が何か、儀式のようなもをやっているのが見えた。それを見るともなく見ているのは、同じようにベンチに座っている人たちで、その向こうに崖に張り出した展望台があり、そこに並んでいる人は本殿に背を向けて、ずっと見晴らしの良い景色に歓声を上げていた。

こんぴらさんは船の神様だ。船の神様が、山の上にあるというのは不思議な気もするが、その展望台に立てばわかるような気がする。そこから見渡せるのは、平野ばかりではない。瀬戸内海を行き交う船を見下ろしている。

今は埋め立ての影響で、ずいぶんと海岸線も移動したが、昔はもっと近かったのだろう。神は船を見守り、船人たちは神を仰ぎ見る。そういう構図がちゃんと出来ている。瀬戸内海の向こうは、関西でも古くからの港がある。瀬戸内海は、海上交通の要衝だ。

そして、それは偶然なのか、必然なのか、今は海上を渡る瀬戸大橋が見える。今日は空気が澄んで、対岸の鷲羽山まで見える。キレイに海は青く、晴れていた。

参拝する前に、呼吸を整えながら、僕らはその景色に見入った。疲労が普段よりも、一度目にしたものから視線を移動するのことに億劫になる。おかげで、僕らは必然的に風景に釘付けになった。久しぶりに僕は、自分の住んでいた町を見つめた。

こうやって見てみても、やはり香川は平凡な街に過ぎない。僕にはそこの各所に自らの生活の跡が見えて、それなりに楽しめるのだが、観光客はどうなのだろう?ここよりずっとキレイな景色はたくさんあるはずだ。

それでも彼女がぼんやり、やはり景色に見とれているのが、なんだか滑稽で僕は思わず笑ってしまった。

それに不満そうに口をとがらせながら、彼女は聞いた。

「パパのマンションは見える?」

僕は首を振る。山の向こうだよ。

「その代わり、僕の実家はここから見えるんだよ」

僕は彼女に指さしその辺りを教えた。

「後で寄ろうと思ってる。ギターを置きっぱなしにしているんだ」

彼女と二人で曲を完成させると決める前から、その曲のギターソロに使いたいギターを想定していた。それを僕はまだ、実家の自分の部屋に置きっぱなしにしていたのだ。

それが主目的だったが、なんとなく、彼女には僕の生活の根っこというか、息吹みたいなものを共有したい、という願いがあった。せっかくだから、少しでも僕のぬくもりを、意識して欲しかった。それが、きっと、他ではあり得ない、僕が案内する意味があると思うのだ。

彼女はそれには何も応えなかった。

それから、二人で本殿に参拝した。出雲大社でお参りした時よりも、彼女が頭を垂れている時間は長かったような気がした。それが、純粋にお祈りのためなのか、疲れから来るものなのかは僕にはわからなかった。

それからしばらく本殿の周りをぶらぶらしてから、登りとは違う階段から下りていった。それが順路なのかどうかわからないが、僕はいつもそうしていた。そうするものだと思っていた。

すぐ下の広場で、登りと同じルートに合流するのだが、坂道は行きとは比べものにならないほどスムーズだ。なんとなく、他愛はないけれども会話が弾む。

途中で、初老の夫婦のご主人に呼び止められた。というより、なんとなく、目があってお互いに立ち止まった、という偶然の出会いに、自然とコミュニケーションが産まれた、というような感じだった。

「これからまだ長いんですかね?」

少し出っ張ったお腹を揺らして、汗を拭き吹き彼は訊ねてきた。隣で、日傘を差した婦人が、笑顔で僕と彼女を交互に見ていた。

「もう少しですよ。がんばってください」

僕がそう答えると、主人の方は少し戯けた調子で、大げさに溜息をついて見せた。

「少し今日は暑いですね」

彼女が声をかけると、本当に、と夫婦は声を揃えた。

もう一息がんばるか、主人は妻に声をかけ、僕らに会釈して階段を上り始めた。僕らもすれ違ってゆく。

下りながら、彼女は言った。

「きっと私達、親子に見られたね、パパ」

イタズラっぽく彼女は笑った。

  

