日から三日間、秋の三連休になっていることを、僕は朝食席になっている大広間で知った。同じ机の隣の席に初老の夫婦が並んでいて、その奥さんの方から訊いたのだ。その奥さんの隣に座る彼女は、どちらから?と訊ねられた。僕はどういう風に応えるのだろうか、興味津々で見つめていたら、彼女は「東京です」とあっさり言った。

「これから主人の実家のある香川に行くんですよ」

続けて並べられたその言葉に、僕は思わず口にしたみそ汁を吹き出しそうになった。その言葉を聞いた奥さんは、僕と彼女の顔を交互に見ながら、あら素敵なご夫婦ね、とお世辞たっぷりに言ったのだった。

奥さんはその後、自分たちの旅行の行程をつぶさに話した。これから大山に登るんですよ、この人が教員を引退した記念に、とか何とか。僕は曖昧に相づちを打っているだけだったが、彼女はさも興味深そうに訊いていた。少なくとも、僕には興味深そうに見えた。

僕はただ彼女のその営業スマイルというのか、社交性に魅とれていたが、僕の隣のご主人はひたすらむすっとして、静かに朝食を平らげていた。そういう意味では、この食卓の二つのカップルは、外見上はとても似ていた。

食事が終わり、仲居が茶を運んでくる頃には、二人の女性はすっかりうち解けていた。お二人はこれからどうなさるの?と彼女は訊かれて、僕の方を見た。僕は出雲大社を見て、ちょっと興味がある古墳があるので、それでも見てから岡山を抜けようかな、と応えた。

古墳ですか?と初めて、僕の隣のご主人が声を明るくした。今度は僕が、ドギマギする番だった。目の前の女性二人は僕を見つめている。たいしたことではないんですよ、ちょっと話のネタに、とごく曖昧に、適当に応えるが、ことのほか、ご主人は食いついてきた。

実は私、大学で考古学を教えてまして、から始まって、出雲で古墳に興味がおありとはなかなかマニアックな方ですな、とさっきまでの沈黙が嘘のように饒舌に話し始めた。その時点で、いやネットで有名なアニメがどうのこうの、という話は出しようがなく、僕はひたすら聞き役に回った。

やっとその場から解放されて、浴衣姿の彼女は、ダニエルって教えてあげれば良かったのに、と意地悪く言った。僕は彼女を追い抜き、もう一度湯に入ってくるよ、と足早に部屋に向かった。

  

でも出雲大社の参道は賑やかだった。僕らは奥の方に車を停めて、それから一度鳥居まで戻って境内に入った。彼女は鳥居の前のそば屋にすでに興味を惹かれていて、看板のひとつひとつをチェックして回る。ポケットには、ガイドブックの切れ端が収まっていた。

大きく胸元が開いたTシャツの下に、彼女は黒のタンクトップを見せていた。Tシャツは白で、よく見ると、全体がモノトーンだった。彼女曰く、神様の前ではシックに、だそうだが、緑に赤が眩しい境内の風景の中では、逆に違和感があった。モノトーンはお寺で葬式だよ、というと彼女はひどく不快そうな顔をした。

拝殿までの道すがら、彼女は子供の頃の話をした。

「私の産まれた街にも、有名な神社があって、そこの祭りはとにかく大きかったのね。小学生がそこで、お神楽を舞うのが習わしになっていて、上級生になると、それに選ばれるのがひとつの名誉だったの。選ばれたら、一ヶ月前ぐらいから放課後に神社に習いに行くのね。それが楽しみで、何を基準に選ばれるのか解らなかったけど、とにかく宿題を忘れないように、とかテストをがんばるとか、選ばれるために必死だったのね」

「珍しいね、そういうのが残っているのって。で、選ばれたの?」

「四年生の時にね。とても嬉しかった。それで、練習をするのも楽しくて、お祭り本番の前日に、本番さながらの衣装を付けて、神社にお参りに行くの。その時こういう参道の両側に、友達とか近所のおじさんおばさんが集まってきて、拍手してくれるのよ」

僕らは、神話に出てくる神をかたどった銅像の横を通る。二人して、銅像を見上げる。

「神社で鈴をもらって、その鈴を持って、三日間踊るのね。その三日間は学校もお休みになって、私達は、ずっと神社に通うの。その謂われとか、神事とか、そういうのは当時は解らなかったけど、結局は発表会みたいなモノで、それでも真剣に踊るように言われてて、それがまた緊張というか、そういうのも楽しかったのよね」

