が覚めたのは、ずいぶんと早い時間だった。昨夜眠りについたのは日付を越えていたのをなんとなく覚えている。だから、それほど睡眠時間は取れていないはずだったが、不思議と疲れも筋肉痛もなく、心地よい目覚めだった。

まだ寝息を発てている彼女を起こさないように、そっとベッドを抜け出した。気になって外に向いたガラス戸のカーテンをそっと開けた。

雨は上がっていた。まだ日の出前の青に溶けた外の景色が、水滴を残したまま、まだ眠っていた。ベランダのテーブルもイスも、ひっそりとだが輪郭を徐々にくっきりさせようとしていた。

僕はそのまま、戸を開けて外に出てみた。そこに並べられたスリッパはまだ濡れていた。だけど、素足にはまだ心地よかった。

外に出ただけで、波の音が聞こえた。ずいぶんと近くに聞こえる。昨日ここに入った時には全く気付かなかったが、海が近いのだろう。波が砕ける音がすぐ向こうに聞こえるのだ。

僕はしばらく、波の音を聴きながら、青白い空を見上げていた。少しずつ少しずつ、夜が明けていく。雲はほとんど見えない。時折鳥が視界を横切っていく。相当に空は高い。

普段から僕は、夜型のスケジュールで動くことが多いので、夜明けなんてそれほど珍しくもないはずだが、今日の夜明けは、不思議と胸に染みる何かがあった。記憶を反芻してみても、この日の夜明けの持つ特別な意味、というモノはなかなか思いつかなかった。

唯一、あるのは、彼女の存在だけだった。

といっても、彼女と朝を迎えたのは初めてではないし、寝たのも初めてではない。ただ、旅先で向かえる初めての朝、というだけだ。初めての二人の旅の、最初の夜、ぐらいだった。

しかし、僕の胸がひどく静かで、でもゆったりとした波のように押し寄せる昂揚の予感も感じている。期待、とか、希望とか、そんな未来を予感させる感覚。それが僕を、すがすがしい気持ちにさせているのだ。

ああ、こういう時には、コーヒーを飲みながら夜明けを迎えるモノだよな、といつかどこかで読んだ小説の一場面を思い出して、僕はもう一度部屋の中に戻った。

その時、彼女が寝返りの拍子に、目を覚ました。僕が起きているのを見つけると、かすれた声で小さく、おはよう、といった。

僕もおはよう、と返して、そのままインスタントのコーヒーの並んだ棚を探る。向こうでシーツのよじれる音がする。僕はカップに粉末のコーヒーを入れ、ブラックで湯を入れる。そのカップを持ったまま、また部屋をよぎろうとすると、彼女が背中に声をかけた。

私も、コーヒー。といって伸びをする。まだ寝ててイイよ、というと、起きちゃった、と短く応えた。シーツから彼女のすらりと細いくるぶしが見えていた。

彼女は転がるようにしてベッドから降りると、すぐそばにあるソファに座った。まだ身体全部が覚醒していないように、ぼんやりと視点も定まらないように、ただ座っている。僕はもう一度棚に戻って、もう一杯コーヒーを作った。

外に出るのは諦めて、彼女の隣に座る。

昨日からずっと、彼女は無防備なままだ。化粧をしていないことも、下着のままであることも、何も気にしていない。僕は彼女の前のテーブルにコーヒーをおいて、自分の分を飲んだ。

そのまましばらく、二人で黙ってコーヒーを飲み続けた。

部屋の中は静かだった。自然と、外の鳥のさえずりが聞こえ、波の音が聞こえる。防音が施された戸なのか、外に出るよりは遙かにその音は微かだ。

彼女はそれに気が着いて、あ、と小さく声を挙げた。

「すぐ外は海みたいだよ」

彼女は立ち上がって、僕と同じようにカーテンの隙間から外を見た。そして戸を開け、外をのぞき込んだ。

ホントだ、海の音がする。そう呟いてから、彼女は戸を閉めた。雨も上がってるね、とこちらに戻ってきながらそう言う。

さっきから声がかすれているのが気になった。空調をかけたままにしたのがいけなかったのか。

大丈夫よ、といって彼女は笑った。朝はいつもこんな感じ、別に体調とか悪くないよ。

テーブルに戻って、彼女はテレビを点けた。CNNのニュースが流れる。隅に表示された時刻は、まだまだ朝の入り口だった。

 

