らかに笑う彼女を見るのは、どんな理由があっても悪いことではない。そしてその目を細めて笑う顔を、僕は今初めて見たわけではない。なのに、僕は初めて、彼女に肌と肌が密着するような親近感を、やっと感じることができていた。

それは、肉体の触れ合いに関係なく、感じるものであった。性別とかも越えるのかも知れない。喩えるなら、マンションの駐車場に当然のように車を停める感覚。もちろん、自分で借りているわけではなく、彼女のマンションの地下駐車場だ。

それは僕の個人的な性格かも知れないが、いくら親密になっても、誰かと会うのには手続きがいる。どちらかというと、僕はその手続きを大事に思っているのかも知れない。他人は時々、そういう僕をロマンチストと呼ぶ。

手続きを踏むというのは、パソコンのプログラムのように、順列があり、段階があって、それを毎回飽きもせずひとつひとつこなしていく、ということだ。もちろんその中に、形式的なもの、儀礼的なものがある。

そのいくつかを、とばすことができる感覚だ。もちろん、それを彼女の許してもらった、という喜びだ。

たぶん、無意識のうちに、彼女もそれを感じていたのか、車の中の会話が前とは比べものにならないぐらいに賑やかになった。

もちろん、彼女は僕のことをパパ、と呼んだ。パパさん、といってちょっと異国鉛で言い直したり、パパくんとか、パパちゃんとか、いろんな言い方を試した末に、結局パパ、で落ち着いた。僕はそれに対して、なんの注文もつけてはいない。

金沢を出たのは、もう夕方近くで、道路は混んでもいず、かといってスイスイ走れるわけでもなく、逆にストレスのたまるスピードしかでなかった。でも、全くそれが気にならないは、彼女のおかげだ。

パパ、という呼び方が気に入った彼女は、その話の流れで、自分の家族の話をした。離婚した後に、新しい両親の間に子供が産まれた。10才、歳の離れたその弟が、彼女にはかわいくて仕方が無いらしい。生意気盛りで、たまに実家に帰っても、弟は遊んでくれないそうだが、それでも両親は、家族四人の行楽や食事会をセットするらしく、そうなると彼女は弟ばかりを玩んでいるらしい。

信号待ちで、彼女はケータイの待ち受けにしている弟とツーショットの写真を見せてくれた。弟は幼い顔をしているが、笑顔の彼女とは違って憮然とした顔をしている。それがまた、何とも微笑ましく見える。

「パパには兄弟はいないの?」

当然のように、彼女は聞いた。妹が一人いるよ、と僕は応えた。

「もう結婚もして、大きな子供もいるよ。一時期からずっと逢っていないけどね」

一時期、という感じでぼやかしたが、僕にとってそれは、ある種の名刺代わりのような時間でもある。僕はちょっとした不祥事を起こして、それに見合う重い罰を受けた。僕自身の、全くパーソナルな範囲では、僕はそのことを当然という感じで受け止め、例えば会社を辞めたとか、彼女と別れた、という人生のイベントとあまり変わりなく思っている。

そういう時にはどんな正当な理由があっても、人は功罪両方をしっかりと心に刻みつけ、後の人生の糧にするものだ。

ただ、僕が心に刻みつけたのは、そういう他人と同じ道を歩く事への、どうしようもない恥ずかしさだ。通行証を手に入れられない、後ろめたさだ。

それが、今の僕を縛り付けている、許しを請う、という感覚の根幹を成している。僕は今、もう一度最初から、ひとつずつ、許されようとしている。生きてい行くことに必要な何かを、許さされるという実感を、求めている。

本当を言うと、愛とか恋とか、そういうことはずっと後のはずだった。でも、僕は何か漂うままに道ばたを転がり回っていると、そこら辺の手順が曖昧なまま、実感も得られないまま、生かされている気がして、その結果、僕は彼女と出会ってしまった。

僕は彼女にも、許されている、という実感を、まだ得てはいない。

ただ、それがなんとなく改善されている気配も感じていて、そして、そのことに対するどうしようもない後ろめたさも、一緒に感じていた。

たぶん、今、運転をしているという感覚、走っているという感覚、彼女が隣にいる、という実感を一歩でも離れると、その後ろめたさに押しつぶされそうな恐怖を、薄々感じている。

だから僕は、彼女といるこの時間を、かけがえのないものだと思っているが、それは同時に、彼女に縋っているのかも知れないとも思う。そんな僕のことを、どこまで理解しているのか、僕にはわからない。