からドライブのBGMは、彼女と一緒に完成させるデモテープを繰り返し流していた。彼女が歌詞を作り上げるのが、全ての作業の端緒になる。今日の行程はそのロケハンも兼ねている。

しかし、早速の苦行に、彼女はかなり参っていた。クルマに戻るなり、バケットシートに深く背中を埋めて、ぼんやりと外を見つめている。それを見て、僕は目的地のいくつかの候補を、断念した。なるべく眺めのいい所を選んで案内しようと思ったのだが、それもあまり歩いて辿り着く場所は避けた方がイイ。

それでも一応、彼女にどこか行きたい所はないか訊ねる。彼女はダッシュボードに挟んであった、雑誌をパラパラとめくる。とりあえず、僕は実家にクルマを向ける。琴平から、僕の実家はすぐだった。

「お腹は満足してる?」

しばらくして、僕はふと聞いてみた。自分で選んだくせに、という僕の言葉を飲み込ませるほど、彼女は疲労から不機嫌になっていた。下りはともかく、登りは相当にきつかったらしい。

「何かあるの?」

「まあね、香川らしいというか、讃岐うどんってこういうのを云うんだろ?県外人は。みたいなうどん屋がすぐ近くにあるからさ」

行ってみたい、と彼女は言った。

来たに抜ける国道をしばらく走ると、隣の善通寺市に入る。目的のうどん屋は、市内の中心にある国立病院の手前を曲がって、続く細い道の中程にあった。いわゆる製麺所のうどん屋だ。僕はちょっと離れた駐車場にクルマを止めた。

入り口を潜ると、中は本当に狭い。既に客が数人、中で待っている。それだけで混んでいるような気がする。注文し、うどんが出てくると、トッピングをのせて会計する。後は汁をかけてできあがる。

が、どう見ても店の中で座って食べるほどのスペースはない。わずかにある席は既に埋まっていた。自然と、外に出て、立ち食いとなる。そのために、表には縁台が並べられていた。

うどん鉢を持ったまま、僕らは外に座り込んだ。目の前には、病院の敷地とを隔てるコンクリートの壁が見える。辺りは住宅街で、イリコダシの香りが漂っていないと、ここがうどん屋とはとても気が付かない。看板すらも小さく掲げてあるだけだ。しかも、製麺所、となっている。

「良く来るの?」

彼女が聞く。二度目、と僕は首を振る。

「実は、友達に連れて行ってもらうまで、知らなかったんだよ」

そういううどん屋が、香川にはたくさんある。というか、香川の人間はだいたい、地元か職場の近くに数件の行きつけ、を知っているだけで、最近でこそ多くはなったが、あちこちうどん屋を巡ると云うことは希だった。しかし、香川のだいたい何処でもうどん屋があるのは間違いなく、ちょっと買い物に行ったついでに、そこら辺のうどんに立ち寄ることは多いのだけど。

「でも、ここ一番美味しいよ。やっぱり讃岐うどんだね」

隣が国立の病院で、周辺では一番大きな医療施設だ。だから、少しやっかいな病気を抱えると、検査とか治療で、最終的につれてこられる病院だ。僕もクルマで事故を起こした時と、尿管結石が痛み出した時に、救急車で運び込まれたことがある。

なのに、このうどん屋は、全く知らなかった。幹線道路から入る所に看板すら出ていないのだ。

そのロケーションとあわせて、彼女はずいぶん気に入ったようで、うどん屋周囲の風景を彼女は、デジカメにやたらと納めた。僕にカメラを渡して、ピースサインしている所まで撮らされた。

ただ、うどん屋というスポットは、長くいる場所ではない。あっという間に食べ終わる。そして、さっと立ち去る。彼女は名残惜しそうにしていたが、僕らはクルマに戻った。

「少し元気が出た」

彼女は嬉しそうに言った。

    

こから少し行った所が、僕の実家だ。産まれたのは隣の街だが、二十歳の頃に今の街に引っ越してきた。そのころには僕はもう、県外へ出ていたので、今でもあまりここが地元、という意識がない。