僕らはまた歩き出す。

「たぶん、その経験が、今に生きているというか、人前で踊ったりすることに目覚めた瞬間だったんじゃないかなぁ。その後両親は離婚して、その代わりって言うわけではないんだけど、お母さんが働いている間の面倒を見てもらう代わりに、ピアノとかダンスとか、習い始めたのよね。私にとっては願ったり叶ったりで、もうグレる暇もないぐらい」

彼女が小さい頃、といっても、たかだか十年ほどのスパンでしかない。考えてみると、彼女がそうやって一心不乱に神楽を踊っている頃、僕はすでに社会に出てた。まだ今と同じような生活ではなかったが、長い坂を転げ落ちるような毎日を、どこかで逆転したいと感じながら、どうにもならずに身を任せていたばかりの毎日だった。

それも、今も、たいして変わらないような気もするが、少なくとも、現在というモノに無自覚でいられるほど若くはない。過去というモノが甘美な香りに包まれるほどに、時間を消化しているわけでもない。ただ、満杯の水が少しずつ少しずつ、ガラスの隙間から染み出ているような、そんな儚さは感じている。

それが途切れるのは、優しさが、こんな僕にもわき上がってくる時だ。正確に言えば、今なら、彼女に優しくしてやりたい、と思う瞬間を感じる刹那だ。それは何か、僕に希望を感じさせる。ただ、その優しさが、一転する瞬間も、過去、何度も経験している。

そういう意味では、僕は本当に反省とか、過去に学ぶ、という言葉を知らない男だ。その分別も、まだ出来ない、情けない男なのだ。

僕らは拝殿の前に出た。すでに長い列が出来ている。

「柏手は四回、って本に書いてあった」

手水場で手を洗いながら、彼女は言った。僕はここに来たのは二度目で、前回は、この列をめんどくさく感じて、裏に回って直接本殿の前のような所だけで、頭を垂れたような記憶がある。ただ、それもずいぶんと最近のようで、頭の中では曖昧なモノになっていた。

ごく自然に、彼女は列の最後尾に並んだ。

列にはやはり、女性が多い。縁結びの神様、としての御威光は、時代を経ても衰えを知らない。その謂われを、テレビの紀行番組で訊いたような気がするが、すぐには思い出せなかった。それよりは、古事記や日本書紀の神話の一部としての、この聖域の方がずっと、僕には親身に思えた。

僕は神様とか、仏様とか、ある時点から信じなくなった。というより、いろいろ興味深く探っていた時期を通り越して、相対的にその存在みたいなモノを定義づけた時に、神仏はアトラクションのひとつになったような気がする。

それはまさしく、こうやって彼女と一緒に来るスポット、そしてその蘊蓄、みたいなモノの一部であった。そういう意味では、観覧車や、絶叫マシンと何ら代わりがない。

ただ、その心に潜む信仰心、というモノには真摯でいるつもりだ。そこは、科学と同列においているつもりだ。例えば、彼女のことを、僕が愛している、そのメカニズムを、僕らはまだはっきりとは知らない。科学的にも証明された何かがあるわけでない。

でも人は、誰かを好きになる。

その現実の前で、科学も宗教も、神様も仏様も同列に並んでいる、ということだ。すべては、人々の心を代弁し、必ず別の何かに昇華する。寺に行けば仏像や建築物、目の前の社にも独特の神域としての佇まいがある。それに何か、を感じる前に、美しさやその独特の質感に感嘆するのだ。

僕はその心を動かす何かが宿っているモノすべてを、崇拝しているのだ。

だからきっと、社に向かって神楽を踊る彼女を、僕は神々しい光と共に想像することが出来る。それはまた、今とは違う美しさに満ちていたに違いない。写真すら見たことないが、僕は容易に想像できた。

僕らの番が来て、僕らは習わしに沿って、頭を垂れ、柏手を打つ。

彼女は僕の肩のすぐ横で、熱心に何かを祈っていた。

  

内から続く沿道沿いのそば屋で、出雲そばを食べた。嬉しそうに啜る彼女に向かって、たぶん今夜はうどんだよ、というと顔をしかめた。昼食気をつけないと、本当に一日麺類で終わっちゃうよ、と僕はくぎを差す。