女がおなか空いた、と言ったのと、今日のスケジュールを確認した所、ずいぶんと距離があることになんとなく不安を覚えた僕たちは、早々に身支度を整えて、ホテルを出ることにした。彼女が人目を気にした、ということもなきにしもあらずだ。

彼女は、今日は淡いピンクのTシャツを着ていた。胸のところに大きく、何かのロゴが描かれていたが、僕はそれが何のロゴなのかは知らない。暑くなりそうだ、と僕が天気予報を見て言うと、彼女は小さなバッグからそれをチョイスしたのだ。でも、クルマの中では、冷房に気を遣ってかサマーカーディガンは手放せなかった。

今日はこのままひたすら走って、何とか鳥取砂丘まで行こう、ということになった。夕方宍道湖、その後で予約した温泉、という予定だが、天気や交通状況で、どうなるか解らない。僕としては、どうしても宍道湖の夕陽を、彼女と見たい、と強調した。見られなかったら、もう一日延ばしてもイイじゃない、と彼女は言った。とにかく、西へ。

顔を洗って歯を磨けば、ほとんど済んでしまう僕と違って、彼女の身支度は丁寧だ。僕は早々とソファに座って、洗面所の鏡の前をいったり来たりする彼女を眺めていた。

それにしても、彼女の荷物がずいぶんと少ないことに気が着いた。僕は素直に訊ねてみる。

「現地調達でイイかな、と思って。だって最終目的地は、香川のパパの家でしょ?旅行というよりは、移動ね」

なるほど、移動の間に寄り道している、って感じなんだね、と僕がいうと、彼女は軽やかな笑い声を立てた。

ホテルを出ると、すぐそばに砂浜があった。海水浴場、の看板が見える。それほど広くはないし、砂浜のすぐそばまで畑が広がっている所を見ると、それほど有名な場所でもないようだ。平日の早朝に、その小さな砂浜に、人影はなかった。遠くまで広がる海だけが、朝日を受けて輝いていた。

「今日はいい天気だね」

彼女はそう言うと、フロントガラスの向こうの景色を見つめていた。

国道に戻って、それから朝食をどうしよう、という話になり、結局ハンバーガーショップにドライブ・スルーすることになった。普段から、朝食を食べない僕は、アイスコーヒーだけを頼んだ。一方の彼女は、モーニングのセットにプラスもう一つハンバーガーを頼んだ。いつもながらよく食べる。朝は元気の元だよ、と彼女はどこかのCMのセリフのように僕をたしなめた。さすがに堂に入った言い方だったが、別段嘘くさくは聞こえなかった。

なんとなく、僕は彼女に慣れてきているのを感じていた。彼女の一挙手一投足を、違和感なく受け止めて、受け流すことを普通にこなしている。過剰な期待もしない代わりに、必要以上に気を遣わなくなってしまっている。お互い、それがいいことなのか悪いことなのかは解らないが、彼女の置かれている状況、というのは弁えていないと、と僕は思う。慣れるのは幸福だが、慣れすぎると取り返しの着かないことになるかも知れない、と僕は襟を正した。

そういう僕が、今一番必要なことは、安全に走ることだ。僕は前を向いて、看板と信号と、道路状況を的確に判断しながら、走ることに集中した。それ以外のことは彼女に任せた。僕らはそれぞれの役割をこなしながら、会話だけで繋がっていた。

といって彼女の役割といっても、地図はほとんど頭に入れているし、結局最終的にはCDの交換、という作業が彼女の仕事になった。もっとも、彼女はその役割を自ら身につけ、個人的な好みによる選択で、ひどくわがままにこなしたにすぎない。