しかし数えてみると僕は、一番長く、その場所に住んでいた。それでも何か疎外感があるのは、幼少期をここで過ごしていないからに違いない。ここの土地で、遊んだ記憶がないのと、友人が近くに住んでいないのだ。

今でも時々夢の舞台に自分の部屋が出てくるが、それは幼稚園から高校生まで暮らした前の家だった。間取りから、部屋の家具の位置まで無意識の中に刻まれている。いつまで経っても、今の実家、そして今住んでいるマンションが、夢に出てくることはない。

僕は細い道をいくつか曲がって、小さな戸建ての団地に入っていく。一番奥が僕の実家だ。今は母が独りで住んでいる。

「ギター取ってくるだけだから」

と、バックシートに入れ替わりに実家に放り込むものを手にしながら彼女に言った。

「誰かいるの?」

いることを望んだのか、いないことを望んだのか。

「たぶん、いない。バイクがないから」

買い物にでも出ているのだろう。家を出てから、それほど頻繁には帰ってきていない。もっとも、それ以前から、僕らの親子関係は疎遠だった。同じ屋根の下に住んでいても、会話は全くなかった。特に父親が死ぬまでは、全くと言っていいほど、会話はなかった。

待ってて、というと、彼女は私も行きたい、と言った。すぐだよ、と言っても、既に彼女はドアを半分、開けていた。

玄関の戸を開けると、ひっそりとした部屋の中で、やけに寂れた気がした。すぐに階段があり、僕はそれを上る。彼女が、後ろについて来る。暗い、急な階段だ。

登り切ると、かつて僕の部屋だった残骸がある。ほとんど部屋にあるものは、今のマンションに移したが、家具やベッドなどはそのままだ。そこに一応、整理して本や雑誌のバックナンバー、CDを置いていた。掃除をしていないので、うっすらと埃が一様に貯まっている。

僕は押入に並べられた、ギターケースの中から一本を取り出す。一応中を開けて、確認する。弦はさびていたが、ボディの光沢はそのままだ。それは、ホローボディのエピフォンだった。ギブソンのロゴは入っているが、中国製だ。偽物ではなく、廉価版、OEM版、などと言われているヤツだ。

元々、ギターはピックアップを換えたり、いろいろと弄り回すので、元手をかけない。形が気に入って、そこそこ手になじむネックだったら、安物を手にする。時々は、それでもいい音がするフェンダージャパンのテレキャスが手に入ったりするので、まんざら悪い選択方法でもない。

コレクターというわけでもないので、必要な音と、心地よいフィンガリングが出来ればそれでイイ。それに、そんなにギターが巧いわけではないのだし。

僕がそうやって、必要最小限の動きで、手早く仕事を済ませている間に、彼女はぐるりと部屋を見て回る。

「なるほど、仕事部屋の原型がここにあるのね」

鋭い所を着いてくる。確かに、僕がマンションへ移る時に、この部屋にキッチンとトイレとバスルームが着いているのでイイ、というのが条件だった。それをユウに提示して、ユウに探してもらった。

「自分に必要なものさえあれば、後は全く気にしない。オタク体質だ」

全く同じコトを、ユウにも言われた。が、そのことは黙って置いた。昨日の今日だ。まだ、完全に火が消えている、というモノでもないだろう。

「帰るよ」

僕は、粗を捜される前に、彼女を促した。

階段を下りて、彼女はちらりと、正面の部屋を覗いた。一応和室の客間だが、ずいぶんと散らかっている。母親は、元々美容師で、家で店を開いていた。店はそれなりに繁盛していて、母が一人で切り盛りしていたので、僕らはかなり放って置かれた。食事の用意をして、遅くまで接客していた。年末年始は、着付けも加わって、ゆっくりした記憶がない。