「冗談だと思うだろ?でも、香川県人のほとんどは、気が付いたら朝から晩までうどん、っていうことは年に何度もあることなんだよ」

たぶん外車の台数よりもうどん屋の方が多い。本当かどうか解らないが、僕はそう付け加えた。

「それってよく聞くけど、本当?」

まぁ、噂は多いけどね、でも当たらずとも遠からず、ということかな。彼女はもう一度、眉間にしわを寄せた。

「俺ってめんどくさがり屋で通っているけど、それってやっぱり香川のお国柄かなぁ、と思うことがあるよ。例えば、さっきお参りのために並んだけど、前にここに来た時には、並ぶのがイヤであそこではお参りしなかったんだよね。香川の人って、今でこそ有名な店に並ぶけど、ちょっと先に同じようなうどん屋があるから、並んでいるのをあんまり見たことないんだよね。並んでいても、回転早いし」

「一度来たことあるんだ」

そっちの方に彼女は気を取られ、一瞬の沈黙が漂う。しかし、その気を振り払うように、彼女は食い下がった。

「別に並ぶのが嫌いな人はたくさんいるよ」

「そうだけどね、例えばセルフのうどん屋、っていうのがあってね、場所によっては本当に一切店員さんと顔を会わさなくても、食べられる所もあるんだよ。せいぜいお会計の時ぐらいでね、後はなんでもし放題だし、居座り放題だし、煩わしさもないんだよ」

「セルフって、めんどくさそうだけど」

「逆に俺たちには当たり前なんだよ。香川以外にセルフのうどん屋がない、っていうのを訊いてそれはかなりのカルチャーショックだったんだよ。サービスの何割かを客自身が請け負うから、安いしね、だから丸の内のOLの昼食が千円とか訊いて、本当に東京はとんでもない所だと思ったよ」

僕は高校生の頃、学校の正門の目の前にうどん屋があって、という話をした。学食にもうどんはあるけど、そのうどん屋には、うまいちくわの天ぷらがあったんだよ、それもワンコイン、500円玉あればその後ジュースも飲める。

「香川のうどん屋の前では、女子高校生がたむろしているんだぜ」

だんだん、話が嘘っぽくなってきて、僕は最後に明らかな冗談を言う。

「香川の人は、バレンタイン・デーにうどん玉を送るんだよ」

真っ赤な嘘だが、実は香川県内でも通用する嘘だ。冗談と解っていて、まことしやかに喋られる数少ない嘘だった。

彼女は目を丸くして訊いている。上目遣いの、あの魅力的な視線が僕を饒舌にさせる。その関係性を、僕はここ数日、堪能している。

「俺はうどんだけは、香川以外でおいしいと思ったことはないんだけど、でもそこで培っためんどくさがり屋の性分は抜けないんだよな。だから、こうして旅をしていても、つい昼はうどん、って言っちゃうんだよね」

それで僕は何人もの人に呆れられた。僕にとってうどんは、味云々よりも、その手軽さに魅力があるのかも知れない。

「パパって普段、香川では自炊してるの?」

「いや、だいたい目の前に弁当屋があってね、そこですましてる。もう常連だし、そこの店長のおばさんがいろいろと気を遣ってくれるんだよ。後は、やっぱり・・・」

うどんなんだ・・・と彼女は言った。僕は頷いた。

「まぁ、そのうち慣れるよ、ずっといればね」

といった所で、僕はその言葉の意味の深さに、ちょっと戸惑った。言った後に、僕は僕の部屋のキッチンに立つ彼女を想像した。それが、まだ良く、きちんとした像を結ばない。現実に見るまで、その形を追えないのだ。もしかすると、そういう機会は全くないかも知れないし、あったとしてもそれがそこに立つ意味を象徴しているとは限らない。

つまり、彼女がキッチンに立つということと、慣れることにはまだ、想像の糸が繋がっていないのだ。少なくとも、現実感を持って感じられるほどに、僕はその想像を巡らしたことがなかったのだ。

そもそも、僕は彼女に、慣れてもらうことを欲しているのだろうか。

彼女が僕との仲、それは突き詰めていけば、僕の部屋や僕の居場所の中に入ってくると言うことで、お互いにすりあわせを繰り返して、いつかそこを二人の居場所に変えていくのだ。そういう課程や、またその結果現れる関係性を、僕は望んでいるのだろうか?

