夜、寝る前、生活感の全くない僕の部屋の中で、唯一ベッド周り、つまり布団と枕はちゃんと二人分用意されていることが、彼女にはひどく不快だったようで、ずいぶんと嫌みを言っていた。その上、パジャマは僕の分しかない、というのも若干その不快に油を注いだようで、ほんとうに眠りに落ちる直前まで、ブツブツ言っていた。

肩を並べて寝たといっても、キングサイズのベッドは、互いのテリトリーには余裕があって、幸い僕も彼女も寝相は良かった。だから、何日かぶりに、僕はぐっすり眠ったような気がした。寝覚めは良く、トイレに立って、そのままリビングのソファに腰を下ろしても、覚醒は鋭敏だった。

やはり、自分の部屋が一番落ち着く。というより、この部屋には僕を落ち着かせるモノがそろっているだけで、部屋の外には、それ以外のモノがあるだけだ。さらにいうなら、旅先には僕を興奮させるモノがある、ということだ。

そう考えると、訪れた者、である彼女には、未だ居心地が悪いはずで、それが日を重ねるごとに改善されるかどうかは解らない。たとえ、慣れた所で、それが彼女にとって必要なコトかどうかも、僕には未だ決めかねていた。

一応、僕はケータイを取り、メールを打つ。こういう仕事を始めて、僕のスケジュールを伝えるべき人間が幾人かいる。そのすべてに、僕はメールを打っておく。今、帰ってきた、という短い通達だ。

僕は身体のほとんどが、わがままと怠け者で出来ていると思っている。だから、何かに縛られている状態は、基本的にはただ、不快なだけだ。この世の中に、全くベクトルを持たない自由は存在しないにしても、なるべく明日の自分を自分の思いのままに出来る自由を、手にしたいと欲していた。

それがようやく手に入ったのが、ここ数年の自分の生活で、ここはその城だ。それでも、僕は僕を不快にする社会というモノと、付き合っていかなければいけない。だから、僕は弛緩材として、マネージメント担当の人間を欲した。

つまり、僕はめんどくさいことをほとんどすべて、その人間に押しつけたのだ。その代わりに、僕はいくつかの自分の権利を、放棄した。それで僕は満足だった。

そのマネージメントを担当から、返信は素早かった。まだ、朝のワイドショーが星占いをやっている時間だったが、少なくとも返信の文面は、確実に覚醒していた。曰く、いつもの打ち合わせを早めにしたい、だそうだ。

打ち合わせはだいたい、週に一度は行われていた。何もなくても、確認のために、そのスパンは守られていた。それが、僕が外出、特に東京へ出向くと崩れてしまう。マネージメント担当としては、それがどうも心許ないらしい。

向こうで仕事している時には、時々、メールで連絡を取ったりするが、今回のようにそのまま旅に出ると、僕は誰からの干渉も受け付けなくなる。ということは、こちらからも何も伝えない、ということだ。僕は僕の時間に没頭したいのだ。

僕が家に帰る、ということはすぐに仕事に戻る、という奇妙な生活になってしまった。僕の悪癖にはさらに、なんでも仕事、となると嫌気がさす、というひどいものがあって、少なくとも生活の延長に仕事がないのでなければ、三年以上保った試しがない。仕事の合間に生活があるのか、生活の中に仕事があるのか、曖昧模糊としているが、僕にはそれがちょうど良かった。

そう言う性分のせいでもないが、突然の打ち合わせのセッティングに、戸惑いながらも僕は了承のメールを返した。ただ、その中に、全く彼女の存在は面影もなかった。

メールを送信し終えた後になって、たぶんお互いに、驚くだろうな、と僕は思った。

彼女が起き出して、僕はおはようの次に、打ち合わせの話をした。特に表情に出すでもなく、彼女はその話を聞き流した。僕が点けたままにしていた、テレビを見るともなく見ながら、身体全身に血が行き渡るのを待っているようだった。

シャワーでも浴びてくれば、というと、曖昧な返事をしたまま、立ち上がり、まもなくシャワーの水しぶきの音がし始めた。

僕は部屋着に着替えて、パソコンの前に座って、とりあえず電源を入れた。同時に持ち歩いているノート・パソコンの電源も入れ、LANにつなぐ。うちのパソコンは、ファンの音がうるさい。音楽用には不向きだが、そこまでシビアなモノを作ってもいない。

今はほとんど、仕事用のツールのパソコンだが、なぜか、この前に座っているのが一番落ち着いた。キーに触れる前にある、決断を促すささやかな迷いが、僕は好きだった。なんのソフトを立ち上げるか、でその時の気分が解る。これでも、仕事をしたい、という気分の時だってあるのだ。

外出中に堪ったデータを取り込み、その上で整理する。ほとんどがテキスト・データだが、僕はまだ、思いついたことをパソコンに書き留める、ということに慣れていない。だいたいが、ノートやメモ用紙に走り書きして、キーを打つ時にはちゃんとまとまった何かがあってからのことだ。

それでも、だんだんその間隔は短くなってきているが、文章は一向に上達はしていかない。元々才能も運もないのは知っていたから、あまり気にはしていないが。

そういうことをしているうちに、バスタオルを巻いただけの彼女が、ドアを開けた。液晶の画面をのぞき込み、つまらなさそうにリビングに戻った。濡れた髪をタオルで拭きながら、点けっぱなしのテレビを見ている。そのうちにリモコンを操作し始めた。

パソコンの電源を入れたまま、僕はリビングに戻った。小さなテーブルを挟んで、彼女の前に立つと、彼女はぱっとバスタオルの前を開いて見せた。彼女の白い肌が、部屋に差し込んでくる日の光にうっすらと輝く。

僕は驚く、というよりは、呆れる、といった感じで笑い返した。彼女も、ヘヘヘ、とイタズラっぽく笑っただけだった。

「パパは意外に淡泊なんだね」

「意外に、ってなんだよ」

「あんな小説書いているから」

「歳のことを考えてみなよ、裸だからって飛びかかるほど若くはないよ」

肌と肌を重ねるのには、違うルートがあるんだよ、という話をしようと思ったが、なぜか、億劫に思えた。たぶん、旅先なら、そういう話は簡単に出来たはずだ。だけど、今は、この部屋の自分の空間で、そういう話を口にするのはひどく恥ずかしかった。

僕は、彼女をベッドルームに促し、僕の拙いクローゼットから、とりあえず部屋でいるのに不自由しない服を選んでもらった。

  

くの小さなスーパーのビニール袋を二つ抱えた、ユウが部屋の扉のカギを開けて入ってきたのは、十一時を少し回ってからだった。ユウは、スーパーの袋だけでなく、肩に大きなトートバックを抱え、さらにどうやって下げているのかもう一つバッグを保っていた。ハイヒールを蹴るように脱いで、窮屈そうに玄関から廊下に上がる。

ピシリと襟の立った薄いブルーのブラウスに、深い碧のプリーツスカートは、ユウのいつも姿だったが、ひどく大人びて見えた。ラフな格好でも、どこかに整然とした社会性、みたいなモノに溶け込む雰囲気を漂わせている。ブラウスの肩に掛かっている髪は、今時珍しく黒髪で、しなやかにカーブを描いて揺れていた。