だからずっと曖昧なままの方が、きっと好いのだろう、と僕はずっと思っていた。

それでも親密になっていく課程に、僕は乗っかっている。そのことに、単純に喜びを感じている。その加速とブレーキの狭間で、僕は興奮していた。

  

ぜ、鳥取なの?砂とか、好きなの?」

屈託無く、彼女はそう聞いた。先ほどコンビニに寄って、彼女はまた何かジャンクフードを手にしていた。僕は缶コーヒーを買っただけで、まだプルトップを明けずに、ドリンクホルダーに入ったままだ。

「行ったことないからだよ」

単純明快な答えだったが、どうも彼女には不満だったようだ。行ったことがない所なら、他にもたくさんあるだろう、と言いたげだし、さらに彼女は付け加えた。

「私テレビの取材で行ったことあるんだよね」

砂しかないよ、と呟くように言って、僕の表情を伺った。

本当はサ、と本当なんだかどうなんだかわからない言葉で、僕はさらなる理由を述べた。

昔、この車を買ったばかりの頃、一人で島根に行ったことがあるんだよ。ちょうどケータイのCMで島根の水族館にいるイルカが写っていて、それが見たくて、出かけていったんだ。ちょっと話は逸れるけど、なんとなくマンボウが見たくて、鳥羽の方までふらっと行ったこともあるんだよ。

それで、イルカを見て、そのまま出雲大社に寄って、宍道湖の夕陽を見たんだ。それがサ、周りはカップルばっかりでなんか居心地悪くて、それでそのリベンジを、とその時誓ったんだよ。

「じゃあ、ホントは島根が目的なの?」

実はその次の日に鳥取砂丘に行くつもりだったんだよ。それで、境港の近くの道の駅で車中泊して、翌日砂丘の方へ車を向けたら、目の前にでっかい大山が見えたんだよ。天気が良くてサ、快晴の青空に、でーんとその山がひときわでっかく見えていてね、それがもうどうしようもなく圧倒的で、それで砂丘をあきらめて、山を見に行ったんだよ。

だからその時には、結局砂丘には行って無くて、せっかくだからサ、夕陽を見る前に、砂丘をネ。

本当のことを言うと、夕陽は内緒にしておきたかった。元々情けない理由だし、だけど、彼女を連れて行く理由には十分だ。もっとも、天気次第、ということもあって、到着してから決めてもイイ、という迷いもあったのだ。

そういう話をしても、なんとなく、彼女の意気は上がらなかった。

「境港は、カニがおいしいし、出雲そばもなかなかおいしいんだよ」

僕がそういうと、彼女はちょっと恥ずかしそうに笑った。

「でも、砂丘は行ったことなくても、島根は観光したことあるんでしょ?二度目でも好いの?」

「独りで行くのと、二人で行くのとはまた違うものだよ。それに出雲は、別にもう一つ行きたい理由があるんだよ」

カエル男、って、島根に住んでいて、島根ネタが多くてサ、四隅突出型墳丘墓があるのが、出雲なんだよ。

その言葉に、彼女はめざとく反応した。

「あ、もしかして、あのコフィーちゃんと・・・えっと・・・」

彼女が浮き足立つのがわかる。いつだったか、僕と彼女が一晩過ごした時、テレビを点けたらたまたまやっていたアニメを、僕らは三十分間笑いながら見た。面白いね、という話になり、それがカエル男商会のFlashアニメで、という話題が、しばらく僕と彼女の会話のとっかかりになっていた。

そしてついに、

「ダニエルだ」

と、喜びの声を彼女は挙げた。途端に、彼女の興味がこれから向かう先に注がれるのがわかる。

「まぁ、島根の至る所にダニエルはあってさ、公園みたいになっている所もあるみたいだけど、そこに行って面白いかどうかは別にして、なんとなくそういうネタだけで目的地を決めるのも悪くないだろ?」

それよりは、出雲大社は縁結びの神様で、というような話をした方がずっといいのかも知れない。でも、出雲と聞いてダニエル、と出てくるのが、僕らの秘密なのだ。そういうカップルは僕らだけではないにせよ、それが僕らの共通の話題で、そしてそれが積み重なって、僕ら二人の時間が刻まれていくのだ。

いつか、そういう時間を反芻する時に、僕らは僕らだけの時間に酔いしれることで、思い出という甘美な夢に浸ることができるのだ。

だから、二人でいる時間は大事なんだ、と僕は思う。

「蕎麦もあるしさ」

と僕が念を押すと、彼女は助手席で両手を肩の高さまで上げ、手のひらを曲げると、それを前後に動かし、

「タ〜カ〜ノ〜ツ〜メ〜」

と言った。僕は笑いながら、その無邪気さに見とれていた。

  