CDの操作を彼女はあっという間に覚え、バックシートに転がっていたCDケースを探って、入れては聞き、入れては聞き、しているのだ。最初のうちはなかなか定まらなかった。特に、僕の車のCDはパソコンでデータにしてまとめて焼いているモノが、タイトルも無しに放り込まれているので、かけてみないと解らないCDがたくさんあった。

それをトレイにかけて、ボタンを操作して一通り訊いて、好みに合うモノを探すのだ。もちろん、僕が聴きたいモノではなく、彼女が聴きたいモノだ。

「おじさんの声ばっかり」

と彼女はエリック・クラプトンや、トム・ウエイツをまとめたCDをかけながら口をとがらした。彼女にブルースはまだ早い。何たって、僕にもまだ、その深淵には手が届かないのだから。

結局無難に、宇多田ヒカルのアルバムを見つけて、それに落ち着いた。シングルカットされた曲が流れると、それに併せて口ずさんだ。朗らかな明るい声が、質素な内装の僕のクルマに響く。

鳥取砂丘までの間に、観光地と呼ばれる所はいくつかあった。看板が出るたびに、彼女は地図を広げ、何らかのコメントを付け加えた。午前中には京都府を抜けた。豊岡のはずれで昼食にラーメンを食べた。ケータイで彼女が検索したが、彼女の気を引くような名物を見つけられなかったために、道路沿いの適当な店に入ってすませた。

そのうち、彼女はいつの間にか寝てしまった。空腹を満たし、午後の日射しに照らされたアスファルトは焼け付いていたが、エアコンの効いた車内は格好のベッドルームとなっていた。

最初は起きている風を装って、目だけ閉じていたが、そのうちシートを倒して本格的に寝る体制となった。寝てイイ?と一応訊いて、イイよ、と応えると彼女は寝返りを打って、僕に背中を向けた。

僕は一度車が空いているのを確認して、路側帯に車を停めた。彼女に直接風が当たらないようにエアコンを調節して、ついでにCDを取り替えることにした。別に宇多田ヒカルのままでも良かったが、つられて歌って僕のへたくそな声で起きしてはまずい。

こういう時に最適な音楽は、と思案して、僕はクラプトンの新作と迷った末、ジョー・ジャクソンをチョイスした。しっとりと訊かせる「ボディー・アンド・ソウル」は、僕のお気に入りのアルバムだ。リズミカルなる名曲も入ってはいるが、前体に夜のイメージが強い。全作はそのままズバリ、「ナイト・アンド・デイ」というタイトルだったが、それよりはずっと闇は深い。きっと、前作のエレピが、硬質な生ピアノに変わり、その高音域の生々しさが、深夜のストリートを彷彿とさせているような気がした。

それでもボリュームを絞って、僕は車をスタートさせた。フロントガラスに、入道雲が沸いて出ている。ひと雨来るかも知れない。秋の入り口に来ているが、今日はずいぶんと気温が上がっている。さっきラーメン屋の駐車場で、太陽を見上げて彼女はずいぶんと不機嫌な表情を浮かべた。

こういう時に砂丘、というのも考え物かも知れないが、とにかく、僕は先を急いだ。

こうして、黙って前を向いて、ハンドルを操作していると、ふと彼女の存在が希薄になる。全く消えてしまうほどに、僕らは親密ではないが、しかし独りの時間が浸食してくる。自分にとって、もっともプリミティブな部分が僕の頭を支配してくる。

いくつかの昨日までの出来事を、反芻して、僕はその時に抱いた感情を思い出して、それは小さく表情に出た。そのひとつひとつの糸が絡まり、収束して僕の胸をつかむと、たまらなくなって僕は助手席を見た。

僕から見えているのは、彼女の背中。薄いピンク色のTシャツが、昨日と同じサマーニットで編まれたカーディガンの編み目に見え隠れする。手を伸ばせば届く所に彼女がいて、それは決して夢でもない。

でも僕の左手はシフトレバーを握ったままだ。僕はその、独りと二人の隙間、というポジションが好きなのかも知れない。手を伸ばせば手を伸ばしてから時間が始まり、そのままそっとしておけば、それはそれなりの未来が用意されている。