少なくとも、彼女との間に、そういう結論が出ることが現実的なのだろうか?

それはとても甘美に思えて、何か途方もないことのように思えた。僕の側のそれは、夢だった。

ただ、僕の言葉を聞いた彼女は、何事もないように、残りのそばに手を着けた。出汁をかけ、箸を付ける。僕もまねるように、そばを啜った。

でも、今日の午後にはもう香川についているんだな、と僕は改めて思った。

  

緩した午後というのか、気怠い昼下がりというのか、出雲大社をぶらぶらした後、車を出したのは好いけれど、すぐに彼女がファミレスに寄りたい、と言いだした。宍道湖を、今度は日本海側から回る国道沿いの、ファミレスに僕らは車を停めた。

正確にはまだ午前中だが、陽は高く、すでに気温が上昇してきている。今日も暑そうだ。

さっきそばを食べたばかりで、さほど口に入れる気分でもない僕たちは、コーヒーとかき氷を頼んだ。頼み終わって、ウエイトレスが小さく一礼して去ると、彼女はテーブルの上にだらりと突っ伏した。手をこちらに投げ出し、僕を上目遣いで見るように横たえた。

「どうしたの?」

僕が訊くと、なんだか、と言ったきりひどく怠そうに身をくねらせた。調子悪いの?というと、それは明確に首を振って否定した。

「時々、こういう感じっていうか、なんにもしたくない時が来る。言っても解ってもらえないと思うけど」

不機嫌、というのでもなく、とにかくぼんやりと視点をあえて、定めないようにしているような。とにかく、彼女を操っていた見えない糸が突然切れてしまった、そんな感じだった。

「これからどうするの?」

間延びした調子で彼女は訊いた。姿勢は全く変化無し。

「ダニエル見て、境港でカニ、それから岡山の方へ、ゆっくりとって感じかな」

ダ〜ニ〜エ〜ル〜と彼女は物憂げに言った。僕が公園しかないけどね、というと、別に〜と応えた。行きたくなさそうな、そういう雰囲気だ。珍しく、カニにも反応しないが、そちらはイヤではないようだ。

「公園、歩く」

短く単語でいったその調子が、ヤケにおかしく響いた。

「しばらく涼んで、どうしようか決めればいいよ」

突然、彼女は僕の方を指さした。姿勢を変えないまま、人差し指だけをこちらに向けて彼女は言う。

「目的は風の向くまま気の向くまま、っていうのがね、こういう感じを呼ぶんだぞ」

僕はその、戯けた言い方に少しだけほっとした。どうやら彼女は、何かに抗議したり、僕に不満を述べているのではなさそうだった。

僕も彼女に習って、大きく伸びをすると、姿勢を崩した。腰を下げて、半ば仰向けのようにして、顔だけ彼女に向ける。客観的に見れば、何とも行儀の悪い二人に見えるだろう。

「動きたくなくなった?」

今度は嬉しそうに、彼女は言う。

「解るよ」

と僕。二人は、弛緩した姿勢のまま、くすくす笑いあった。

程なく、注文したかき氷が運ばれてきた。僕も彼女もやっと姿勢を正す。

訝しそうなウエイトレスは、また一礼して戻っていった。

「ダニエル、なし」

彼女はきっぱりとそう言った。そして、山と盛られた氷の頂点に、スプーンを突き立てて、言った。

「まっすぐ、カニ」

  

れから、たぶんここら辺が四隅突出型墳丘墓のある辺りで、というガイドだけして、まっすぐ境港へ向かった。昼間の宍道湖は、太陽光線を反射して、キラキラと輝いていた。道沿いから見える何かの養殖の艀が、波打っている。

松本市内を抜けて、境港に向かう道沿い、大型店舗が並ぶ反対側は、松並木が続く。その向こうは日本海、だが隙間からちらつくだけで、良くは見えなかった。

彼女は助手席で、靴を脱いで、ダッシュボードの下に潜り込むように足をのばして、仰向けに横たわっていた。外の景色を見る気もないようで、未だ、弛緩した気分を引きずっていた。