くなってから、福井に入った。市内には向かわず、ひたすら海岸沿いを走る。僕と彼女の会話は話題をそこここに枝葉を生やしながら、ずっと続いていた。こんなにじっくりと、お互いの話をするのは初めてだと思う。忙しい彼女と、東京に寄りつかない僕の間では当然のことかも知れない。

でも、そうやって積み重ねた会話は、どこに帰結するのだろうか?僕らがもっと長い時間、生活を共にするとしたら、どちらかが自分のスタイルを修正する必要に迫られる。そのことをぼんやりと二人ともわかっているはずだ。

だけど、それを口に出さないのは、今が楽しい旅の途中だからではない。それを口に出した途端に、僕らは一気に深刻にならざるを得ないのだ。だから僕らは、どこにいても、将来の話はしないようにしていた。

そしてそれは、曖昧な関係を続けたまま、ただ刹那的な幸福に酔いしれることの連続だった。

でもそれは、間違っているとは思わない。唯一僕らが胸を張って言える、僕らの理由は、たぶんその一点に帰結するのだろう。

僕らはお互いに知らないことが多すぎる。だから、会話も弾む。

僕も彼女も、許される中ではおしゃべりだ。秘密を共有するという実感だけで、饒舌になれる。

その会話のスピードにちょうどイイ、スピードを保って車はひたすら走っていた。市内からはずれるせいか、車の量はそれほどでもない。すっかり暗くなった海岸沿いの街に、僕らはぽつんと小さなネオンを見つけた。喫茶店か何か、昔で言えばドライブ・インのような、だけどずっと洗練された小綺麗なウッドハウスが見えた。

会話を遮って、僕はそこに寄って夕食を取ることを提案した。カーブの向こうに小さく見えるネオンを、彼女は見て、別にイイよ、と言った。

駐車場に車を停めると、道路の向こうのから波の音がした。防波堤か何か、その向こうは闇に消えて見えない。しかし、潮の香りと波音が、海岸というシチュエーションを僕らに教えていた。

客は僕らだけ。高校生ぐらいのウエイトレスが一人、カウンターに居座って文庫本を読んでいた。その向こうに注文した料理を作っているであろう誰か、マスターがいるはずだが厨房に消えて顔は見えなかった。

店に中には小さな音量でソロモン・バークがかかっていた。様々なアーティストがソロモン・バークのために曲を提供したアルバムで、グラミー賞を取った。海岸沿いにはやや場違いにも聞こえるその切ない音は、誰の趣味なんだろうか?そういえば、ウッドハウス然としている店内の装飾は、きわめて質素で極端に言えば、テーブルとイスがあるだけで、壁には窓がいくつか、その隙間を埋めるのは小さなポートレートを入れ込んだ額縁が切り取っているだけ。

それを表して、彼女は古い映画の、鉄砲をばんばん撃ち合う、なんていうんだっけ?と僕に尋ねた。西部劇だね、と僕が言うとそうね、そんな感じ、と言ってまた一回り周りを見渡した。

カップに入った食前のスープは、野菜の味がした。嫌いな味ではないが、取り立てて美味でもない。だが、彼女の方は、おいしいね、と言い、一度口にしたカップをテーブルに置き直し、ケータイのカメラで撮影してから、もう一度口に運んだ。そしてあらためて、おいしいね、と言った。

僕はそうだね、と言いながらも、それほど同意してないことを悟られないように、なるべく笑顔を作った。そして、なるべく早めに、カップにスープを飲み干した。

料理がでてくるまでは少し時間がかかりそうなことを、ウエイトレスは言っていた。そのための食前スープだが、僕はじっくりと味わう彼女をおいて、店の外にでた。ちょっと、用事を思いついて。

僕は店の外でケータイで電話をかけた。

外から戻ると、彼女はまだスープを飲んでいた。温くなってるんじゃないの?と彼女に言うと、おかわりを頼んだら、快く持ってきてくれた、と言った。そう、と頷く僕の目の前にも、新しいスープが届いていた。

僕は先ほどの用事を、彼女に告げた。

「明日の宿、確保したよ」

僕は島根の宍道湖の近くの温泉宿の名を告げた。僕は宍道湖リベンジを誓った時から、今度行くならこんな宿、こんなルートで、今度はこんな所を見てみたい、と半ばライフワークのように過ごしていた。だから、いくつか泊まる場所もいくつかリストアップしていた。そのうちのひとつに、僕は先ほど予約を入れたのだ。

