〜っ、と素っ頓狂な声を上げた彼女の横で、僕は前を向いていた。もし彼女が正面から見たなら、かなり悪代官のような視線を見つけたに違いない。

親不知から鳥取砂丘といえば、かなりの長距離だ。その間にいろんな観光地もあるだろうに、少なくとも今日一日で鳥取砂丘にまでたどり着こうとするなら、そのほとんどはスルーすることになる。

ただ、その辺は、僕は彼女に任せようと思っていた。途中で休憩する必要もあるし、そこで相談すればいい。

僕は運転するのは苦ではない。道に迷い続けるとうんざりすることもあるけれど、だからといって誰かの助手席に甘んじるつもりは一切ない。どんなに長距離でも、ハンドルを回し、シフト操作をするのがこの上なく楽しいのだ。

道を間違えた時に、リカバリーする方法、というよりその場で慌てない方法を身につけたときから、僕は長旅が可能になったと思っている。迷ったり、間違いに気づいたら、とりあえず道なりに進むのだ。そして、Uターンできればコンビニとかに入ればいいし、よければぐるっと回って元に戻る道を探ればいい。とにかくその場で急に歩道に寄せて止まったり、などというのは危険この上ないし、最悪パニックを起こしてしまう。

道はいつか、どこかに繋がる。それさえ信じていれば、何処で迷っても、だいたいは平気でいられる。

そういうのだから、助手席で唖然とする顔を、僕はよく見かける。間違えたよ、と言いながらさらに先を進む僕を見て、大丈夫?何処に連れて行くつもり?と不安になるのはナビゲーターの方だ。

ただ、最近、こういう運転の仕方にも、限界があるな、と思う時がある。特に都心の道では反省を強いられる。

思えば、リカバリーの方法ばかりを身につけていく、というのは僕が仕事をする時の常套手段のような気がする。ミスをしてもごまかせるというか、やり直しの効くことを探す、と言う方法は、ある意味堅実な道を歩むことになるようで、そうとも言えない。

そもそも、失敗を前提にした仕事というのは、いかがなモノか?でも、実際に、現場ではそれは普通になっている。誰にでもできる、誰がやっても失敗しない、という方法論が、何か大きな本質を失わせているような気がしてならないのだ。

そういうこととは関係なく、彼女はさっきからぱらぱらと地図帳をめくりながら、鳥取砂丘を目指して道を追っている。最初のおおざっぱな日本地図ならいざ知らず、道路地図では何ページも割かないと辿り着かない。

「結局、今日は一日走るだけ?」

ついに抗議の声を上げた。

「でも、最終的には、四国の香川だよ。別に遠回りとかしてないし」

高速を使えば、ほぼ一本道だし、時間も短い。ただ、楽しくない、と思う。

彼女は、今度は鳥取砂丘から四国、香川を辿る。中国山地を越え、瀬戸内海を渡る。ルートはいくつもある。橋だって三つのうちから選び放題だし、フェリーを加えればもっと選択肢は広がる。

「到着予定はいつ?」

「近いうち」

心底呆れた顔をして、彼女は地図帳を閉じた。

 

いたい何処の街の風景も、最近は平均的だ。何処にでもあるモノが、店でも住居でも、だいたいはそこにある。クルマで走ると、よけいにその印象は強くなる。道路上にあるモノは、クルマも含めて何処も一緒だ。

経験上、これは他ではお目にかかれない、というもはよっぽどの景勝地に行かないとないモノだ。だからよけいに、土地柄を象徴するのは人に限定されつつある。それも今は、細かく、だいたいが地域というよりは、学校区分により些細な違いが強調され、それが集約されると、不思議なことに一般化して日本中、何処も一緒になる。