その行く手は、あくまでも僕の想像でしかないはずなのに、僕は躊躇っている。

とはいえ、もうルビコンの川は渡っているんだろうな、それをここで逡巡しても仕方が無い、行く所まで行け、という諦めで、僕らは先を急ぐのだ。急いできたのがこれまでだった。

今回が最後、にしたいけれど、ならないのは目に見えているな。

そんな僕にお構いなく、彼女は寝返りを打って、眠そうな瞼で今どこ?と聞いた。もうすぐ着くよ、というと、着いたら教えてね、とまた向こうを向いた。

  

から吹く風が強かった。しかし、海はまだ見えない。観光客はまばら。でも、砂のイエローが目を焼く。鈍色に沈んだ、なぎさハイウエイとは天候において雲泥の差だったが、しかし、だからこれが何か大きく心を揺さぶる、というほどでもなかった。

訪れた、という事実だけで、充分だった。

一度来たことがある、という彼女もだいたい同じような感想で、未だ寝起きを引きずっているのか表情は冴えなかった。砂を踏みしめながら、よく寝てたね、というと、彼女はだって、と反論した。

「昨日の夜は、全然寝られなかったんだもの」

え?と僕は彼女の顔を見た。僕が目を覚ました時に、彼女はぐっすりと寝ていたはずだった。

「朝方になって、やっと眠れたけど、すぐにパパが起き出して、起こされちゃった」

すまなかったね、というと、フフフ、とまた彼女はイタズラっぽく笑った。

「信じないかも知れないけど、私は男の人とひとつのベッドで寝たのは初めてなのよ。朝を迎えたことがないワケじゃないけど、その時はだいたいツインのベッドで、ダブルは初めてだったのよ」

その言い様は何か、初めてだったんだから、何か責任を取りなさいよ、といっているように聞こえた。そんなつもりはないのだろうけど、たぶん彼女の中でも、僕らの関係を特別なモノにしたがっているのかも知れない。初めて、の積み重ねは、それのスタートラインだ。

初めてであるはずなのに、二度目はない、と思いたがるのだ。

「これからは気をつけるよ」

と僕は言ったが、なんだか変な言い様に僕はすぐに吹き出した。彼女もつられて苦笑していた。

砂を踏みながら、それほど感嘆した言葉を吐くでもなく、ただ、ずっと歩いていく僕の後ろを、彼女も所在なげについて歩く。

目の前に砂の壁がそびえ、僕らは二人して見上げる。少し離れた所で、子供の団体が、はしゃぎながら駆け上がっている。彼女は子供たちの後ろについて、がんがん登る気でいっぱいだったようだが、風の強さと照る陽の暑さに、僕は海はいいよ、と彼女に言った。彼女はがっかりしたような、そうでもないような、飛び砂の向こうでどちらとも付かない表情をした。僕はそれを見て、後ろを振り返った。彼女もあとに続いた。砂に踵を返したあとが、ぐるりと付いた。

「どう?目的地にたどり着いた感想は」

明らかに僕の答を予想して、彼女は意地悪く問うた。

「満足した。十分だ」

僕は来た道を戻り始めた。戻りながら、僕は彼女に半ば愚痴のように、矢継ぎ早な言葉を投げかけた。

「日本って、まだ行ったことない所は多いけど、だから見知らぬ土地へはワクワクして行くんだけど、結局いつも、どこでも一緒なんだよな、っていう結論で終わる。家が一番、とは思わないけど、お気に入りに加えられる場所って、そうはたくさんないんだよ」

「それを確かめるために、いろんな所を旅するというのも、好いんじゃないの?」

前向きな言葉は、どこか批判的に僕を攻める。

「海外とか行くとまた違うのかもな。俺は行ったことないけど」

行ったことないの?と彼女は驚嘆の声を挙げた。悪かったな、と僕は悪態をつく。

「まぁ、私も仕事で行くのがほとんどだけどね、じゃあパスポートとか持ってないの」

持ってない、と僕。

「確かに海外は、わりと本気ですごい、とか綺麗、とか言えてる気がする。なんというか、日本とは違う方程式で形作られているというか、お隣の韓国でも、何か違うモノね」

僕は、さっさと彼女を追い越し、先を急ぐ。昔、ライブハウスの楽屋だったか、先輩に若いうちに外国は見といた方がいいぜ、と言われて以来、僕は海外に対する憧れ、のようなモノに反発するようになった。その先輩がどうも居丈高で、完全に見くびられていたことに対する反発が、そういう結果になったのと、当時僕はとにかく金がなくて、海外旅行なんて夢のまた夢だった。