「明日?」

その宿よりも、彼女はそういった。当然、次のセリフは、予想がつく。

「今日は?」

たぶん、彼女の頭の中では、いくつかのプランが上がっているはずだ。だが、僕のことを訝しそうに見ている。

「このまま走って距離を稼ごうかな、とか」

大丈夫?と彼女は今度は不安そうな顔になる。そういえば、昨日も数時間しか寝ていなくて、今日も夜通し走るというのは、誰が聞いてもハードワークに違いない。

「冗談だよ、どっかで寝るよ」

ああまた、といったような調子で、彼女はイスの背もたれに体重を預けた。ああ、でもどこかでシャワーでも浴びたいなぁ、と独り言のように言った。

「明日温泉あるよ」

僕はイタズラっぽく言った。それを察知したのか、ちょっと過酷な僕の旅にスケジュールに、苦笑いを浮かべる。

そのうち、やっとメインディッシュが運ばれてきた。グラタンと、カニのパエリア、というのだったっけ?

彼女の表情がぱっと明るくなった。急いでまたケータイを取り出し、パシャリとやる。ついでにメールしよう、と言って、彼女はそのまま親指を器用に動かした。誰に?と問うと、彼女は僕もよく知っている若手女優の名前を出した。仲がいいんだ、と言うと、親友、とケータイを見つめながら言った。

この旅のこと、言ってあるの?と僕が問うと、彼女はなおもメールをうち続けながら、首を振った。帰ってから言うよ、別に誰と来ているとか、関係ないし。

そういうものか、と僕は思いながら、グラタンに手を着ける。意外に、おいしい。いや、正確には、味馬鹿の僕にでもわかるおいしさだ。

これおいしいよ、と僕が言うと。彼女は、少し怒った顔になって、私が味わってから先に感想を言おうと思ってたのに、と言った。そして、彼女はパエリアをすくって口に持っていった。

おいっしい。

少しずつ、僕にも彼女のおいしいのレベルが、その語り口で解りかけていた。それは相当に、おいしく感じたらしい。

それから、僕らは食を堪能することに没頭した。

空腹を満たし、味に満足し、ソロモン・バークの声音、ウッドハウスの佇まい。

ささやかだが、日常とは少しだけずれた幸福が漂っていた。その感触は、彼女の方が深いらしく、彼女の瞳はぼんやりとしていたが、表情は笑顔をにじませていた。

「毎日、スケジュールに追われて、気が着くと日付が変わっていて、あっちへ移動こっちへ移動。日本中いろんな所に行ったけど、全部カメラが廻っていて、プライベートなんてどこに行っちゃったんだか・・・」

独り言のように、彼女はそう呟いた。

「久しぶりだな、こんなの」

彼女と同じくらいの年頃の女性と言えば、ちょうど働き初めて数年で、財布も十分とは言えないまでも、自由になるお金がランクアップした頃で、不況のご時世でも旅行やショッピング、そういう娯楽を謳歌できる年代だろう。

そういう年代の女性から、憧れられる立場に彼女はいるはずだが、それは相応のリスクももたらす。そう表立つことはあまりないが、今日聞いた話のいくつかは、そういうエンターテイメントの世界の裏側的な話もあった。

幸福とはなんだろう、と僕はずっと以前から考えていた。いくつか勤めた職場で、決められた時間に出勤して、へとへとになって帰ってきて、気が着いたら寝ていて、そんな自覚もないまま次の朝が来る。それを繰り返して、申し訳程度の休日がやってきて、満足も得られないまま、また明日の朝が来るのだ。

その繰り返しの中で、僕らが感じる幸福、僕らが得られる幸福とはいったいなんだろう?

生きている以上、リスクのないモノやコトはない。何かを得れば、何かを失う。それが摂理だ。だとしたら、本当の幸福はどこにあるのだろうか?