僕が玄関に向かえに向かう前に、リビングにユウは顔を出した。ソファに座った、彼女がユウを認めて、僕はその表情を観察した。案の定、目の前に現れた女性の姿に、彼女は戸惑い半分、敵愾心半分、合わせて唖然とするのを噛み殺したような表情を浮かべていた。

彼女の存在は、ユウにはもう一度改めてメールをして知らせていた。というのも、昼食の時間が近づいているというのに、食パンのひとつもないことに、彼女が不満を漏らしたのだ。それで、何か買ってきてもらうようにユウに伝え、その文面に彼女の存在を紛れ込ませたのだ。

そしてその結果が、彼女が抱えたビニール袋だった

ユウはそのままキッチンに滑り込むと、とりあえず、といった感じでビニール袋はシンクの隣に置いた。そして、改めて、彼女の顔を見て、こんにちは初めまして、と言った。

彼女は、無言で会釈を返しただけだった。

僕はようやく、ユウを彼女に紹介した。マネージメントを担当してくれているんだ、と言うと、あらそう、と無関心を装った。

ユウは元々、地元のケーブルテレビでアナウンサーをしていた。東京の大学から、流れてきた県外人だが、今は香川に居を構えている。端正な容姿と、勘のいいしゃべりで香川ではちょっとした人気者だった。

その取材で、僕はユウと知り合った。ネットでウロウロしていただけの僕を、少しだけ世間にアナウンスしてくれたのは、彼女だった。おかげで、僕はいくつかの仕事にありついた。同時に、彼女と一緒に週に一度、ラジオで喋るような仕事も始めた。

そのうちに、彼女は自分で事務所を開き、そこに僕は潜り込んだ。彼女は経営とか、営業とか、そういうことにも才能があった。というより、誰でもそれぐらいのことは、独立してやれるのだろうけど、僕には全くそういう素質がなく、彼女には全く頭が上がらないのだ。

最初のうち、僕には下心があった。彼女もまんざらではなかった。そういう関係も、何度かあった。しかし、それはいつの間にか解消された。ちょうど彼女が個人事務所を開くのと時期が重なっている。準備に忙殺され、時間的バランスが大きく変化した、というのもあるが、どこかで彼女が一匹狼でやっていくのに、僕という存在が邪魔だった所もある。彼女はそう言う意味でも、合理的な考えに徹していた。

だから僕は、全幅の信頼を置いている。よしんば、彼女に食い物にされても、僕は何とも思わないだろう。彼女と僕の間に醸造された信頼感は、合理的でスマートなモノに落ち着いたのだ。僕に足りないモノを彼女に補ってもらう代わりに、僕は彼女に好きにやってもらうことに同意していた。

簡単に言えば、生きていくのに最低限必要なモノと、ほんの少し自由になる財布の厚みがあれば、それで充分だった。自分の作品がどんな扱いをされようと、僕には全く関心がなかった。というより、その評価や、コミュニケーションの道具としての一アイテム以上の価値を欲してなかった。それ以外のモノが、僕から産まれるならば、僕はそれがどうなっても良かったし、誰かがそれを生み出すなら、好きにしてもらって良かった。

肉体関係というモノに、恋愛が限定されるなら、僕とユウの間柄はなんとなく始まって、なんとなく終わった。そういう関係を結んだ女性は、僕には二人目だった。そこから先には、僕らは仕事上の信頼関係、というモノだけを残した。そんな風に思っている。

だから、僕はユウの存在をごく自然に思っている。客観的に見て、少々厚かましく見える所も、僕には特に気にならなかった。

その客観的視線のみを持った彼女の存在に、僕は緊張していた。何か彼女について、あるいはユウについて、説明的な言葉が必要なのだろうが、いずれにしてもぎごちなく何か言い訳めいたモノに聞こえそうで、僕は躊躇していた。

少なくとも、彼女はユウの存在に、何事も感じないフリをしていたが、大いなる猜疑心を持ってひどく気になっているはずだ。思えば、彼女が会う初めての僕の関係者、なのだ。それが女性であったというのは、かなりのマイナスポイントに違いない。

こういう時に、プライベートと仕事の境界が曖昧だと苦労する。とにかく、僕はこういう時にひどく男性的な考えに落ち着いてしまう。

僕はユウとの仕事を優先させた。

  

元の新聞のコラムのことや、二人でやっているラジオの企画については、ユウがキッチンでスーパーで買ってきたものを、片づけるうちに終わった。他にいくつか締め切りのある、本来の仕事はあったが、それはまだずっと先で良かった。

キッチンから出てきたユウはトートバッグから、いくつかのパックを取り出し、それを食卓テーブルの上に並べた。

「これ、彼女の口に合うかどうか解らないけど、いつもの食事」

僕は彼女の方を見た。彼女はこちらを覗いていた。僕ではなく、ユウが彼女に説明する。

「この人、全然料理しないのよ。外食、って言ってもめんどくさがり屋だから、すぐにコンビニお弁当とか、ひどい時だとめんどくさがって何食か抜いちゃうのよ。だから、暖めてすぐに食べられるように、保存食をね」

そういって、ユウはひとつひとつのパックの説明をする。一通り終わって、ユウは何かに気付いた。

「そうか、彼女がいるんだから、料理作ってもらえば好いんだよね」

ユウはそういって、アハハハと笑った。それは、どちらかというと、僕をからかっている。だが、それ以上の他意はない。ユウは僕よりもずっと社交的で、たぶん他人の意志を忖度できる人間だ。

だが、今日初めてユウに逢う彼女は、そこまで好意的には捉えなかったように見えた。それが年齢的なモノか、それとも、僕に対するある種の独占欲なのか、良くは解らなかった。彼女はたぶん同い年の中に紛れれば、飛び抜けて大人びて見えるが、ユウとは十歳近い開きがあった。その二人のどちらが落ち着いて見えるか、は一目瞭然だった。

それが余計に、彼女の癇に障るのかも知れない。自分との年齢の差、よりも、僕とユウの年齢差を比べている。

「だって、フライパンも何もないんですよ」

微妙な言い回しだな、と思ったが、ユウは軽く、そうね、といっていっそう高く笑った。

「それに、お客さんにそんな迷惑かけられないわよね。良い機会だから、あなた料理してみなさいよ」

ユウはそういって僕の二の腕をこづいた。

「それぐらい宿泊代の代わりにしますよ」

彼女はフン、と鼻を鳴らした。なんとなく険悪なモノが如実に漂いだしたのを、僕もユウも感じた。彼女のストレートな心の動きは理解できるが、ここに来てユウの意図がよくわからなかった。ユウのごく普通の戯れ言なのか、やはり彼女のと同じぐらいの量で質の違う思惑があるのか。

とにかく、ここで場を納めるのは、僕の役目だというのはよくわかった。

「そうそう、彼女、あんまり洋服持ってきてないんだ。だからサ、フライパンのついでに、彼女をそういう所に案内して欲しいんだよ」

ユウはそう、と軽く返事をする。彼女は立ち上がってようやく、食卓テーブルのイスに座った。テーブルの下で僕の脇を突く。

「パパと同じ所でイイよ」

彼女の言葉に、ユウがめざとく反応する。

「この人、服のセンスが全くないからね。あなたがっかりするわよ。店も知らないしね」

僕は認めざるを得ない。

「そう。だから、彼女の方がずっと、詳しいんだよ。俺の服だって、彼女に選んでもらってるんだ」

「まあね、さすがにテレビで活躍している人に、シマムラとかユニクロっていうわけには行かないでしょうしね」

そういって、僕に向かってイイよ、と言った。予定は、と聞くと、今日の午後は特にないから、明日は結婚式の司会が入っているけどね、これからすぐ行く?