そのせいか、部屋の掃除もおおざっぱだった。今では、老いも手伝って、家のメンテナンスもおざなりだ。時々、妹が顔を見せているようだが。

彼女はふと、隅に仏壇があるのを見つめた。

「誰?お父さん?」

先祖代々、と僕は短く応える。そのまま玄関を出ようとすると、待って、と止められる。

「挨拶ぐらいして行きなさいよ」

「そういうの、オレはやらないんだよ」

何か言いかけて、彼女は言葉を飲んだ。たぶん、どこかで、僕が父親と長い間確執があって、その最後に葬式にすら出なかったことを知っているのだろう。僕はそのことを、いろんな所で喋っていた。それに関して、批判も何も、僕は受け付けなかった。

彼女はすたすたと、部屋に入っていった。仏壇の前にちょこんと正座して、手を合わせ、頭を垂れた。僕はその背中を、じっと見つめていた。

クルマに戻って、僕は言った。

「別にあんなコト、必要ないよ」

シートベルトをしながら、彼女は応えた。

「パパがどうあれ、部屋にお邪魔したらちゃんと挨拶はするものよ。それが普通でしょ?」

やんわりとだが、彼女の芯の強さを、僕は垣間見た気がした。筋を通す、とでもいうことだろうか、彼女の中の常識に、彼女は忠実に従っているのだ。それは、僕に新鮮な風を吹き込んでくる。

「死んだ人間を、今さらどうこう思ってはいないよ」

「だったら、実家に戻りなさいよ。お母さん一人でしょ?」

「この家が、嫌いなんだよ」

僕はクルマをスタートさせた。相変わらず、隣の家のクルマが路上駐車をして、道幅を狭苦しくしている。

僕は舌打ちして、足早に実家を後にした。

  

家を出て少しすると、丸亀城が見えた。見つけたのは、彼女の方だった。

なるほど、そこがあったか、と思う。丸亀城というのは、街の真ん中に位置する山城で、全体が公園になっている。春にはお祭りや花見でにぎわう。それ以外は、近くの幼稚園の運動場代わり、市民のジョギングコース、などとなっている。

行ってみる?というと、とりあえず近くまで、と彼女は応えた。山の上にある天守閣を見つけたのだが、そこに登ることを危惧したのだろう。僕は国道から折れてお城を目指した。

場内の駐車場にクルマを止める。目の前には野球場があって、近くの高校の野球部が、練習をしていた。お城は、天守閣へ上がるだけでなく、周囲をぐるりと散歩することも出来た。

僕は彼女と歩いてみることにした。中学までは、この近くの学校に通っていて、高校生の頃までは、よく遊びに来ていた。

「高校生のデートスポットだったんだよ」

僕がそういうと、へぇ、と彼女は短く応えた。そして、手でも繋ぐ?と僕をのぞき込む。

僕は粗っぽく彼女の手を取った。

「また、親子に間違われるとイヤだからな」

そういって、強引に彼女と腕を組む。恥ずかしそうにしながら、彼女はその手を離そうとはしなかった。

お城には緑が多い。常緑樹が遊歩道まで枝を伸ばし、アーチを形作っていた。日中の日射しを適度に隠し、風が通ると心地よかった。お城の周囲をぐるりと囲むお堀には、水面がキラキラと輝いている。すぐそばまで下りると、足下を波が洗っている。呑気に、亀が泳いでいる。

向こうから、幼稚園児の一段が、保育士の引率で、二列に並んで歩いてきた。ガヤガヤとうるさい。時折くねりながらも、小さな足が並んで歩いている。みんな体操着に、水筒を下げていた。

その一団が過ぎるのをぼんやり見て、また歩き出した。元の道に戻ると、少し広い場所に出る。

「昔はここに、動物園と遊園地があったんだよ。オレはすぐ近くに住んでいて、まだ乳母車に乗っている頃からここに通っていたんだ」

今では利用者も減って、無くなってしまうのは仕方がないことかもしれない。しかし、なんとなく、静かにはなったが、寂れてしまった印象が漂う。丸亀はもっと、賑やかな街だったはずなのに、この街の象徴のお城が、静かになるにつれ、街全体もどこか静かになってしまったような気がする。