「アレだね、一昨日からずっと車に乗りっぱなしで、目的地に着いたらちょっと歩いて、それからまた車に乗って、って運動不足」

「あぁ、だから、お腹が空かないのか」

「そうそうそう。身体がむずむずする。適度な運動が必要だよ」

「ならさ、ここら辺はずっと砂浜が続いているんだよ。そこ走ってみる?」

「めんどくさ〜い」

実を言うと、僕は左足の疲労がどうも完全には癒えずにいた。連日のクラッチ操作が、僕の左足を思いの外、疲労させていたのだ。だから、特に運動不足に切迫したものを感じていないし、いざ運転を始めれば、それなりの緊張に包まれる。

だが、助手席の彼女は、というとまさしく乗っているだけで、運転を代わるわけでもなく、ナビゲートに真剣になるわけでもなく。それは普段の彼女の活躍からすれば、全く正反対の処遇なのかも知れない。

ただ、休暇中、という状況との狭間で、彼女は悶々としているのだろう。仕事で跳ね回ってはいるが、休暇の日まで、それを持ち込むことはない。だが、日頃培った筋肉は、それと相反する欲求を彼女に強いている。それを扱いきれずに、彼女はもっともかけ離れた結論として、弛緩、したのだ。

それを愚痴る余裕、体を張って表現するのは、たぶん、僕と二人でいることにやっと慣れたのだろう。これがずっと続くのは、勘弁して欲しいけれど、今はそんな彼女を見ているのはイヤではなかった。

「お腹空かないなぁ」

境港の中心地へ行く途中に観光用の市場とタワーがある。その看板を認めて、僕は車をそちらに向けた。周囲を一望できるタワーは、やたらと平坦な場所のなかで、ひときわ目立っていた。

そこに辿り着くまでに、いくつかの海産物料理専門の店が並んでいた。しかし、何度も彼女は、お腹空かないなぁ、を連発してスルーした。結局、市場の前に車を停めて、タワーを先に見ることにした。

昼下がり、観光客が群がっている。連休の初日で、バスの数も多かった。

相変わらず弛緩を持て余している彼女は、タワーも階段で上る勢いだったが、あいにく展望台まではエレベーターしかなかった。走りてぇ、と彼女は小さく言った。気がゆるむと、彼女はひどく言葉遣いが乱雑だった。

弛緩した肉体の赴く先に困っていた彼女は、僕の身体にやたらとまとわりついた。手をつなぐぐらいならかわいい方で、僕の右肩に手を乗せてぶら下がるような仕草を見せたり、体重を預けてきたりした。

そのいちいちに対処しながら、僕らは周囲を見渡すということもなく、ただ展望台を一周した。

タワーの下まで戻ると、そこにもいくつか店が出ていて、それを覗きながら僕らはゆっくりと市場に向かった。

一度タワーを出て、市場の施設に入る。潮の香りと冷気が、僕らを包んだ。海が醸し出す匂いは、ともすると下品に感じることもあるが、僕は嫌いではない。山育ちの僕は、海は神秘で憧れに近いモノを持っている。磯の香りがすると、僕は旅をした気分になる。

市場は観光用にいくつもの店が並び、まるで決められたように冷凍庫の陳列棚が突き出ていた。その奥に調理場があり、どこにも威勢のいいお兄さんかお姉さんがいた。

彼女は両脇に並ぶ海産物を目を丸くして、眺めながら、いちいち店主に呼び止められては同じようなセリフを真剣に訊いていた。うちのは安いよ、お嬢さんならお安くしてあげるよ、どうこれ食べてみてよ。そのひとつひとつに反応する。

僕は彼女の背中で、その彼女の反応をつぶさに見ていた。こういう場所が初めてでもないのだろうけれど、直接人と触れあって、例えば値切ったりスルーしたり、というのにはあまり慣れていないのではないか、と思う。

そんな彼女は意外に引っ込み思案に見えた。人が良すぎるのかも知れない。寄っていきなよ、といわれると断れない。食べてみなよ、と差し出されると、口にしないとすまないと思う。そんな表情を、僕は微笑ましく見ているのだ。

さっきまで弛緩して、どこか僕に甘えていたのとは、正反対に、彼女は緊張している。

「パパ安いんだって」

つい、気圧されて彼女は僕の方に助けを求めた。

そうなの?といいながら、僕は差し出された一切れを口にしながら、一回りしてからまた来るよ、といってその場を離れた。

「うちの妹がサ、新婚当時、訪問販売の金の七福神の置物を買わされた、って嘆いていたのを思い出したよ。あいつは、恋愛には長けていたけど、意外に世間知らずで、生活っていうモノには慣れていなかったんだよな」