僕はぼんやりとそういうことをずっと考えていて、というより疑問に思っていて、そして最近になってやっと、それについてちゃんと真っ正面から向き合うようにして考えるようになった。簡単に答のでることではないが、朧気には見えてきているモノもある。

それは例えば、こうして、自分の自由になる時間と自由になる空間を確保して、そしてそれを表現できる対象がある、ということだ。それは間違いなく、彼女の存在だ。つまり、彼女の存在は、僕の幸福にとっては必要なのだ。

だから僕は、彼女にもそのことを感じて欲しい、と思う。共有したいと思うし、演出して与えたい、とも思う。

だけどきっと、何かを失うのだろう。

そう考えるようになって、僕は以前より心底楽しむ、ということに疎くなった。どうしてもどこか冷静で、今のような状況に昂揚しながらも、気が付くとこんなコト、長続きするはずがない、と思っている。それがふと、僕を夢の世界から引き戻すのだ。

そういう矛盾のような、ジレンマのような、何とも釈然としないモノに、僕は何かの答、解決策、もしくは諦め、を得ようとずっと考えるようになった。

「誰でも一緒だよ」

「でも、パパは羨ましいよ。こういう旅を時々出来る、っていうだけでもね」

「独りが長いからだよ」

それが僕の引き受けたリスクかも知れない、と僕は思っている。ぼんやりと、それが諦めに繋がり、納得という解決策に繋がり、でも、それが答なんて悲しいじゃないか、とささやかな抵抗を試みたいと思っていた。

僕の言葉に、彼女は薄く笑って、ちょうどやってきたウエイトレスにコーヒーを頼んだ。

ウエイトレスが去っていく背中を見ながら、僕はひとつ呼吸をおいて、彼女に尋ねた。

「さっきから考えていたことなんだけど、というか、なんというか、言い出しづらくて」

何?と彼女は身を乗り出す。

「カメラとかがきっと着いてこない所、いや、仕事で君が行かない所、っていうのかな」

曖昧な言い方に、彼女はちょっと眉をひそめる。とんでもないことを言い出しそうな雰囲気を、何か感じているのかも知れない。

「本当は、今日の行程の中に俺はあらかじめ入れていて、ホント言うと昼間に一度、別の所を当たっていて、さすがに当日はって断られて、でどうしようか迷っていたんだけど、そうするとあそこしかないよな、っていうか・・・」

「何?はっきり言ってよ」

僕は意を決したように振る舞った。

「ラブホテル?」

一瞬の沈黙が、僕らの間に流れた。おかしな話だが、もう四十歳を過ぎた僕が、なぜか緊張に背中に汗をかいている。どうも、そういうことに僕は奥手ではないはずなのに、そういうこと前提のスケジュールを女性に伝えるのに躊躇ってしまうのだ。

それは一方で、僕の思う手続きが、僕の流儀ではない方向に進んでいるのが、どうしても納まりが悪くて戸惑うのだ。それは取るに足らない、形式的なモノで、いわば役所ではんこをもらうようなくだらないことなのだけど、こと、相手が女性になると僕は、その手続きを神聖なモノと勘違いしてしまう。

「なんだ、そんなこと」

彼女はそうこともなげに言って笑った。だけどその笑顔は、どことなくぎごちない。僕は、言い訳を重ねて、互いの気まずさを紛らわせようとする。

「俺独りの旅なら、別にスーパー温泉に車中泊、というのでかまわないんだけど、さすがに君がいるとね」

「そういう理由なの?」

「そうだよ、お姫様に野宿は勧められないよ。ラブホなら、シャワーも浴びられるしベッドで寝られるし」

「野宿も魅力的だけどな」

と彼女は本意かどうか計りかねる複雑な表情で、俯いた。

その時、コーヒーが運ばれてきた。僕は、もしかしてさっきの会話を聞かれたのではないか、と思ってさらに汗をかいた。慌てたようにブラックのままのコーヒーを口に運びながら彼女は、声のボリュームを一段下げた。

「そういう所は、抱きたいって、言われて行きたいな」

もちろんそうだよ、と言ってはみたが、どうも、僕はまた、しくじってしまったようだ。さっき感じた幸福も、かすんでしまった気がする。

「私、行ったことないんだよね、ラブホって」

しみじみと彼女はそう言って、明らかに頬を染めた。そういえば、僕とのこれまでの逢瀬も、僕が定宿にしているシティホテルだった。初めてが僕で、ということの非難だろうか?それとも、別の何かを求めているのか?僕には判断が付かなかった。

「私ってずいぶんと早い頃からこういう仕事していたから、付き合うのも業界の人っていうかそういう人ばかりで、そんなに人数いるワケじゃないけど、だいたいが安全が解っているビジネスホテルがあって、そこばかりだったから」