その賑やかだった頃、桜が舞う中、遊園地の遊具が音を立て、子供の歓声が響いている、という光景を、僕は良く覚えていた。幼い妹と手を繋いで母親と三人で遊びに来たことや、スーパーカーショーを見に来たこと。

年を経るごとに、僕の思い出が徐々に消えていく。そのころの服が、歳を取るごとに着れなくなるのと同じように、それは仕方が無いことなのだろうと思う。

それからしばらく行くと、土産物屋がある。ここは昔からあって、ちょっとした休憩所みたいなものだ。そこを過ぎると、一本の長いまっすぐな坂がある。大手門から、天守へ登る最初の坂だ。

僕は頂上を指さし、登る?と聞く。彼女は心底、うんざりした顔をする。

「この坂は、見返り坂、といって、だいたい近くの中学生の運動部には心臓破りの坂と恐れられている」

ぼんやり登坂の先を、唖然として見上げる。

「それから、ここをカップルで登ると、別れるって言うジンクスがあるんだよね」

彼女は鼻で笑った。また?といわんばかりに首を傾げて見せた。

「香川のカップルって、どこも行けないんだね」

そうそう、と僕は今来た道の先の傍らの茂みを指さす。

「あそこに井戸があってね、そこには昔人柱になった人が埋められているらしくて、この坂に幽霊が出るらしいんだよ」

イヤだ、絶対にイヤ、と彼女は強硬に反対した。

「登ろうぜ。ジンクスなんて関係ないんだろ?」

彼女は大きく首を振り、きびすを返して歩き出した。完全に、拒否したようだ。僕はその背中を追った。

追いついて彼女の腰に手を回して、違う方へと促す。大手門を出て、お堀に架かる橋を渡る。

「パパは本当に、悪趣味っていうか、ひどいトコあるよね」

不機嫌にそう言う彼女をなだめながら、僕らは半ばまで歩く。白鳥が優雅に水面を滑っている。振り向くと、太陽がやんわりと西に低くなり始めていた。知らないウチに、ずいぶんとのんびり過ごしていた。

「ところでさ、何か歌詞のネタになるようなものはあった?」

彼女は首を振る。

「歌詞なんて書くの、初めてだよ。そういうのわからないよ」

「ああいうのは、メロディーを歌いながら自然と出てくるものなんだよ」

覚えた?と聞くと、それには頷いた。

じゃぁ、といって僕らは来た道を引き返した。坂の前に戻って、坂は上らずに駐車場へ帰る道をまた歩いた。

歩いている間中、僕らは二人して、覚え立てのメロディーを口ずさんでいた。時々、適当に目に着いた言葉をメロディーにのせる。意外に嵌ったり、とんでもない方向に逸れたりして、僕らはそれを楽しんだ。

クルマまで戻ってくると、グラウンドでは、ユニフォーム姿の野球部員が一列に整列しているのが見えた。

それを見ながら、彼女はぼそりと言った。

「ジンクスには勝つ。でも、坂道には負けた」

それを聞いて僕は、思わず吹き出した。グラウンドに整列しているウチの何人かが、こちらを振り向いていた。

    

色台は香川を西と東に隔てる一連の山並みだ。国道はそれを迂回するように大きくくねり、一方海側は細い県道が這うように繋がっている。五色台の中心を貫く浜街道が、有料道路だった頃は東西を行き来するのに、五色台という山並みは障壁だった。しかし、それが無料開放されると、東西の距離はグッと近づいた。

それでも、昔はこの山並みを通る道が、ドライブコースになっていていた。クルマの免許を取って最初にチャレンジするルートであり、山頂を走るアップダウンのコースは、深夜の峠責めのバイクやクルマに最適だ。もっとも今は、規制も厳しくなって、数は少なくはなっている。

その延長で、五色台にある二つの札所は、心霊スポット、という嬉しくない異名をいただいている。特に根香寺の方は、深夜に鐘を突くだとか、門のそばの電話ボックスが怪しいとか、そういう噂で持ちきりだ。