その後、車の免許を取って、車を運転しないで行く旅になんのおもしろさも見いだせなくなって、結果それは国内旅行がメイン、という僕の志向に繋がった。

ああは言ったが、それでもまだ、僕は日本には僕が見たことのないすばらしい所があると信じているのだ。

僕はくるっと振り返った。すぐ後ろで彼女が急に立ち止まった僕にぶつかりそうになり、バランスを崩した。僕はその腰を抱きかかえた。

彼女は少し驚いた表情のまま僕を見据えた。

「海外はな、自分から行く所じゃなくて、呼ばれていく所なんだよ」

何それ、と応えながらも、彼女はぷっと吹きだした。その後駐車場まで、彼女は笑い続けた。

  

丘を出て、彼女はシートを倒したまま、さっき売店で仕入れた菓子の袋を開けた。今度は眠るつもりではないらしい。あ、CD変わってる、とか言いながら、また後部座席のCDケースを漁る。それでも、CDは換えないことにしたらしい。その代わり、菓子の袋をお腹に乗せると、パリパリと音を発てた。

今日の行程の最終目的地、宍道湖へ夕方、というのは時間的に微妙だった。県境あたりは一度通ったことがあるが、それまではまだ未知の行程だ。時間はなんとなくでしか読めない。

僕がその説明をすると、彼女は別に間に合わなくても温泉があるから好いじゃない、と言った。それもそうだし、今日、ということにこだわることもないのだけど、なんとなく、僕には不満だった。

まだ、彼女と手をつないでいない。

そのうち、左手に大山が見えてきた。平野にひとつだけ巨大な山がそびえている。それは堂々たるモノで、何度見ても存在だけで圧倒された。

陽が傾きかけてから見る山肌は、緑を濃くしていたが、夏山独特の生命観溢れる様は崇高な輝きさえ伴って見えた。

「前に来た時にね、朝、この姿が見えたんだよ。圧倒されちゃってね、そのまま山へ向かって行っちゃったんだよ」

一度した話に、彼女はガラス越しの大山をぼんやりと見つめていた。

「でもね、確かにこうしてみると雄大で素晴らしいんだけど、登っちゃうとね・・・」

「何があるの?」

「牧場と、お寺があって、牧場でアイスを食べたよ。でも、牧場だから牛の糞があちこちに落ちてて、ものを食べる、っていう雰囲気じゃなかったな。その後大川寺、だったかいうお寺に行ったんだけど、長い階段と坂道を上って辿り着いた入り口に、拝観料をいただきます、って書かれてて、そのまま引き返して、帰ってきた。あ、その途中で喫茶店に入ったかな」

彼女はぱらぱらと観光雑誌を開く。

「宍道湖って、そこも一度行ったことあるんでしょ?」

僕は頷く。

「だったら、さっきの砂丘よりもっとあっけないんじゃないの?」

「かも知れないね。でもね、そこだけは、なんというか、見ておく価値があるような気がするんだよ。結局ね、ある程度いろんな所に行ったら、今度はもう一度あの経験を反芻したい、という思いにとらわれるんだよ。特に、今回は君がいるだろ?君にはやっぱり、良いものを見せてあげたいと思う。だったら、一度体験して、そうロケハンしている所の方が間違いがないと思ってね」

「つまり、私のため、ってこと?」

そうだね、と言いかけて、僕は躊躇した。彼女のためだけ、ではない。さっきの砂丘の彼女の立場とは少し、違うはずだ。

「二人のためだよ。俺たちの思い出のため」

僕がそういうと、彼女は窓の外に視線をはずして、小さく、アリガト、と言った。

  