結局僕らは、昼食をかねて、外に出ることにした。

  

ルマの中で、ユウは初めて後部座席に座った。ルームミラーで見ると、少しぎごちなさそうだったが、あっという間に慣れる。そしてシガレットケースを取り出しながら、助手席の彼女にたばこイイかしら?と聞いた。

クルマをスタートさせて、しばらくして、それにしても、とユウは笑い声をにじませて、僕に行った。

「パパって呼ばれてるんだ」

言った後で吹き出す。イイね、それ、私もパパって言おうかしら。

僕は無言でやり過ごす。無言というのは、卑怯かも知れないが、ユウの何気ないセリフに険悪な表情の彼女を肩越しに見ると、僕は何も言えなかった。どちらかというと、ユウの思惑も僕には、まだはっきりとはつかみ切れていなかった。

ユウは合理的に物事を考え、それに即した行動を取る。そういって良ければ、頭のいい女性だ。だから時には、冷たい印象を与えるし、空気を読めないこともある。そういう所は、利点でもあり、ユウのほとんど唯一と言っていい欠点でもあるだろう。

他方で、助手席に座る彼女が決定的にユウと違うのは、たぶん経験値だけだろう。きっと経験を積めば、ユウと同じような考え方で物事を見ることが出来るはずだ。ただ、まだ彼女は、身体的感覚というか、肌が受け取る空気に敏感になっている。そちらの方が優先的、とは意図せず、脊椎反射的に表情に出るのだ。

そういう動物的な所が、彼女の魅力でもある。偏見かも知れないが、僕はそれこそが、女性に敵わない部分だと思う。

ユウにそういう動物的な所がないとは言わないが、ただ、社会のなかで表に出さない時間が多いだけだと思う。そういう意味では、きっとユウは未来の彼女の姿なのかも知れない。そして、そういう所を敏感に感じて、彼女は今ひとつ、ユウと距離を置こうとしているのかも知れない。

そういう、関係をつなぎ止めたり、取り持ったりする術を、僕は持ち合わせていない。と言うより、面倒なことの最たるモノなのだ。僕にとって、一番苦手なモノなのだ。

あえてそれに対してスキルを上げようとした時期もあったけれど、今はそういう気もなく、出来れば穏便に、と願うばかりだ。第一、彼女の周りにはきっと、ユウのような人間もたくさんいるだろうし、ユウの仕事の相手に彼女のような人間がたくさんいるはずだ。それが僕とは明らかに違う、日常であるはずなのだ。

僕はただ、お互いにそれぞれの手管で、関係を築いて欲しい、と思っている。

それが大人の関係でしょ?と言う便利な言い訳を、僕はポケットに忍ばせていた。

「パスタのおいしい店が出来たのよね、ちょっと郊外になるけど」

とユウは言って、ああお客さんがいるんだったわね、と口を濁した。県外から来た者には、まずうどん、というのが数年前のうどんブームから香川の新たなルールになってしまっていた。ユウは元々香川の人間ではないが、すっかり香川のルールに染まっていた。社交的なことが、僕よりずっと得意なユウは、そこら辺にも抜け目がないのだ。

「どこがイイかな、源平とか、その辺?」

「どっちみち商店街に行くんでしょ?栗林の辺りにコロッケの大きい所無かったっけ?」

あの辺駐車場無いんだよね、ちょっと歩くか、と僕とユウは地元の話をした。自然と助手席の彼女は取り残される格好になる。それを承知している彼女は、無表情で助手席の窓を見つめて、僕に後頭部を見せていた。東京を出てから、僕は一日のうち助手席にいる彼女ばかり見ていた気がする。それでも一度も見たことない、冷たい後ろ姿だ。

しかし、その表情を気にかけたのは、ユウの方だった。

「この人ね、全然グルメには感心が無くて、うどん屋っていっても全然知らないのよ。いつも同じところばかりで、だいたい一人で一見の店に入れないおとっちゃまなのよ」

そういってくすくす笑った。その声に、彼女は頬を少しだけ動かして、小さく返事をしただけだった。

「栗林で、イイよね」

結局決断はユウが下した。

  

松の中心地、アーケードから少しはずれた所の駐車場にクルマを預けて、それから南に向かって三人連れだって歩いた。といっても、三人はそれぞれ、微妙に距離を取って歩いた。ユウが先頭を歩き、その後ろを少し距離を置いて彼女が続き、僕がそのすぐ後ろを歩く。先導はユウで、まさにお客さんとして彼女を案内していて、さしずめ僕は彼女の護衛、ただの従者だった。

商店街からはずれたアスファルトの道は、人影もまばらだ。旧市街と言っていい町並みが続き、ぽつぽつと小さな商店が店を開いていた。その真ん中を、郵便のバイクがうねり、宅配便のトラックが通り過ぎていった。

道は大きく湾曲して曲がっていた。その先が二またに分かれ、ずっと向こうにJRの高架が見えた。高架の上に建物の影はなく、ぼんやりと穏やかな空が輝いていた。雨が降りそうな気配は全くなかったが、青空は見えていない。

いくつか横断歩道を渡って、細道に入ってまた広い道路に出る。見ると小さな店の並びに、明らかにそこだけ、人の出入りが盛んな場所がある。看板は小さく、そこに群がる人とそこはかとなく漂ってくる、出汁の匂いがしなければそこがうどん屋であることは解らない。香川のうどん屋は、特に東の方にはそういううどん屋が多い。

あそこよ、とユウが誇らしげに彼女に告げる。知る人ぞ知る、みたいな所が香川のうどん屋の特徴という変な風潮が産まれて、全くの香川生まれ香川育ちの僕は、躊躇してしまう。確かにうどん屋は至る所にある。というより、どこの店にもうどんがあり、どこの店もちゃんと讃岐うどんの味がする。そのことの方がずっとすごいと思う。

だから一部を除いて、ガイドブックに載っているうどん屋はどこでもはずれない。それなりに土産話になる。なんだったら、高速のパーキングエリアのうどんでも、はずれはないのだ、と僕などは思う。

その点、少しは舌の肥えているユウは、こことここはおいしい、というモノを持っている。そのひとつを、案内するのが義務、という要のなコトさえ感じているのかもしれない。

店の中は混んでいた。ちょうど昼時で、少しはずれた所には少し大きなスーパーもある。しかし、日曜の今日は、観光客も混じっているようだった。

ユウは相変わらず先頭に立って、後ろの彼女に、私と同じように注文すればいいから、といってから厨房に声をかけた。律儀に彼女はユウと同じ注文を繰り返した。ついでに、僕も同じ注文をする。

プラスチックのトレイを取って、その上に小皿を置く。続いて棚に並べられた総菜から、好きなモノをピックアップする。それから厨房から出てくるうどん鉢を受け取る。そこには湯がいたばかりの艶々と光る麺が収まっていた。