僕はそういって、笑った。ただ、彼女は、全く無自覚に呼び込みに応えていたのでもなかったようだ。

「うどんにカニ、ってアリ?」

そんなことを気にしていたのか、と思うと僕は声を出して笑わずにはいられなかった。

「質素なのか贅沢なのか解らない取り合わせだな」

結局は、僕らはカニを買って帰ることにした。

  

べた気になった、ということで、結局市場を出ると、僕らはそのまま境港、いわゆる鬼太郎ロードへ向かった。連休の観光地は、家族連れでごった返していた。さほど長くない、通りが人で埋め尽くされているかのようだった。

僕らは駐車場を出て、ひとしきり歩いた後、さしてなんの感想も持たないまま、本来た道を引き返して帰ってきた。

「一応これで、今日の観光は終わり」

僕がそういうと、彼女は地図を手にして、ぱらぱらとめくった。だが、目的地はもう決まっている。香川の僕の家に帰るだけだ。

陽は少しずつ傾き始めていた。もちろん、今日帰る必要もないのだけど、なんとなく夕暮れが迫ってくる感覚に、僕らはどこかに帰らないといけないような、そういう不思議な感覚を感じていた。

道とか大丈夫?と聞く彼女。僕は大丈夫、といって車をスタートさせた。

家に帰る、という感覚は、僕などには一抹の寂しさを呼び起こす。だけど、隣の彼女には、まだまだ旅は続くのであって、僕のマンションも旅先のひとつにすぎないのだ。

それなのに、僕らはあの寂しさをうまく言葉に出来なくて、自然と黙ってしまうような沈黙に陥っていた。広い道路に出ると、道は渋滞していた。焼け付く日射しが、車を斜めに差し込む。彼女はサングラスをかけた。

渋滞はインターの入り口まで続いていた。本当は米子インターチェンジからずっと香川まで、高速を乗り継いで一気に向かうつもりだったが、国道から見える渋滞の状況は、それほど楽そうには見えなかった。

そこで、予定を変更して、しばらく国道を走って、中国自動車道ぐらいから高速に乗ることにした。そちらの方が、当然時間はかかるが、行動の自由は利く。最悪湯原辺りでもう一泊しても、差し支えない、という判断だった。

米子市内をすぎて、岡山方面へ進むと、山地の間を抜けることになる。すると一気に、夕方は地上に降りてきて、あの何ともいえない憂鬱な時間が急に訪れた。一時期、サザエさん症候群、なんて呼ばれた、月曜日に対する憂鬱だ。

結局、それは、せっかくの日曜日というのに無駄に浪費してしまった時間の存在を感じていて、もっとやりようがなかったのか、満足できる方法があったのではないか、という気持ちが起こさせるモノではないのか、と思う。

それは、こういう旅でも帰り道に急に襲ってきて、そう滅多に来ることが出来る土地ではないのに、もっといろいろ見ることが出来たんじゃないか?もっと有効に時間が使えたのではないか?という後悔を呼ぶのだ。たとえ、あらかじめ予定していた行程を完璧に消化してもだ。

そして、僕はそういう憂鬱がもっとも苦手なのだ。

僕は目の前にそびえる山の稜線だけが、夕陽に燃えて、その下がグラデーションで暗くなっていく、山道独特の夕刻の空を見ていて、自然と嘆きにも似た告白を始めてしまった。

「昔組んでいたバンドで、良くうちに集まって曲作りをしていたんだ。うちの実家には、手作りだけどちょっとした防音を施した部屋があって、そこに録音機材を持ち込んで、レコーディングとかしていたんだよ。

それがだいたい、土曜日曜とか、連休の時で、まるで合宿みたいにうちに泊まり込んでワイワイやっていたのさ。それがね、レコーディングが終わって、最終日の夕方にみんな帰っていくんだよ。ついさっきまで賑やかだった部屋が、急に一人ぽつんとなって、それが堪らなくイヤだったんだよな。ほんとうに、レコーディングとか、曲作りとかは楽しいんだけど、何度やってもその最終日の寂しさだけには慣れなかったんだよ」