そういう話をしながら、僕は駐車場にクルマを停めた。停めるとそこに、牛鬼の像がある。僕はあえてその正面にクルマのフロントガラスを向ける。

「何?あれ」

「牛鬼。昔、ここら辺に住んでいたんだって」

下りて、牛鬼の像を見上げる。

「キュートだろ?」

「どこが?」

目の辺りとか、というと、まあね、と彼女は応えた。

寺はうっそうとしている。まだ、納経所が開いている時間なので、お遍路さんが歩いている。

牛鬼とは関係無しに、僕はこの寺の静けさが好きだ。時々、集団で読経するお遍路さんのツアーに出くわすことがあるが、それでもこの土地が本来持っている凛とした静けさに、心が安まる気がする。境内のほとんどが、常緑の葉に覆われ、日中でも暗い。周囲には幹の太い杉が立ち並んで辺りを囲っている。

門をくぐると、石段が下り、しばらく平坦に伸びて、また上がる。それはまるで森のプールに沈むような気がして、どんな時でも胸がしんと静まる気がする。

そこから本堂まで、ほぼ一直線で、石段もこんぴらさんに比べればそれほど長くはない。ただ、本堂に続くのは、周り廊下なのだ。階段の頂上に立つと、正面に本堂が見えているが、その前には柵で遮られ、まっすぐ道は通じてあるが、そこには進めない。順路はトンネルのような廊下に下るようになっている。

廊下の中に窓はなく、ろうそくの火だけが足下を照らす。壁一面に納められた小さな金像。そのひとつひとつに誰かの願いや、鎮魂の念が込められている。僕らはその小さな仏像に見られながらそこを歩いて、本堂まで行くのだ。それはまるで、あらゆる想いをひとつひとつ試されているような、不思議な気持ちになる。

薄暗がりの中で、自然と足取りはゆっくりとなる。彼女も、僕の後ろを着いてくる。さっきからずっと、僕のポロシャツの裾を掴んでいた。

本堂の前で、賽銭を投げ、手を合わせる。

「こういう所では、ちゃんと仏様に手を合わせるんだ」

皮肉っぽく彼女は僕に言ってから、彼女も手を合わせた。

それからまた、暗い廊下を通って元の場所まで戻ってくる。回廊は一方通行で、今度は反対側から出てくる。

階段を下り、納経所の手前のベンチに座って休憩する。

「このお寺には、さっきの牛鬼の角が納められているんだって」

「見たことあるの?」

「イヤ、今はインターネットでしか見られなくなっている。というか、オレもネットで知ったんだけどね」

出不精の自分が特に、ということもあるが、今は地元のことでもインターネットを通じて初めて知ることが多い。香川に住む者が、誰でもみんな香川について詳しいとは限らないが、この小さな土地でも地域地域に本当にローカルな話題が横たわっている。

狭い範囲の、ごく限られた人にしか知られていないことでも、ネットに乗った時点で万人のものになる。一気に並列化し、誰でも知っていることと、ローカルな話題との区別が付かなくなる。

それは香川に限らず、どの土地でも同じで、ある意味日本全国、行ったことがない土地でもあらゆるコトに精通することが可能だ。それを利点として、ローカルで収まっていたものを、全国規模に意図的に拡大したこともある。図に乗って、地方の台頭、なんてコトを信じ切っていた時代もある。

その結果、日本全国の距離がグッと近くなった。特に流通の発展のおかげで、どこでも手に入らないものがない、というまでになった。その情報の並列化は、もちろん都市圏との間でも行われ、今や日本全国が、ネットの中に収まっている。

それは、多くの利点をもたらしたが、逆に地方の独自性、が希薄になったのも事実だった。昔はその場所に行かないと、知り得なかったこと、その地に訪れて初めて知ること、そういうものが確実にあった。それが今では県外人の方が、地元の人より良く知っている、というようなことが普通にある。香川のうどんが典型的な例だ。