江市内に入る頃には、もうすっかり辺りは真っ赤に染まっており、道路も帰宅ラッシュで混んでいた。少し焦りながら、うろ覚えの記憶を頼りに駐車場に急いだ。

途中の交差点で、彼女は、松江城、と叫んだが、時間があれば来ようね、となだめるように行って僕は先を急いだ。

すぐに宍道湖沿いの道路に出ると、夕日はもう湖の向こうに丸く浮かび上がっていた。ただ、その景色が見えた瞬間、隣の彼女が身を乗り出した。ふざけていた表情が、一瞬にして目を奪われていた。

駐車場に車を停め、地下通路を通って、湖畔の公園に出ると、夕陽はまさに、絶好のロケーションで僕らの前で静かに時を待っていた。真っ赤な背景に、水面と遠くの松島が影になって浮かび上がる。昼間、あれほど僕らを痛めつけんばかりに挿した日射しが、弱く優しく、眠りにつこうとしていた。

僕らは座る場所を求めて、少し歩いた。彼女はずっと夕陽を見ている。行く先を僕に委ねるように、彼女は僕の右手にまとわりつくように体重を預けた。僕は彼女の腰に手を回して、歩いた。僕らの身体と身体の間に、隙間はなかった。

程なく階段状になった堤の一番上に腰を下ろした。夕陽は落ちようと、ゆっくりと水面に近づいていく。その前を、遊覧船の小さな影がゆっくりと通り過ぎていく。よく見ると、人影が甲板の上に団子になっている。

彼女は僕の右手の腕を絡ませたまま、体重を預けている。僕の肩に、彼女の柔らかい髪が掛かり、昨日のホテルのシャンプーの匂いがした。僕はそっと、左手で彼女の手を撫でた。

夕陽は、空と地上の境に下端を触れようとしていた。周囲には家族連れやら、カップルやら、以外に多くの人たちが、同じ景色に魅取れていた。その向こうには、道路も鉄道も走っている。なのに、不思議と周囲は静かだった。喧噪を景色が中和して消し去ったような、奇妙な静けさだった。

彼女も全く声を発せず、しかし、視線はまっすぐ、夕陽を見据えていた。僕は、一瞬、真っ赤に染まる彼女の横顔に目を奪われそうになる。だけど、それに匹敵するぐらい、やはり夕景のすばらしさは格別だった。

夕陽が没し始めた。幾重もの静かな波に、明るい赤が延びる。揺らめいてきらめき、やがて夜までの短い時間、薄明として余韻に消える。その最後の輝きがもたらす、この瞬間に、誰もが一日を忘れ、存在が景色と一体となり、えもいわれぬ神々しい光に包まれていく気がする。

彼女の手が、僕の左手に触れた。手のひらを合わせ、そして指を絡ませて、お互いに示し合わせたように、ぎゅっと握りあった。僕は右手の手のひらにその握り合った手を載せ、両手で彼女の手をしっかりと包んだ。彼女は、僕の耳元に口を寄せ、奇麗だね、といった。

やがて、太陽は半ばまで、姿を消した。急に闇が降りてきたような、そんな気配がする。音が取り戻され、僕らは我に返る。この一瞬は、二度と来ない一瞬で、それが瞬く間に終わろうとしている。それをただ見ているだけ、ただ、見つめているだけで終わらして好いのだろうか、という後悔が急に僕を苛み始めた。

自然に、あぁ、という声が漏れる。どこからともなく、声がする。幼い子供ですら、寂しそうにため息を漏らす。彼女は僕の肩で、小さく震えた。僕はハッとして、彼女を見た。

彼女の頬に、一筋の涙が、伝っていた。

ついに、夕陽は、地平線の彼方に没してしまった。僕らは急激に現実に戻されて、そのギャップに自分の立ち位置を忘れる。それをとにかく動くことで取り戻そうとする人たちは、笑いながらその場に立った。

湖畔はそこから、また様相を変える。夜の憩いのひとときの場所となり、さっきのような神々しさから、一転ロマンチックな甘い風が漂い始めた。夕陽が支配した空が、今度は人工的な明かりに取って代わり、音は闇に溶ける。