彼女は黙って聞いていた。国道は車は多かったが、渋滞しているほどでもなく、車はスムーズに走っていた。彼女はサングラスをはずして、山の景色を見ていた。

「たぶん今でもそれはあって、ほんとう言うと、たぶん今日だって、同じなんだよ。でもね、俺はそれを乗り越えることが出来た、と思っている。それはひとつはね、こういう、目的もスケジュールも自由な旅を出来るようになったこと。言い換えれば、何時までも、終わりのない旅を続けられるってコトで、といってもいつかは帰るんだけど、それがわりと自由に設定できるようになったってコトかな」

自由業だものね、と彼女はぽつりと言った。

僕はそこで言葉を切って、シフトレバーを握り五速にシフトアップした。その手で助手席の彼女の、手を取る。彼女は驚いたように、こちらを見た。

「さっきも言ったように、一人でぽつんと部屋にいるあの寂しさが、イヤなんだよ。でも、今日は帰っても、君がいる」

彼女は僕の手を、改めて彼女自身で握り直した。

「パパは、寂しがり屋、なんだ」

「否定はしないよ。でもね、普段は別に一人でいても何とも思わないんだ。別に日曜日の夕方でも、気にはしない。ただ、旅の終わり、黄昏時っていうのが、ずっと一人でいても、独りの部屋の寂しさを想像して憂鬱になってしまうんだ」

手と手を何度も、お互いに握り直す。優しく、でも、しっかりと。

「まだ旅は続いているじゃない。香川はまだ、遠いんでしょ」

そうだね、と僕は苦笑した。急にセンチメンタルになった自分に照れる。

その時、目の前の車のテールランプが紅く光った。僕はブレーキとクラッチをゆっくり踏む。

自然と、僕と彼女の手が離れた。

これだから、と僕はミッション車を唯一の不幸を呪った。しかし、彼女は名残惜しそうに、空中で手をひらひらさせ、その後、僕のシフトレバーを握る手に、そっと手を重ねた。

僕は柔らかな彼女の手の重みを感じながら、丁寧にシフト操作を繰り返した。

  

道に設置された高速の看板から、渋滞の文字はなかなか消えなかった。結局蒜山辺りまで僕らは国道を走った。道の駅でアイスを食べている頃には、陽はだいぶ傾いていた。そして、そこを出ると、今度は国道も渋滞し始めていた。

これではどちらでも一緒なので、と僕らは次のインターで高速に乗った。結局、中国自動車道に乗るまで、渋滞は解消されず、ノロノロ運転に終始した。

しかし、そこから瀬戸大橋までは快適に進んだ。高速に乗っている時間の半分ほどで、僕らは瀬戸内海を渡ろうとしていた。

与島のパーキングエリアで休憩する頃には、もうすっかり夜の帳は降りていた。それでも、レストランはまだ営業時間だったので、駐車場に車は多かった。

僕らは夜の瀬戸内海を一望した。といっても、闇の中に船の明かりが点在するだけだ。あまり風光明媚とも言えないし、僕にとってはいつもの風景だった。それでも彼女はじっと夜景を見ていた。夜風がそろそろ、涼風に変わっていた。

三十分ほど休憩してから、車に戻ることにした。その道すがら、僕は彼女に夕食のことを聞いた。ちょこまかと車の中や、途中休憩に立ち寄ったコンビニでいろいろと口にはしていたが、ちゃんとした食事は、旅館の朝食からずっとしていなかった。さすがに、彼女も不満じゃないかと、僕は思ったのだった。

案の定、お腹空いた、と彼女は言った。

「何か買って帰って、作ってあげようか?」

彼女はそう言ったが、お互い疲れているだろうから、それはやめにしよう、と僕は言った。

24時間やっているうどん屋があるんだけど、そこにしようよ」

さすが香川・・・と彼女は呟いた。確かに、そうだよな、と思う。

そして、僕らは一直線に香西にあるうどん屋へ向かった。

  

の住むマンションは、高松市内の中心部から、ほんの少しだけ東に逸れた住宅街の中にある。閑静な、とは言い難い立地だったが、周囲はマンションやら商業ビルが入り乱れて立ち並び、猥雑な方が好きな僕には、いい場所だった。

目の前にコンビニと、宅配のピザ屋があり、その裏手には、自動車工場と仕出しもやっている弁当屋がある。少し歩けば、郊外型のショッピングセンターがあり、隣接してホームセンターもある。つまり、少し歩けば、だいたいのことが事足りるのだ。ただ、学校や郵便局、といった公共のモノが移転や統合の憂き目にあって、近くにはなく、たちまち困ることはなくても、家族連れには不便かも知れない。