僕は後ろから、うどん屋のおにぎりはおいしいんだよ、と彼女に耳打ちする。おにぎりは皿に盛られて、レジの横にあった。彼女はちくわを載せ、僕は卵をひとつ添えた。そして、おにぎりの皿をトレイに置いた。

会計をすませてから、思い思いに出汁をかける。天カスを乗せてネギを振りかけ、讃岐うどんのできあがりだ。

壁に向かって備え付けられたテーブルに、三人並んで座った。狭い店内に空いている席は少ないが、人の入れ替わりが早い。座って食べ、あっという間に出ていく。今日は観光客が混じっているせいか、ひどく賑やかな気がした。

「三人であわせても千円いかないのよ、すごいと思わない?」

ユウの問いかけに、彼女は笑いを浮かべるが、言葉は少ない。代わりに一心にうどんを啜る。僕はその様子を、横目でチラチラと見た。ものを食べている時は、どんなに気分が高揚していても、落ち込んでいても、人は一心不乱だ。モノを口に運び、噛み、味がしてもしなくても、飲み下す。いくらお行儀をとやかく言われても、僕らは食べることに関しては、全く変わらない。誰もが同じだ。

そういう意味では、香川の食はシンプルだと思う。少ない動作で腹と欲を満たす。時間をかけず、さっとこなす。これほど合理的な食事はない。鉢を持ちさえすれば、どこでも食べられる。そして充分に、うまい。

こんなに贅沢なことがあるだろうか。僕はそういう文化が根付いていることが、嫌いではなかった。

元々ユウが言うように、食にはほとんど興味が無く、スピード感や手軽さは、僕にとってはありがたい。イヤ、こういう土地で産まれたから、そういう性格になったのかもしれない。香川の人間はことさら、並ぶのが嫌いだという。

だから、というほどでもないが、僕はこの土地から離れることに、少なくとも今は理由を見いだしていない。もっとも、仕事の上で香川という距離は、不便な所もあるのは確かだ。でも、それが補いきれないか、というとそうでもない。だったら、理由にはならないと思う。新たな土地に根を下ろす、という面倒さに比べたら、取るに足らないのだ。

つまり僕は、めんどくさいから、この土地を離れないのだ。ここにいる理由は、愛着ではなく、めんどくささなのだ。

なぜか、僕はうどんを食べると、そういうことをしみじみと思ってしまう。この手軽さが、自分のある部分を象徴していて、それで充分と思ってしまう自分を、省みてしまうのだ。

その店に三十分とは滞在していなかった。それでも腹は満たされ、額に汗が浮く。店を出て歩き出すと、風が心地よかった。

うどんおいしかった?とユウが彼女に聞く。彼女は頷く。

おにぎりもなかなかのモンだろ?僕が問うと、やっと彼女は少しだけ笑顔を見せた。

  

店街に戻り、長いアーケードの下を歩く。最近改装したばかりで、一時期より通りは明るい。だが日曜だというのに、混雑する、というほど人は歩いてなかった。横暴に通る自転車は不自由そうだが、慣れたもんだ。

すり抜けるように歩いていると、自然にスピードは速くなり、店をどんどんと通り過ぎていく。しかし、ユウと彼女は、自然とウインドウの前で足を止め、何事か喋っている。だいたいが、彼女の行動にユウが合わせている感じだ。

苦手なモノの多い僕の中で一番は、洋服のセンスがない、ということだろう。なんとなくイメージがわかないし、店に入ってフィッティング、という作業が面倒だし、苦手なのだ。だから、だいたいが人任せだ。一人で服を買いに出かけるということはまず無く、どうしてもそうしないといけない場合は、店員任せだ。

いくつかの店の前で立ち止まり、やがて、ユウが促すように店の中に入った。ウッドハウス風の内装に、まるで溶け込むような淡い色の服が飾られている。小柄な女性がいらっしゃいませ、と出てきて、ユウの顔を見てお久しぶりです、と声をオクターブ上げた。どうやら、知り合いらしい。

仕事柄、ユウの顔は広かった。特に情報番組を担当していた時期があるせいで、ファッション関連や食事をする店に知己が多かった。まぁ、それが僕の助けにもなっているのだけど。

店員に彼女を紹介すると、さらにその女性のテンションは上がった。彼女の存在が、目の前にあることに感嘆し、その状況をにわかに信じられずに混乱している。それを見て彼女の顔が、一気にほころんだが、いわゆる営業スマイル、ってヤツのような気がした。

僕は店を一周してから、一応店にいる女性に残らず愛想笑いをしてから、店を出た。斜向かいの文房具屋に入る。特に意味はなく、ぐるりと店内を一周する。色とりどりのペンの中から一本取りだし、また戻す。そういう手持ちぶさたな行動をいくらか施して、また店を出た。

自転車のブレーキの音がする。こんな地方都市の一角でも、街は殺伐としている。店の前に立ちつくし、僕はぼんやりと通りを見つめていた。

そんな僕を認めて、ユウは店を出てきた。

「美術館でも行ってる?長くかかりそうよ」

ちらりと店を見る。相変わらずテンションの高いままの店員に、彼女は困惑しながらも、出された洋服を身体に当てて、鏡を見つめる。それにしてもいつも不思議に思うのだけど、女性は何時の間に、そういうセンスを磨くのだろう?イヤ、僕は何時、そのセンスを磨くタイミングを外したのだろうか?

人並みに、思春期もあったし、異性を意識してかっこよく自分を見せたい、と願った時期もあったはずなのに。

そういうことを僕はいつも考える。自分の中にあるモノをいくつか箇条書きにして、そのほとんどがまだまだだと思う。これだけは負けない、これだけは俺だけのモノだ、というモノが見あたらない。そういう境地に至る道を、自分は欲していたはずなのに、なぜ見つけられなかったのだろうか?

僕はいつも、ぼんやりとした敗北感に苛まれ続けて、結局常識の範囲内での、ささやかな優越感のみにしがみつこうとしているような気がしていた。それすらも僕に勝利の美酒はもたらしてくれない。このまま僕は醜く朽ち果てていくだけなのだろうか?

「俺が見立てないと、彼女、イヤじゃないのかな」

「まあね。せっかくのデートに、他の女を連れてくること自体、もう彼女はご機嫌斜めよ。その上消えちゃったら、修復不可能でしょうね」

ユウはくすくすと笑う。ただ、その笑いには、どこか、ユウ自身の達観のようなもを感じた。優越感といってもイイかもしれない。彼女はあなたに不釣り合いよ、とでも言いたげな、そういう感じだ。

そもそも、ユウは僕が性別を問わず、人と交わることに違和感を感じている。苦手意識をそのまま、受け止めている。だから、マネージメントと称して、足りない部分を補ってくれているのだ。それは一方で、僕にあるモノのいくつかを認めていると言うことだ。

それがまだ、彼女にはない。というより、確かめ合ってはいない。だから、当たり障りのない、普通のおつきあいを、今はなぞっているだけだ。その奥にあるモノを、薄々気付きながら、僕らはただ、お互いのご機嫌取りに終始している。

その奥に手を伸ばすコトに、僕らはまだ勇気がもてないのだろう。

「聞いてみれば、彼女に」

正直に言うのが当たり前でしょ?とでも言わんばかりに軽く、ユウは言ってのけた。そうだよな、と僕は納得する。

そして僕は店の中に戻った。

  