「泣いちゃった」

彼女は恥ずかしそうに笑う。

「やっぱり、もっと早く来れば良かったね」

彼女は首を振る。

「充分だよ。なんだか、初めて体験した、永遠に手が届く短い時間だったね」

僕らはしばらく、闇が完全に降りきる手前まで、肩を並べてそこに座っていた。何かを喋るといっても、断片的で、会話は長くは続かなかった。それでも、その短い言葉の矢の応酬が、確実にお互いの存在を確認して、隣にいることが解るだけで満足だった。

やがて、僕らは立ち上がり、もと来た地下道を通って車に戻った。街はすっかり夜になっていた。

駐車場まで、僕らは手をつないで歩いた。その手を大きく揺らしながら歩いた。子供じみた仕草だったが、それだけ心が解放されていた。

夕陽を見て、手をつなぐ。そんなささやかなことが、今日一日の収穫だった。しかし、これ以上の一日は、そう多くはない、と僕は思っていた。

  

上がりの浴衣姿で、畳の上に寝そべる彼女は、どことなく妖艶な雰囲気を漂わせていた。

この旅館に着いて、一番遅い夕食を頼んで、それまでにとりあえず温泉を堪能した。大浴場と、それにつながれている露天風呂だったが、一日の疲れを取るには充分だった。

旅館自体、部屋数の多くない、それなりに高級感の漂う宿だったが、案内してくれた仲居は気さくで堅苦しさはあまりなかった。チェック・インの時間が遅かったにもかかわらず、夕食の前に入浴したい、という彼女の希望に合わせて融通してくれた。

平日、というのもあるのだろうか、泊まり客は少ないようで、風呂も広々と使えた。

部屋に運ばれた料理は、彼女の目を丸くするぐらいの量で、もちろん彼女の好奇心と舌を満たすのに充分だった。ケータイのカメラに納めては箸を付け、ひとつひとつの料理を評価した。どれも水準を超えて彼女を満足させたようだった。

とりあえず空腹が満たせればコンビニのパンで充分、という僕と一緒の行程で、たぶん不満がたまっていたのではないか、と思う。それを上回る満足感だったのか、料理が下げられて、一息つくと、半ば放心状態のようになった。

僕らはもう一度湯に浸かることにした。仲居は、お客さんが少ないので、混浴なさってもかまいませんよ、と勧めたが、なんとなく断った。お互いに、独りでゆっくりしたい気分だったのだ。

そうして、二度目の湯を堪能してから、少し辺りを散歩した。足下が照らされた小道が、旅館の辺りからこの温泉場の中心を通る小川まで続いていた。護岸が整備された小川の両岸は、遊歩道が延びていて、僕らは並んでそこを歩いた。春なら桜が奇麗そうだ。

その夜道の光景から、僕は高野山の近くの天文台で、観望会に参加した時のことを思い出した。その話をする時に、たぶん初めて、僕は自分の過去に触れた。

僕のあまり自慢できない過去について、僕はわりと包み隠さずどこでも話しているので、たぶん彼女は知っている。でも、どこかでちゃんと自分の口で触れておかないと、きっとそのスタンスがつかめないだろうと、僕は思っていた。それはちゃんと説明しておかないといけない、と思っていた。

あの宍道湖に沈んでいった夕陽が、それを見つめた僕たちの、不思議な一体感のようなモノが、僕を少しだけ無防備にさせていたような気がした。僕はあまり抵抗なく、すんなりと事件を起こしてね、という風に話した。

それから四国八十八カ所を、半ば冗談で巡って、それから満願常住を得るために高野山に登った。そもそも、それがこういう独り旅に親しむ端緒になったことは間違いない。その日も、高野山前の駐車場で車中泊することにして、退屈しのぎにその天文台の観望会への参加を予約したのだった。