ただ、それが地方に利益をもたらす、と信じていたが、気が付くと、それは逆転してしまった。どこでも、何でも手にはいるなら、それなら東京にいた方がイイじゃない、と。だって、やっぱり東京には、生で手に入るものが多いじゃない、と。

何度見ても、何度触れても飽きないものは、きっと人間に敵うものはない。観光地は一度訪れれば、それで事足りることが多い。物はネットがその距離を無くしたも同然だ。すると、やはり残るは人、という存在だ。誰かに会うのに、そこに行かなければ逢えない。

その頻度が一番高いのは、やはり東京なのだ。つまり、ネットが地域格差を解消することは、幻想に終わったのだ。

そんなことを、僕は喋った。

「ネットに頼らなくても、何でも手にはいるのは、やっぱり東京なんだよな」

「じゃあ、パパが香川に拘るのは、どうしてなの?」

素朴な疑問を、彼女は初めて僕に訊いた。

「きっと、距離だな。別にどこでも良いんだけど、鳥取でも良いし、広島でもイイ。とにかく、僕は距離を大事にしたい。香川はたまたま産まれた場所で、東京じゃない場所で、というだけの理由。香川という土地そのものに拘っているワケじゃないよ」

「それは・・・さ」

いいにくそうに、彼女は俯いた。

「何?」

「それはさ・・・例えば、香川にはユウさんがいるからとか、そういうこと?」

ユウの名前が彼女の口から出て、僕は緊張した。それはある意味正解だ。結果かもしれないが、香川が結局、東京から距離のある所で、今のところ一番めんどくさくない場所なのだ。そして、それは、ちゃんと彼女にもわかっておいて欲しいことだ。

「ユウの存在は、今は君の言う通りかもしれないけど、昔から知っていたワケじゃないし。つまり、めんどくさくない場所がここなんだよ。いろんなコトが、直感的に出来る、って感じかな」

「それは・・・でも、私とは、距離が産まれるってコトで、今はこうしているけど、パパが東京に出向くか、私がここに来るか、しないとダメなワケじゃない?」

そうだね、と僕は頷く。

「例えば、東京がめんどくさくない場所だったら、東京に住むのもアリなワケ?」

「理論的にはね。でも、そのために、たぶんいろんな人の無理を強いることになる。少なくとも、今の環境を、変えないといけない。どうもね、そこまでして、東京に行かないと行けないのかどうか、疑問なんだ」

「私のことは?」

僕はちゃんと彼女の方を向いて、目を見る。彼女も僕の目をのぞき込む。

「こういう言い方は、誤解を生むかもしれないけど、オレと君の間にも、距離は必要なんだと思う」

彼女は目を逸らして、再び俯いた。口をとがらせて、ひどく不満そうな表情をした。

「何時だって、逢えるよ。そう思っていることの方が大事。オレはそう思う」

「パパは、私に逢いに来る?」

「逢いに行くよ」

「ついで、じゃなく」

「どうしても逢いたくなったら」

「本当?」

僕らの距離感は、きっと、それぐらいがちょうどイイ。少なくとも、僕にとってその距離が心地よいのだ。僕と、彼女が対等でいられる、隔たりは必要なのだ。

「ネットだって、見に行かないと、見られないんだよ。アドレスを打ち込むなり、クリックするなり、アクションがないと」

そうか、と彼女は呟くように言った。決して表情は晴れない。でも、何か初めて、僕らは訊きたいことを訊いて、話したいことを話した気がした。自分たちの関係について、ちゃんと確認しておくことを、互いに確認したのだ。

きっとそれは、身体を重ねるよりもずっと、大事なことだったに違いない。それを避けていたのは、きっと僕の方なんだ、と小さく反省する。

照れ隠しに、僕は言葉を重ねた。

「僕よりもずっと忙しいのは、きっと君の方だよ。会いに行けるかどうか、会いに来られるかどうかは、きっと君の方が握っていると思うけどね」

ああ、そのために僕らには近さも必要なんだ、と気が付く。近さは信頼と言うより、安心を産むのだろう、この場合。それを用意できない僕は、きっと責められても反論できないのだろう。

でも、どこかで僕はそれを言い訳にしているような所がある。きっと、距離を置いて信頼を強いるのは、彼女よりも僕の方だ。僕はずるい。きっとずるい。

だからといって、僕はこの場所を離れることが出来るだろうか?