が付くと僕は、高松の商店街の端から端までを、隈無く歩くことになった。美術館には寄らず、その周辺のアンティークショップに入ったり、書店やCDショップを巡っているうちに、そうなってしまったのだが、僕は服に限らず、そもそも店に長く留まるタイプでもない。目的のモノがある時には、一直線にそれを購入し、捜し物がある場合でも、だいたいはアタリを付けていくので、それほど時間はかからないのだ。

唯一、チェーンの古本屋に寄った時だけは違っていた。そこだけは全く当てもなく入り、ただひたすらタイトルを眺めて、その中から何かがひらめいたモノを手に取るのだ。だから、じっくり隅から隅まで眺める。漫画やDVDCDも残らずさらう。

それでも、ユウと彼女との待ち合わせの河原町のコーヒースタンドで、僕は待ちぼうけを食らった。話を聞くと、彼女の移動距離はたいした物ではなかった。つまり、セレクトに時間をかけた、ということだ。

僕が手持ちぶさたに、買ったばかりの中古の文庫本に目を通していると、ユウが紅潮した様子で入ってきた。

「さすが東京の人は違うわね。やっぱりセンスがイイわ」

その口振りから、別に彼女を持ち上げるわけでもなく、心から感嘆しているようだった。

「ルームウェアがいるっていってたでしょ?そしたら彼女、浴衣がイイ、って言いだして。確かに寝間着とかジャージっていうよりは、全然そっちの方が素敵よね」

私も真似しようかしら、と心の底から感心した声を出す。

どちらかというと、彼女が僕の部屋で今すぐ必要なモノは、下着やルームウェアといったプライベートなモノだった。それを口実に、僕は彼女と別行動するのを納得させたのだが、当の彼女はというと、平然とした顔だった。今さら感情に起伏はありませんよ、と言いたげな無表情だった。

それでも、いくらかの満足はしたのか、僕の隣に大きな紙袋をどさりと置くと、ユウに微笑みかけた。

「さて、コレで私の役目も終わりでしょ?何かある?」

ユウは僕と同じサイズの紙コップに口を付けながら、そういった。彼女は、ストローを銜える。

「フライパンとか、ホームセンターだな」

「あら、それは私はいらないでしょ?」

僕は傍らの彼女を見た。彼女はまっすぐ前を向いたまま、我関せず、といった感じだった。

「じゃあ、うちのマンションまで送っていくよ」

そうね、といって、ユウはイスの背もたれに身を預けて、ふぅ、と大きく息を吐いた。

ホットコーヒーの入ったコップを両手で抱え、ユウはゆっくりと口を付ける。猫舌のユウは、いつもそうして時間をかけてコーヒーを飲む。

歩き疲れたのか、ユウは呆然としてただ、コーヒーを飲む、という動作を繰り返していた。突然の休息に、身体が戸惑っているかのようだった。

「でもさ」

目をどこかに泳がしたまま、ユウは口を開いた。

「東京からあなたが、女の子を連れて帰ってくるなんてね」

確かにそんなことは初めてで、そして、それ以上の意味はなかったが、何かユウが言葉にすると、とてもも重みのある行為のような気がした。そしてそれは、彼女の気持ちを代弁しているかもしれない、と僕は気が付いて緊張した。

「こうしてみると、確かにお似合いとはいわないけど、面白いカップルね」

僕と彼女を交互に見て、ユウは頬をゆるめた。

ちょっと写真撮らせなさいよ、といっておもむろにデジカメを取り出す。

「ほら、二人並んで」

僕は彼女との間にある紙袋を横にどかした。彼女が間を詰めて僕と肩を並べる。

「あなた痩せなさいよ、まるで美女と野獣ね」

そういってシャッターを切った。液晶の画面を見て、ユウは可笑しそうに笑った。僕らの方に画面を向ける。仏頂面の二人が、並んで写っていた。

「まだ、彼女のことよく知らないけど、あなたにとってはお二人らしい写真ね。もっと楽しそうにしても好いのに、まだ打ち解けない感じが、高校生みたいよ」

ユウは声を出して笑った。あらためて、一度は身体の関係を持ったユウが、彼女を連れてきた僕に対して、どう思っているのだろうか、と思った。なんとなく、自然に関係が無くなって長い時間が経っているので、全くユウの意図など気にしなかった。至極ビジネスライクに、僕は彼女を紹介し、ユウを利用したつもりになっていた。

彼女は確かに、ユウの存在を訝しがっている。かえって説明が必要だろう。でも、それは、距離感を計っている途中だから、それほど深刻に考える必要はないのかもしれない。

しかし、ユウは、ほんとうにビジネスライクな関係のままでいるのだろうか。実をいうと、そこら辺が曖昧なままだ。普通に恋愛関係は解消したが、はっきりと口にしたわけではないし、だからといって問いつめることもなく、今はお互いに受け止めている。だが、それはほんとうに、お互いに共通意識として存在しているのだろうか。

たぶんそこには、信頼感、というモノの深さが関わっているのだろう。今、恋愛の機微と、信頼の度合いが逆転している。愛の火が消えたユウを信頼し、愛を感じ始めた彼女との間にはまだ、完全な信頼が築けてはいない。それがこの奇妙な感覚の原因に違いない。

そもそも、僕と彼女の間にはあからさまな言葉での確認というモノはなかった。ピロートーク以上に、お互いの心を重ね合わせる代名詞になっていたが、それは曖昧で、もっと別の思惑に支配されていた。僕はそれを隠れ蓑にして、深く傷つかないように、軽く交わしてきたのだ。

僕がいつも失敗するのは、その距離感に戸惑ったまま、何もかもが遅きに失するのだ。もっと社交的だったり、口が巧かったりすれば、距離感を自由に弛緩する術もあるのかもしれない。でも僕にあるのは、戸惑いだけで、疑心暗鬼のまま、何かを為さぬまま事が終わる。

今だって、ユウの役目が終わった、という言葉にほっとしている自分に気が付いている。これからは、彼女のご機嫌取りに終始すればイイだけだ。そういう思考を、無意識にしてしまう自分に、僕は嫌悪感を感じていた。だからといって、どうしようもなく自然にそうなってしまう。

すべては、僕が必要以上に物事に関わることを、億劫がることに原因があるのだと思う。丁寧に、時間をかけて、言葉を尽くすことを厭わなければ、人と人の間はうまくいく。その手間を、僕は嫌ってしまう。苦手に思ってしまっているのだ。

それを知っているユウは、僕が彼女という存在に対して、果たして手間を惜しまないぐらいの存在に感じているのかを、おもしろがっている。それをとても興味深く見つめているのだ。

では僕は、なぜユウに彼女を紹介したのだろうか、と後悔に近いものを感じていた。その必要を感じたからではあったが、それは何か、僕とユウの関係、ビジネスにとってどうしても必要なことだったのだろうか。

それ以上に、きっと何か僕には思惑があったはずだ。本能的にそれを認めるのを拒んでいるのか、ただ気付いていないのか、僕には判断が付かなかった。

隣から、ズズズッという音がして、彼女がテーブルに紙コップを置いた。ユウも僕も、ほぼ同時に喜劇の幕が転換するベルを聞いたような気がした。

「送ってくれる?」

ユウのその言葉を合図に、僕らは立ち上がった。

  