「面白い所だよ」

クスッと彼女は笑って、やっと表情が解けた。

「それも、今回の旅の行き先のひとつなの?」

「もちろんそうだよ。それをずっと考えていた」

スケベ、と彼女は言ったが、朗らかに彼女は笑った。僕はやっと信頼を取り戻したのか、どうなのか。

「もしかして、予約とかしているの?」

僕は慌てて首を振った。さすがにそこまではしていないよ。これから探さないといけない。

「行き当たりばったりらしいね」

僕らはコーヒーを飲み終えると、席を立った。レジの所に行くと、高校生ぐらいのウエイトレスが支払いをする僕の傍らにいる彼女に、気が付いた。あ、と小さく声を挙げ、もしかして、と訊ねた。僕が否定しようとすると、彼女はそうですよ、どうも、といって手を差し出した。握手をしたまま、興奮しかけたウエイトレスに向けて、彼女は人差し指を立てて口に当てた。そしてニコリ、と笑う。

プライベートなんで、と僕がいうと、ウエイトレスは納得したように、何度か頷いた。彼女は店にサインを残すと、そのまま僕より先に店を出ていった。

外に出ると、雨が本格的に降り出していた。

  

の中、ヘッドライトを頼りに、知らない道を走るのは心細い。さらに、僕らはラブホテルを探しながらの道行きだ。向かっている方向は西で、最悪見つからなくてもどこまでも走ればイイだけなのだが、でも、やはりシャワーとベッドは僕らには魅力だった。

いつの間にか、彼女もそのサーチ作業に身を乗り出していて、今晩の宿を探すのは僕ら二人の命題となっていた。

ラブホテルというのは、だいたい目立たない所にある。全く目立たないわけにはいかないが、あまりこれ見よがし、というのはない。都会ではそうでもないが、地方都市のはずれなどは未だ、隠れた存在なのだ。

しかしポイントはある。なんとなくありそうな場所の見当はつく。さらに、何件か密集している場合も多い。町はずれで、車しか通らないような所。夜になれば、ネオン・サインを探せばいい。意外に近づいてみると、これでもかというぐらい派手な外観の時もある。

そういうことを、一応彼女に説明して、とりあえずひたすら走っているのだが、なかなか見つからなかった。

これは地元の情報を手に入れるべきだ、ということで、一度コンビニによって、タウン誌を買ってみた。僕が雑誌の本棚を物色している間に、これも、といって彼女が持ってきたのは、カワイ屋のリンゴだった。

車に戻って僕は訊いた。昼間食べたのに、それほどおいしかったの?

夜中おなか空くと思って。と彼女は応えた、そして、ぱらぱらとタウン誌をめくる。

結局、お目当ての場所を見つけたのは、敦賀を少し抜けたぐらいの所だった。結局タウン誌は役に立たなかった。道の傍らの小さな看板を、彼女が見つけ、小道を入っていくと坂の下にホテルが二軒並んでいた。手前の方に入って、車を停める。そこはコテージサイズの建家が並ぶスタイルで、駐車スペースの隣にすぐ入り口があった。

車を停めると、僕の隣で彼女が緊張しているのが解った。なかなか降りようとしない、というよりどうするか迷っている感じだった。荷物もって、中に入ろう、と僕が促すと彼女は頷いた。

ドアを開けて外に出る一瞬、彼女は疾風の如く玄関まで走った。隠れるようにドアを開ける。人影に反応して光るランプに彼女はおびえるように肩をすくめた。

僕はゆっくりと堂々と玄関にはいった、彼女を中に促した。まだ緊張が解けない彼女は、そこで靴も脱がずに立っていた。僕は彼女の肩を抱き、壁を探って、明かりを点けた。スリッパに履き替え、短い廊下を歩いた。すぐにそこはベッドルームだった。

「広い」

というのが、彼女の最初の感想だった。僕は荷物を床の隅に置くと、彼女もその隣に同じように荷物を置く。そうするモノだ、とひとつひとつ学習する子供のような仕草だった。そして、二人並んで、ソファに腰を下ろした。

触れている肩越しに、彼女の緊張が伝わってきた。やはり得意な空間に、彼女は違和感を感じているのだろうか。僕は目の前のテレビを点た。NHKBSがレッド・ツェッペリンのライブ映画をやっていた。何度か見たことがあるヤツで、ちょうどボンゾのドラムソロのシーンだった。部屋には薄く有線が流れていたが、ドカドカいうボンゾのドラムの音が、瞬く間に部屋に鳴り響いた。

「こういう所に来るとサ、最初に何するか知ってる?」

僕がそう訊ねると、彼女は目を丸くして、ややおびえたような表情になった。僕はおもしろがって、彼女を見つめた。

「さぁ、探検に行くぞ」

僕は彼女を促し、部屋のあちこちを見て回った。バスルーム、洗面所、ベッドスペース、その間にはフローリングの何もない空間があり、隅に冷蔵庫とスロットマシンが置いてあった。ひとつひとつがやたらと広くて大きい。僕らはそこにある備品を手に取ってみたり、扉を開けてみたり、スイッチを入れてみたりした。