きっと、矛盾する二つの岸辺を、僕は行ったり来たりし続けるのだろう。結論を先延ばしにして、いつか、を夢見ている。

森がざわつく。風が出てきて、木立を鳴らす。少し、涼やかさが肌を刺す。

緑の木々の間からの陽光が、わずかに朱色を帯び始めていた。そろそろ、街が夜の準備に入る時間だ。

「帰ろう」

と僕は半ば強引に、彼女を促した。彼女は納得しきれない表情を浮かべたまま、席を立った。

       

端戻るような格好で、僕らは五色台の白峰方面にクルマを走らせた。もう一つの札所があるが、そこには寄らず、駐車場にある展望台に向かった。

なだらかな山の斜面に突き出すような形で、コンクリートの展望スペースがある。そこに立つと、眼下に讃岐平野が見渡せた。ちょうど、こんぴらさんとは相対する方向を見下ろすことになる。

日が傾いていた。夕陽が、瀬戸大橋の向こうに消えるように見える。瀬戸内海の水面が朱色に波立っている。

「今日行った所がだいたい見えるよ。ウチの実家だけ、山の向こうだけど」

僕はそのひとつひとつを指さしながら、彼女に示した。

しばらく眺めているウチに、彼女がぼそっと、呟いた。

「私、香川って好きよ。嫌いじゃない」

「オレの産まれた場所だからね」

冗談口を叩くと、彼女は僕の脇腹を肘で突く。

「でも、のんびりしていて、パパの言う、距離っていうのは、ここにいるとわかるような気がする」

田舎だもの、と言うと、彼女は小さく笑った。コツコツと、クツの先で壁をつつく音がする。

例えば、と僕は訊ねる。

「ここに住んでもイイと、思う?」

彼女は笑ったまま、応えない。無造作に手を伸ばして、手先をひらひら遊ばせた。

僕は問うて、やっぱり自分はずるい気がした。全てのアクションの動機を、彼女に求めている。責任を彼女に押しつけているつもりはなくても、結果的に、自分が責任を取ろうとするのを避けている。距離感というのは、うまい言い訳だ。

僕はずっと何かを恐れている。その何かを、僕は肌で感じて知っている。きっと、口に出すと、それで決定されてしまうから避けているのだ。その一番わかりやすい言葉が、好きだ、という一言だ。

愛している、と言ってしまうと、僕は全てを自分の思い通りにしようとするだろう。香川を出るか、彼女に決断を強いるかわからないが、とにかく周囲にどんな状況が存在していても、僕は自分の思いを遂げるだろう。

友人関係から踏み込んで、恋愛にまみれた途端、僕はずっとそうしてきた。そして、思い通りにならずに、ずっと失敗してきた。単純に、その過去に脅えて、決断を下せなくなっているのだ。僕は未だ、疑心暗鬼のまま、彼女におそるおそる触れている。

この旅が始まって、急速に僕らは近づいた。でも、少なくとも僕は、何も確信を持てない。まだ、まだ、と言ってそれを先延ばしにしている。

確かなモノなど何もないこの世界で、僕は確固とした答を求めている。

それはただの、奇跡だ。でも、奇跡を信じるのが、恋愛であり、だから僕は、女性を愛するのだ。

急ぐ必要は、全くない。と僕はいつもの調子で、何かを飲み込む。今はそれでイイ、と。

「日が沈むまで、ずっと見ててイイ?」

彼女は僕をはぐらかすようにそう言った。

「まだずいぶん時間かかるよ」

「イイよ、しばらくここで、見ていたいんだ」

彼女はそう言うと、コンクリートの手すりに肘を突いて、デジカメを構えた。夕陽に向かって、シャッターを切る。

そのままじっと、彼女は夕陽が落ちるのを、見守り続けた。

 

 

 

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