「別に何も期待してなかったけど、周りはカップルか家族連ればっかりだし、おまけに月が出てて星なんて見るには最悪の条件だし」

その帰り道が、こんな風に足下だけを照らした小道で、そこで僕は滑って転んだんだった。

「じゃあ、今度はそこもリベンジするつもり?」

星はどこで見ても一緒だから、今度は別の所にするよ。明日このまま岡山の方に抜けるつもりなんだけど、途中に美星って所があって、読んで字の如く星が綺麗に見える場所らしい。わざわざあんな山奥に行かなくても、近場でもあるってコトさ。

「もう帰るんだ」

彼女はそんな風に言った。僕は驚いて、彼女を見た。というより、彼女にとってはまだ、旅の途中のはずで、もちろん、香川に帰ってもあちらこちらへ出かけるつもりにしている。でも、彼女の口振りは、まるで実家に帰るような言いようだった。

「香川にも面白い所あるよ」

う〜ん、と彼女は何事か考え事をするように、その場に立ち止まって、遊歩道に枝を伸ばしていた櫻の葉を撫でた。

「普通って言うのか、日常って言うのか、とにかく、観光するより、そういう方がイイ」

「そういうのって、面白くないんじゃないの?」

「そんなことないよ。私は、今日のあの景色で充分だよ」

彼女も、あの夕陽に深い感動を感じたようだ。そしてそれが、僕らにとって重要な記憶になることも。

「でも、俺の日常なんて、本当につまらないよ」

くすくすと彼女は笑う。

「一日で好いんだ。ゆっくり、普通の生活が出来ればイイ。朝起きて、夜眠る。それだけ」

解ったよ、と僕は応えた。

「でも、うどんには連れていってね」

今度は僕が声を挙げて笑った。でも、それも日常のうちなんだけどな。

  

館に帰ると、畳の上に二つ布団が並べられていた。僕らには不釣り合いなぐらい座敷が広いので、その二つがやけに目立って見えた。隅に寄せられた座卓の上には、新たにお茶とお茶菓子が揃えられていた。

僕は座卓のお茶を入れた。何かアルコールを頼もうかとも思ったけど、酔わずとも今日は充分に眠れそうだった。気が着くと、ずいぶん今日は走っている。

と、横でゴソゴソする音が聞こえた。僕が音のする方を見ると、彼女が浴衣のままストレッチを始めていた。足を大きく広げて、ぺたりと畳に額を着ける。身体の柔らかさが、その開かれた関節の角度であらわになる。

彼女が大きく息を吐く。それが途切れると、ひとつ深呼吸して、体を起こした。大きく開かれた足の間で、浴衣がはだけて下着が見えていた。僕は思わず視線を逸らす。考えてみれば変な話だが、僕はその無防備さから視線を逸らしたのだ。

彼女は体勢を変えて、今度は横向きに、身体を倒した。僕はちらりと見ると、彼女は笑顔でこちらに視線を向けている。相変わらず浴衣ははだけたままだ。

彼女は上目遣いで、じっとこちらを見ていた。大きな丸い瞳が彼女の印象を決めつけている所があるが、その瞳でのぞき込まれるように見られると、僕は何かいけないことをしているような気分になる。心の隅々を見透かされているような、そんな気になるのだ。

だけど、僕はその瞳が一番好きかも知れない。彼女はその瞳で、僕を縛るけど、ぜったに逸らさない真摯さをちゃんとメッセージしている。そんな気がするのだ。

僕はその視線に負けないように、身構える。

「見えてるよ」

僕がそういうと、くすくす彼女は笑う。そんなことお構いなしに、彼女はいかに身体が柔らかいかを見せつけるように、反対側に身体を倒した。

「私、高校ではチアリーダーとかやっていたのよ。その前は新体操とか。その時からの習慣で、毎日寝る前にはストレッチ」

「そうなの?」

「昨日は出来なかったからね。部屋は広かったからやりたかったけど」

僕は相変わらず、彼女の下着が見えているのが気になって仕方が無かった。僕がもう一度、見えているよ、というと、気になるの?変なの、といってくるりと背中を向けた。今度は壁に向かってぺたっと身体を倒した。

それでも、浴衣は後ろでもはだけていて、下着は見え続けていた。

香川に帰ったら、パジャマをちゃんと買わないと、と僕は思った。

  

  

  

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