その部屋には、高い壁に囲まれていたが、ベランダもあった。カーテンを少し開けて覗いてみると、小さなテーブルとイスが並んであって、今は雨に濡れていた。

そのうち慣れたのか、彼女はその広さや、備品のいちいちに感想を述べた。その多くが、こんなのもあるんだね、至れり尽くせりだね、という言葉だった。

「有名な温泉とか、旅館とかホテルも好いんだけど、カップルならこういう所で泊まるのが一番安上がりで、好いんだよ。まぁ、探し回る苦労はあるんだけどね」

「そういう旅が得意なの?」

ソファに戻った彼女はそう僕に訊いた。

「何度か、やったことあるよ」

なんとなく、僕は初めて、彼女の嫉妬めいた表情を見た気がした。僕ぐらいになると、女性の過去に何があったのかは、めんどくさい部類に入ってしまう。逆に、僕のような人間に何があったかなんて、興味の対象にもならないだろう、と僕は思っていた。そしてそれはもちろん、たいした問題ではなく、彼女もさらりと流した。

「ベッド、回らないんだね」

僕は声を出して笑った。未だにそういうイメージがつきまとっているが、正直おかしかった。

「今はもっとおしゃれというか、そういうにおいがしないモノだよ」

でもベッドにはちゃんと避妊具がおいてあるし、限られた店でしか売っていないようないかがわしいモノの自動販売機も片隅にはあった。しかし、それ以外は、どちらかというと豪華な、二人で占領するにはもったいないほどの広さを持つスペースだ。

「俺はもっと狭い方がいいんだけどね」

アハハ、と笑って彼女はやっとリラックスした表情になった。そして羽織っていたサマー・カーディガンをやっと脱いだ。そして、ぱちぱちとリモコンを操作してテレビのチャンネルを変えていった。ボンゾのドラムが、あっという間に消えてしまったのは、ちょっと残念だった。

     

初、彼女は別々にシャワーを浴びることを強く主張した。というより、なかなか踏ん切りが着かないような、渋っている風な会話が30分ほど続いた。でも、旅の思い出、みたいな適当なことを僕は言って、承知させることに成功した。

全く僕の趣味だが、僕は女性の入浴している無防備さが好きだ。そこには人間そのものの、すべてが現れると思っているから、親密さを増すのには最適だと思う。無防備に肌を晒すのに、不思議なことに僕は思うのだが、やはりセックスと結びつけないとなかなか納得してもらえない。

でも、僕はぼんやりと湯に浸かって、女の子の肌を見るのが好きだ。昔、旋盤工をやっていた頃、金属のどこまでも終わらない曲線の甘美さに気が着いて、知らないうちにずっとそのラインをなで回していたことがある。

それよりはもっと有機的で、しかし完璧な曲線は、女性だけが持っている、と僕は思う。

手を伸ばせば、彼女の柔らかい肌がある。うっすらと水着の跡が残っていて、そのラインが、少し動くたびにしなやかにゆがむ。それが僕には、何とも言えず官能的に写るのだ。

ただ、それは魅とれてしまう、という所で止まり、その先に進むことを躊躇わせてしまうほどに、どこか神秘的なモノを宿している。女性のもっとも柔らかさを象徴している部分を、絶対領域、と評したセンスには本当に同感する。

男にとって、女性の身体はどこまでも神聖で、どんなことをしても敵わないのだとあらためて思う。

一緒にバスルームに入るのに、バスルームを暗くする、というのが条件だった。ただ、このバスルームには、バスタブの中が七色に光る仕掛けが施されていて、結果、彼女の条件はその妖艶な仕掛けを強調するのに役立った。ゆらゆら揺れる水面が、グリーンや赤にグラデーションする。そのたびに宝石のような輝きが、浮かび上がる。

さすがに彼女はそれが気に入ったようで、シャワーで身体の汗を流すと、勇んで湯船に浸かった。

最近のラブホテルは、女性の好みに合わせて作られている。時流に乗っているといえばそれまでだが、しかし、今までは男の領域だったセックス産業も、今はイニシアチブが女性に移っている。そもそも、今のご時世、女性に気に入られるのが困難な時代なのだ。彼女たちの要求は多様で、細かく、そして微妙だ。