人っきりになっても、彼女のご機嫌は斜めのままだった。逆に、ユウを下ろしてからというモノ、表情を押し隠さなくなって、仏頂面を窓の外に向けたまま、こちらを見ようともしなかった。

ユウは別れ際まで、事細かに、ちゃんとしなさいよ、という言葉に繋がる注意を重ね続けた。そのほとんどが、彼女に気を遣いなさいよ、というカテゴリーに入るモノで、すべてが僕を非難しているに等しかった。

そして一端僕のマンションでユウを降ろした後、そのまま近くのホームセンターに向かった。

入り口に、ペットのコーナーがあり、軒並みケージに入れられた子猫や子犬たちは眠りこけていた。僕が立ち止まると、彼女も立ち止まった。

「あのマンションって、ペットOKなの?」

「確かめたこと無いな。だから、解らない」

「一人暮らしだと、ペット買うのは難しいよね。うちはペットダメだから、かろうじて熱帯魚だけ」

「独身の部屋に水物を置くと、縁遠くなるって言うけどね」

眠っている子猫のケージを玩んでいた彼女は、僕の方を向いて、無言で冷たい視線を投げた。どうやら今日は、僕は何もかも失敗する日らしい。

それから生活用品の並んでいる所まで行った。鍋や薬缶を見ながら僕は言った。

「さっきユウも言っていたけどサ、無理して料理なんかしなくても好いんだよ。いつもは外食ですましているんだから」

僕は気を遣ったつもりだった。僕はまだ、彼女をお客さんだと思っている。彼女にしてみれば、コレはまだ旅の途中だと思っている。

「だから、料理をしたいんじゃないの。私はね、料理をしたいの、それだけ」

そういうと、さっさと彼女は先に行く。フライパンが吊られている棚を見上げる。

ふと、彼女が温泉場で、普通のことをしたい、と言っていたことを思いだした。僕の中で、僕の部屋で料理を作ることが普通ではない。ましてや誰かに作ってもらう、と言うことも、普通ではなくどちらかというと、出来事だ。思い出に繋がる出来事だ。

でもそれは、彼女にとって、普通のことなのだろう。僕は自分のキッチンに、彼女が立ってフライパンを転がしている様を想像してみた。昨日垣間見た、あの奇妙にはまりこんだあの景色の延長に、その想像はあった。

想像は見事に、現実味を帯びて、健やかに優しく絵になった。

ただ、それがどうも、東京で見知っていた彼女とは重ならなかった。華やかな世界で羽を伸ばす彼女と、今目の前にいる彼女は別人ではないかとさえ思う。ゆっくりと東京から、日本海を撫でて香川に帰ってくる間に、違う人にすり替わったような感覚だ。

もしかすると、僕は彼女を僕の部屋に連れてきたのは、失敗だったのかもしれない。僕の想像の中で、今の彼女の周りには生活というモノがぴったりと張り付いていて、それはどこか、当たり前をそこに現出させていた。

そこには、彼女が夢の世界の住人であったイメージは、影となり、そういって良ければ邪魔な存在だった。それは言い換えれば、僕だけに見せる特別な存在なのだけど、それはもしかしたらとても罪深いことかもしれない、と思うのだ。

彼女はほんとうは、誰か一人のモノであってはいけないのだ。よしんばそれが許されていたとして、僕がその切符を手に入れる資格があるのか、自信がなかった。

でも、僕は今日一日、僕の見知った風景の中に溶け込んだ彼女を見ている。それを当たり前に見ている。すれ違う人たちの中で、違和感のない彼女を、普通に見ていた。ユウとの距離感がギクシャクしていても、彼女が何か特別な光を放っていたわけではない。

そう、彼女もその中に溶け込もうとしていたのだ。

そんなことを強いるのが、ほんとうに僕に許されているのだろうか。僕はひどく、罪悪感に苛まれて、どうにかここから逃れるにはどうしたらいいのだろうか、とそればかり考えていた。

彼女は、鍋やフライパンを手にとっては見比べ、やがて選択を決めると、手にしたかごに入れていく。あっという間にかごの中には、生活用品が山積みになる。その隙間に、今度はお玉やしゃもじを入れる。

「炊飯器はあったっけ?」

彼女の声に、僕はハッとなる。

「小さいのならね。でもずいぶん使っていないよ」

「お米ぐらい自分で炊いたら・・・」

なんとなく、その言いっぷりは、さっき別れ際にユウが言っていた口調にそっくりだった。

  

外、といっては怒られるかもしれないが、彼女の作る料理は、すこぶるおいしかった。僕らはマンションに帰ってから、歩いて近くのスーパーに行った。庶民的な安売りがメインの、小さなスーパーで、食材を買った。

僕はなんとなく気が引けたが、彼女は僕の好きなモノを作りたい、と言ったので、コロッケをリクエストした。昨日買ったカニが、ちょうど届いていて、それを絡めてカニクリームコロッケ、のようなモノを作ってくれた。もちろん、キッチンの大皿には昨日見たばかりの、タラバガニが中心を飾っていた。

全く料理のことに明るくないので、どれくらいのテクニックを要するのか、誰でも作れるモノなのか解らない。しかし、彼女はいとも簡単に、コロッケを作って見せた。僕はただ、その様子を食卓テーブルの前に座って、あんぐりと口を開けて見ていた。手際も慣れたモノで、必ずしも満足に揃っていない道具を使いこなしていた。

「料理は昔からやっていたから。ほら、私のお母さんって離婚しているでしょ。再婚する前は、よく手伝ってたし、弟が出来てからは、三時のおやつは私担当だったのよ」

それなりに訓練を重ねているから、自信に繋がっているのだ。それは、確かに、どうに入ったモノだったし、充分に誇って好いことだと思った。

それを食べている最中、僕はおいしい、としか言えず、逆に申し訳なく思った。ただ、素直に目の前で作られた湯気の出ている料理に、僕は感動し、ほんとうにそれをおいしく感じたのだ。

一緒に食卓を囲んでいる間は、彼女の表情はほころんで、僕はいくらかほっとしていた。やはり、二人きりの時間、というモノが、僕らにはまだまだもっともっと必要なのだ、と思う。

それでも、食べ終わって、ユウさんにもおみやげにカニを分けてあげれば良かったね、というようなことをぽつりと言った。その口調も表情も、いつになく影に潜んで、わびしく沈んでいたのが気になった。

食器の片づけは僕がやり、その間に、彼女は買ったばかりの浴衣に着替えた。滅多に立たないキッチンの向こうから、僕はリビングを見る。その光景は、知っているようで、とても新鮮だった。そこで、彼女がするすると、服を脱ぎ、下着姿になり、やがて器用に浴衣を着る。淡いブルーに流線の模様が入った浴衣は、確かに部屋着にしては派手に思えたが、かつて日本にそういう風景は当たり前だったんだな、と気が付かされる。

そういって良ければ、浴衣を着る彼女も、そこにある生活に溶け込んでいた。艶っぽいうなじが、ひどく大人びて見えたが、それも部屋を移動すると気にならなくなる。あまり良い比喩ではないが、旅館の仲居さんがそこにいるように、存在に違和感がなかった。

かわいいね、と僕が言うと、彼女は素直に喜んでいた。

彼女の向こうの窓の外に、夕闇が下りてきていた。

  