ただ、香川は車あっての社会になってしまっているので、どこにいても不便を感じることはないと思っている。車さえあれば、香川はどこにだって行けるのだ。

僕らがマンションに辿り着いた頃、ショッピングセンターにはまだ明かりがついていた。駐車場を照らしている水銀灯が、眩しく周囲の街まで照らしているのが玉に瑕だが、夜道が危なくなくてイイ、という人もいる。

僕の部屋は二階にある。エレベーターもあるが、僕は階段を使う。オートロックの玄関脇の、階段を僕らは上った。二階に部屋は三部屋あったが、真ん中は空き部屋で、反対側には家族連れが住んでいた。分譲マンションだが、入居が少なく、その家族連れの部屋は賃貸だ、と不動産屋の担当者は言っていた。

何しろ、僕の部屋は角部屋で、ベランダもあったが、目の前はビルが建っていて、北側など全く陽が入らない。唯一東に面した側だけ、朝の数時間、陽が差し込む。もっとも、覗かれる心配もなく、そういう意味ではわりと自由に部屋の中を使うことが出来た。

「ちょっとした隠れ家みたい」

と彼女は言った。生活感があまりない、というのだ。

玄関から入ってまっすぐ突き当たりに、リビングがある。縦に細長いそのリビングが、この部屋では一番広い部屋で、フローリングの上に一応の机とイスが並んでいた。ベランダに続くサッシのガラス戸の隅にテレビが置いてある。リビングの北側には、寝室と和室が一部屋ある。寝室にはキングサイズのベッドがあって、和室には何もなく、押入が物置のようになっているだけだった。

キッチンの向こうにはバスルームがあり、そことリビングに挟まれるように、僕の仕事部屋があった。

僕はそこへ彼女を案内すると、彼女は趣味の部屋だね、と言った。仕事部屋だよ、というと苦笑いを浮かべた。

そこは、完全防音と、制震構造を施した部屋で、パソコンを中心に、レコーディング機材があり、壁にはギターが何本か立てかけてあり、背後には窓をつぶしてCDと本を詰め込んだ、背の高い棚が並んでいた。

そのパソコンの向こうに、さらに小さな部屋が誂えられていて、小窓で中が見えるようになっている。彼女はそこをのぞき込む。中にはマイクスタンドが立っており、その向こうには、マッチレスのギターアンプと、ハートキーのベースアンプ。隅には、トリガー式のドラムパッドのセットがあった。

「趣味の部屋じゃないの」

「違うよ、ここで俺は仕事しているんだよ。防音が整っているから、深夜でもCDをかけながらパソコンに向かってられる。外にケータイを出しておけば、ほんとうに誰にも邪魔されない空間だから、集中力が増すんだよ。

でもね、と彼女は早々に仕事部屋を出た。僕は少し拍子抜けした。

「ここ以外、というかここもそうなんだけど、全く人が住む機能が欠けているよね。キッチンに何もないじゃないの」

彼女は対面式のキッチンの中にはいると、冷蔵庫を開け、さらにいくつかの棚の扉を開ける。

「食器とか、お鍋とかなんにもない」

「フライパンならあるよ、あと電子レンジも」

「ホントに料理しないんだね」

全く呆れた顔で、彼女はこちらを見た。

ただ、僕はその時に、ハッとした。キッチンの中に入ってこちらを睨むその姿に、僕は今までに一度も見たことのない、彼女の佇まいを見つけて驚いたのだ。

それは、あまりにも彼女がその光景に溶け込んでしまっている、逆に感じる違和感だった。賑やかな世界に居を構える彼女が、初めて見せた生活感のようなモノだった。それは全くそれまでの彼女のイメージからすれば異質で、やはり本来は、彼女は女性であり母に繋がる準備を既に整えている、という証だった。

僕の部屋のキッチンに立った女性は、彼女が初めてではない。その何人かの女性とも、全く変わることのない、まるでパズルのピースのようにきっちり収まる彼女に、僕は驚きを隠せなかった。

「さっきあったホームセンターに明日行こう。このキッチンに、命を、だ」

彼女はとても重大な使命を帯びたように、腰に手を当て、そう言った。僕はただ頷くしかなく、しばらくの間、キッチンに溶け込んだ彼女に、魅とれていた。

  

  

  

TOPへ戻る   NEXT(四日目)