男たちはすっかりそれには着いていけなくなっていて、自信をなくしている。僕などは、もうすっかり女性に何もかも任せて、男は家庭に入ってもかまわない、とさえ思っているが、現実の社会はまだ、負けを認めたくない男の悲しい抵抗が蔓延している。

僕も身体を洗って、彼女の隣で湯に浸かる。緊張する彼女の肩を抱いて、後ろから抱きしめる。寝そべるようにして仰向けになって、肩まで沈める。僕らはなんとなく天井を見上げて、七色に光る湯船に漂っている。

男と女が親密になるということは、お互いの生活のあらゆる部分を共有することだが、時々お互いの姿を見失うことがある。今日一日僕は彼女と連れだって歩いたし、いろんなコトを話したはずだが、それなのに未だ、彼女の知らない形があるのことを思い知る。

目の前に彼女の濡れた髪があって、きれいな頭の形の輪郭が見えている。甘いシャンプーの香りがする。でも、なんとなくこうやって、触れあうことは少なかったような気がする。彼女がリラックスするにつれ、体重が僕の胸にかかってくる。僕はいっそう、彼女の背中を抱きしめる。

脇から手を回して、彼女の乳房に手を触れる。この感触は、他の何物でも得ることの出来ない柔らかさを持っている。女性が隣にいる時だけ、僕はこの感触を覚えていて、不思議なことに縁がなくなると、すっかり忘れてしまうのだ。思い出そうとしても、全く再現が出来ない。そんな不思議な柔らかさを、どんな女性でも持っているのだ。

「落ち着く」

僕の口から、思わずそういう言葉が出てきた。

くすくす彼女が笑う声が聞こえる。

「私の背中の辺りに当たるモノは落ち着いてない気がするけど」

「でも、落ち着く」

そうだね、お風呂って好いね。彼女はそう言うと、足をのばし、湯船から爪先を上に向けて出した。いくつもの雫が彼女の向こうずねを伝って落ちていく。片足を挙げて、戻して、今度は反対側のつま先を掲げる。

「シンクロ」

彼女はそう言って戯けた。僕は彼女の鼻をつまむ。ぶーっ、と唇を鳴らす。

ふと、僕はとても大それたコトをしているのではないか、などと不安になった。こうして彼女を抱いて、湯船に浸かる。そういうことを想像している人間が、この日本にどれだけいるだろうか。それを実現したいと思っている男たちがどれだけいるだろうか。その数少ないチケットを、僕が手にしたのは、本当に好いことなのだろうか?と。

複雑な心境だった。許されている、という感覚が強く僕を勇気づけようとするのだけど、これは詐欺まがいの行為で手に入れた時間なのかも知れない、という不安が拭いきれない。それは自然と、いつまでもこんな幸福が続くはずがない、という達観に落ち着く。それはどうにもやりきれないのだ。

だから、僕は今、という瞬間を大事に思っている。そういう意味では、最高にエキサイトしている。この先に何があっても悔いが残らないように、万全の体制を構築しようと、体中の神経を鋭敏にしている。そして、この一瞬一瞬を忘れないように、僕はくたびれた脳みそをフル回転させようと躍起になっている。

でも、不思議と心は静かだった。とても久しぶりに、心の平安、みたいなものを感じている自分がいる。僕はその相反する歯車が、軋まずに回っている隙間を指でなぞってみる。十分な潤滑油が施されている。

それは、紛れもなく彼女が放ったオーラだ。

年齢や、職業や、経験の豊富さに関係なく、女性が根元的に持っている包容力のオーラだ。全く意識せずとも、彼女たちは、僕らを許している。もちろん許容範囲はあるだろうが、それにしても男よりはずっと、この世界よりはずっと、広い。

そういうことを感じた瞬間に、僕は彼女のことが切ないぐらいに気になって仕方が無くなる。その距離感を見失いそうになる。その深みにはまると、抜け出せなくなることを承知で、足を踏み出す誘惑に包まれるのだ。

それは若い頃は無意識だったが、年齢を経てくるとはっきりと認識できるようになる。だからといって停められるわけではなく、確かに躊躇はするが、結局は答の出ないまま突破してしまうのだ。

僕はよりいっそう彼女の肩を強く抱き、首筋にキスをした。

彼女は一瞬、緊張したが、やがて柔らかく身体をねじって、僕の顔を見た。そしてそのまま、唇を重ねた。

僕は柔らかな感触を味わいながら、明日は手をつないで歩こう、とぼんやり決心した。ただの思いつきだったが、それは途方もなく、素敵なプランに思えた。

  

  

  

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