時間は夕陽がなかなか落ちない所で感じられる。瀬戸内海の凪が風を停め、どんより曇った空全体が、あかね色に染まる。すべてが、熱を帯びて闇に備える。残暑はまだまだ厳しそうだ。

そんな中を、浴衣姿の彼女は、シナを作って部屋の中を歩いた。普通の浴衣と違うのは少し帯が細く、そこだけ見ると少年のようだ。だが全体に緩やかに落ちてくるしなやかな体の線が、それをうち消す。竹久夢二の絵画のように、独特のエロチズムに僕はドキドキする。

そんな僕を見透かしているのか、意識して指先までの動きに集中しているように見える。部屋のそこここに女性の、艶やかさを残していくような仕草だった。自分自身の動きを、彼女自体が喜んでいる、楽しくて仕方が無いようだ。

こっちに座ったら、と僕はテレビの前のソファに彼女を誘う。彼女は僕の隣には座らずに、足下の床に横座りして、ソファには片肘を着いた。

ゆっくりと部屋の中に闇が進入してくる。僕は、部屋の隅の間接照明の明かりを灯した。

テレビを点ける。彼女も僕も、液晶の画面を見つめるが、どこもニュースしかやっていない。彼女にリモコンを渡すが、適当にいくつか換えて、投げ出した。そのままソファに手を投げ出し、そこに頬を付けた。いつかの、ファミレスで見せた、気怠い姿勢だった。あの時と違い、今日は浴衣の艶やかさが、どこかでそんな仕草の中にも小さなピンと張った糸を感じさせた。気怠さが、寸での所で芸術的に存在感を放っていた。

「何か面白いDVDでもないの?」

間延びしたいつもの甘えた声で彼女が言う。DVDCDを入れた棚は、仕事部屋にあった。だが、わざわざ歩いていくのもなんとなく億劫だった。彼女よりはずっとリラックスして、僕は既にソファに深く落ち込んでいた。

それで僕は、いくつか予約録画していたモノを再生することにした。だいたいは、衛星放送の映画だったが、その中にはいくつかのバラエティ番組もあった。

僕がチョイスしたのは、深夜にやっているローカル番組だった。ユウがナレーションで参加していて、そのつながりで番組のディレクターも一度、紹介してもらったことがある。天然パーマが印象的な、僕より少し年下の男だったが、なかなか変わったセンスを持っている面白いヤツだった。

番組は、一応情報番組、という体裁だったが、所々にシュールなコントやドラマが挟まれていて、それが結構話題に上っていた。ローカル枠なので、地元にしか浸透してないが、それにしては、僕の琴線を振るわせた。

ここでしか見られないモノが好いだろう、と僕はそれを選んだ。彼女も、興味津々で画面を見つめる。

低予算のせいで、広告とその天然パーマディレクターのセンスだけで成り立っているような番組だった。中でも、連続ドラマ、と銘打って、地元の劇団から役者を引っ張ってきて、ナンセンスな芝居をやっていた。

そのテーマが、彼曰く、東京と香川の違い、香川でしか通用しない笑い、だそうだ。だからいつも、東京から来たキャラクターと、地元で産まれ育ったキャラクターが出てくるのだが、どちらもなぜか讃岐弁のままなのだ。せめて東京を象徴するキャラクターぐらい、標準語で喋らせればいいのに、流暢な讃岐弁を喋るのだ。最初の頃は、まるで外人が喋るたどたどしい日本語、という感じで讃岐弁を喋っていたはずだが、それがどこでどう間違ったか。

しかも、同じ人が全く同じメイクで、違う人物として出てくるので、最初から見ていないと、全く意味がつかめないし、ストーリーさえ把握できなかった。説明はほんの一瞬で、それを見逃すと話から置いてかれてしまう。さながら、サバイバルゲームのようだ。

しかし、そこには変な可笑しさが存在していた。それはまさに、冷静にコントロールしている、あの天然パーマのディレクターの手腕だろう。香川でしか作れないモノを追求したら、こうなった、と会った時に話していた。

「でも、このディレクター、名古屋出身なんだぜ」

もうシュールすぎて、コレを楽しめるのは中毒に近い。僕は彼女に、説明を施しながら、時には戻しサーチをしながら、話を追っていった。特に讃岐弁については、そのニュアンスを伝えるのは難しい。自然と彼女は僕の口調をリピートする。何度も、讃岐弁をおかしなイントネーションで繰り返す彼女を見るのは、楽しかった。

何編か続けて見ているうちに、外はすっかり闇が下りて、夜の静けさが漂っていた。少し離れた所には国道も通っているし、高松の中心からそうはずれているわけでもないのに、この辺は夕時をすぎると急にシンとする。

ちょうど番組が終わった所で、僕らの間に沈黙が下りた。それを遮るように、彼女は大きな伸びをした。僕は面白かっただろ?と聞くと、彼女はまあね、と意味深に応えた。

彼女は立ち上がり、キッチンに向かい、冷蔵庫の戸を開けた。そのまましばらく、中を見つめてから、缶ビールを取って戻ってきた。僕に一本渡して、そのままソファに座る。なんとなく、浮かない顔をしているのが気になった。

僕は黙ってプルトップを引き、軽く口に含む。

「さっきビールを買ってきたけど、他に何かアルコールはないの?」

「普段はあんまり飲まないからね。部屋に常備しているモノはないんだよ。明日また買ってこようか」

「ユウさんも、飲まないの?」

唐突にユウの名前が出てきて、僕はまごついた。僕にしてみれば、全くこの場にそぐわない名前だった。

「つきあいで飲むぐらいだね。俺と同じぐらい、あいつは強いんだろうけど」

僕が応えた後、わずかな沈黙があった。彼女が飲み口に口を付けたまま、視線が宙を泳いでいる。

「よく知ってるんだね」

そりゃそうさ、つきあい長いもの、と言いかけて、僕は彼女の顔を見て言葉を飲んだ。彼女の頬を、一筋の涙が伝っている。ほとんどノーメイクでも、きめの細かい肌に、涙の筋が浮いている。

涙は、僕が認めたのをきっかけにしたように、次々と瞳からあふれ、頬を落ちた。小さく彼女が嗚咽する。

「どうしたの・・・」

僕は全く言葉を見つけることが出来なかった。彼女の中で、何が起こったのか、僕にはすぐには見当が付かなかった。ただ、何か、ひどく失敗した気分が、足下から少しずつ浸食し始めてきているのは、感じていた。

「ユウさんと、パパなら、お似合いだよ」

「何言っているんだよ」

「だって、だって・・・」

その後は全く言葉にならず、涙声だけが、部屋のこだました。彼女は、そういって良ければ、誰はばかることなく、号泣し始めたのだ。手にした缶ビールを浴衣の胸元に押しつけるように抱いて、彼女は、涙を拭おうともせず、ひたすら泣いた。声を上げ、呼吸が不規則に荒くなる。胸元からこみ上げるモノを、押しとどめようともせず、ひたすら感情を発散した。

「別に好いんだ・・・好いんだ・・・当たり前なんだよ・・・パパにはパパの生活があって、私には私の友達とかいて・・・当たり前なんだよ。当たり前なんだよ・・・」

僕はなんとなく、やはりな、と思う。彼女にとって、ユウの存在が、引っかかっていたのだろう。確かに、僕はあまりにもいつもの調子で、スケジュールとか段取りとか、そういう無感情な所でユウを扱った。それは僕とユウの間柄では、当たり前のことで、別に何とも思っていなかった。でも、彼女には、こちらで初めて会う僕の関係者が、女性であった、というのは酷だったかもしれない、と僕は改めて思った。

少なくとも、仕事上のつきあいであるユウとの関係を、もっとちゃんと説明してから会わせた方が良かったかもしれない。

彼女の嗚咽は止まらず、缶を持つ手が震えている。僕は缶を取り、床に置く。すると彼女は、途端に堰を切ったように、後ろを振り向いて、ソファの背もたれに顔を埋めてオイオイと声を上げ始めた。

ふと、足下に転がるリモコンを見て、しまった、と思った。ほんとうは彼女も、何とかその気持ちを巧く処理して、冷静でいようとしていたんだろう。それを僕は、いらないDVDで呼び起こしてしまったのだ。

先ほどのローカル・バラエティーのナレーションのすべてをユウが担当していたし、いくつかでは、リポーターとして顔も出していた。

そして、僕の部屋の中で、彼女が来るまでは、生活の一部を確かにユウが成立させていた。冷蔵庫に並べられたタッパウェアは、昨日まではほとんど何もなく、今朝ユウが来て埋まったのだ。

不意に、彼女が顔を上げた。こちらをきっと睨む。目が赤く充血している。

「ユウさんのこと、もっと詳しく話して」

僕は受け流すように視線を逸らして、うつむく。正直、やっかいなことになったと思っている。後ろめたいことは、全くないとは言わないが、今はただ、なんの邪気も無くやってしまったまでのことだ。一生懸命、僕は自分に言い訳をする。

「ユウは俺の仕事のマネージメントをしている。それだけの関係だよ」

「だって、私よりずっと良くパパのことを知っているし」

「当たり前じゃないか。君に会う前から、ユウとは知り合いだし、サポートしてくれているんだよ。それだけだよ、それ以上でも以下でもないよ」

「でも、何から何まで知ってて、私の知らないパパをいっぱい知っていて、なんだか・・・なんだか・・・お似合いのカップルに見えたよっ」

そういって、また彼女は顔を突っ伏した。彼女が僕のことを知らないのと同じように、僕も彼女がこんなに感情を露わに泣く所を見るのは初めてだった。彼女はテレビでも知られた存在だし、ネットで調べれば、身長体重血液型からカップサイズ、好きな食べ物から初恋の時期まで情報が得られる。わざわざ僕のデジカメに彼女の姿を納めなくても、彼女のピンナップは、どこにでもあふれている。

でも、たぶんそれは彼女のアウトラインであって、そこに彼女自身が姿形を表していても、きっとそれは影にすぎないのだろう。彼女の中に、ほんとうの彼女がいて、それはきっと、彼女が必死になって守り続けているに違いない。

それを僕はどこかで踏み越え、踏み越えたことに安住して、アウトラインで満足していた。僕の中の生活、というテリトリーの中に、彼女を招き入れて、彼女自身を見つめることを、忘れてしまっていた。

たぶん僕は、また、失敗してしまったのだ。

ただ、失敗は、この際必要なのだと思う。僕らはそうやって、一歩ずつ一歩ずつ、不毛な階段を上っていくのだ。

でも、それよりも、僕には、面倒だ、という意識がどこからか何かを抑制的な方向に引っ張ろうとしている。

「確かに・・・初めてここに来たけど・・・私はお客さんじゃないよ・・・お客さんじゃないよね・・・ねぇ・・・」

互いに知らないことを、開いて閉じて、それを繰り返すことを億劫がってもいけないし、恐れてもいけない。面倒でも、その手間を惜しんでいては、きっと僕らは理解という岸にはたどり着けない。繰り返しても、きっと対岸は遠いのだろうけど、目指さない道にゴールはない。

それなのに。

「まだ、お客さんだよ。僕らはまだ、そんなに知り合っているワケじゃないよ」

彼女の泣き声が止まった。ゆっくりと顔を上げる。汗で濡れた後れ毛が、額に張り付いている。涙はもう、頬全体を濡らしていた。

「・・・解ってるよ・・・」

小さな声で、彼女は言った。

「だからこれからもっと、知り合う努力をしようよ」

彼女は頷く。だが、まだ僕を見る目は冷たく潤んでいる。冷静になろうとする自分と、手を伸ばしても届ききれないもどかしさで感情が爆発する狭間で、彼女は見失っている。

「だけど・・・遠くない?」

今度は僕が頷く。彼女の言いたいことは解る。

「だから、この時間を、大事にしよう」

彼女が乱暴に涙を手で拭う。両手を使って、手の甲で瞳をこする。充血した眼差しが、いっそう僕を射抜く。

「パパは・・・大人だね」

「ユウのことは、謝るよ。配慮が足りなかった」

そんなんじゃない・・・と彼女は消え入りそうな声を出したが、それを自分で完全には否定できない。それが新たな嗚咽の波となって、わき上がってくる。

「ダメだな、私・・・まただ・・・まただ・・・」

大粒の涙がたちまちあふれてくる。もうせき止めるモノが見あたらず、一気に頬を伝っていく。

「戻ってる・・・二度と・・・失敗しないようにって誓ったのに・・・」

言い終わらないうちに、彼女は立ち上がると、そのままベッドルームに走り込んでいった。大きな音を立てて、ベッドルームへの扉が閉まる。そして壁越しに、大きな鳴き声が聞こえてきた。

僕は溜息をついて、ソファにへたり込んだ。彼女の泣き声以外、部屋の中は静寂が満たしていた。空調も、一定の気温を保ってまるで静かだった。

なかなか彼女の涙は止まりそうにもなかった。僕は、自分の失敗がゆっくりと肩にのしかかってくるのを感じていた。それは言い訳できそうで、なんとなくそれも不毛のような、彼女に申し訳ないような、複雑な澱を心に沈めようとしていた。

僕は彼女の飲みかけの缶ビールを手に取り、自分の分も手にとって、立ち上がった。そのまま仕事部屋に向かう。

今僕が彼女に何か声をかけたりするよりは、彼女の気が済むまで泣きたければ思うままにさせてやった方がイイと思った。僕は僕で、その沈んでくる澱を、胸を満たした心の井戸に溶かし込む時間が必要だ。

それは、そんなに時間がかかるモノではなかったが、それでもCD一枚分ぐらいは必要だ。それが出来るのは、このマンションでは、しっかりとした防音の効いた仕事部屋しかなかった。

しっかりと扉を閉じると、彼女の鳴き声は聞こえなくなった。それに気付いて、僕はなんて非道いことをしているのだろうか、という柔らかな後悔を感じる。でも、下手に手を出すよりは、僕は彼女を信じたい。

CDプレイヤーの電源を入れ、そのままスタート・ボタンを押す。U2のアンフォーゲッタブル・ファイアが流れる。そうか、東京に行く前、このアルバムを聴いていたんだ、と思う。

そして、僕はイスに深く座って、缶ビールを一気に飲み干した。半分は彼女が既に空けていた。

彼女は失敗しないように、と言った。そうだな、僕も同じなんだけどな、と思いながら、もう一本に口を付けた。

  

  

  

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