つまりは、誰それと誰それが友達で、あれそれ、で分かり合えるところにしか、地域性はなくなったのではないか、と思う。

それでも、やはりハッとさせられるモノはあるもので。時々太陽や、風向きや、微妙な道路の曲がり具合によって、目を惹かれる景色というモノもあるのだ。

ただ、走り出した僕らには、まだその瞬間は訪れなかった。細い道を、トレーラーの後ろについて走ると、フロントガラスの景色はそんなに変わらない。さらに、助手席側はしばらくずっと聳え立つ崖が続く。海が見えるのは、僕の肩越しで、少しばかり退屈そうな彼女は、頻繁にあくびをした。

「眠ければ寝ててイイよ」

僕はいつものせりふを投げかける。ハイともイイエともいわず、まるで赤ん坊がむずかるような小さな声を上げて、彼女はシートに座り直す。僕はただ、ハンドルを握っているだけだった。

トレーラーの速度は制限速度をぎりぎり守っていたが、まだラッシュにはかからない早い時間だったので、しばらくはスムーズに走ることができた。いくつかのトンネルを抜けているうちに、いつの間にか、海は遠く、なだらかな平野へと入っていた。もう新潟をすぎ、富山に入っている。

どうやら今日は曇りがちの天気が続きそうで、それでも時々は日射しがアスファルトを照らした。秋雨の季節が近いのか、でも、まだまだ昼間の残暑は厳しそうだ。雨でも降ると、湿度が上がってよけいに蒸しそうだ。

「ねぇ、鳥取砂丘までに何もないの?」

ついに狭い助手席の空間をもてあました彼女が、柔らかな抗議を込めてそう言いだした。

「ないことはないよ。いろいろ、ここら辺の富山、石川っていったらどうでしょうの試験に出るどうでしょうでおなじみの、河北潟とか、合掌造りの五カ所村とか」

どうでしょうというテレビ番組をあまり知らない彼女は、あまりぴんと来てないようで聞き流す。

「だいたいここら辺、富山湾の漁港が多いから、海の幸の宝庫だよ」

食べ物の話題でようやく、彼女が聞き耳を立てた。だが、あいにく、僕の方が食に対する知識に欠けているので、それ以上のことを彼女に与えてあげることができなかった。

とりあえず、すぐに目に入ったコンビニに入って、ガイド・マップを買うことにした。

一通りの買い物を済ませて、クルマに戻ると、少しずつ街が動き出してきたのに気が着いた。このコンビニにも人の出入りが多くなり始め、道路をバスが通り過ぎていく。平日、僕らは全く遊びに出かけているのだが、すくなくとも僕ら以外の街の人たちは、今日一日の生産のために起き出しているのだ。

コンビニの中でも、不思議なことに彼女の存在に気づく者はいなかった。彼女は目ぶかに帽子をかぶっていたとはいえ、サングラスもせずに素顔をさらしていた。僕は彼女を知っているから、彼女はいつもの彼女であり、何らステージの上の彼女と変わらない。でも、不思議と、このコンビニの風景に溶け込んでいるのだ。

それが僕にはなんだか妙に可笑しかった。彼女の名誉のために、化粧をしていないとか、そういうことを言うつもりはない。でも、実を言うと、きっと何かほんの些細なきっかけで、彼女は華やかな世界の住人になったのだろうと思うのだ。

彼女自身が望んだにしろ、偶然にしろ、彼女にそのきっかけが降りかかってこなければ、きっと普通の社会の中で、ちゃんと生活をしていたのだろう。それでも立派に、人生というヤツを着実に踏みしめていたのだろう、と僕は思う。

それに比べて、僕はどこかで、そういう生活から逃げ出そうとして、逃げ出して、失格者の烙印を押されて終わったのだろう。喩え元のルートに戻る切符を再発行されても、それをとても情けない理由で破って捨てるのではないか、そんな気がする。

事実、僕は鳥取砂丘に行ったことはないが、そこまで行けば先に何があって、そこで何を見たいのか、ぼんやりとしたプランがある。それは、実はかつて僕が一度見たことのある風景で、僕はそれをもう一度、彼女と訪れたい、と思っているだけなのだ。

それは過去の輝いていた時間を、ただ反芻しているだけだ。未来を見据えているようで、僕は後ろばかり見ている。そしてそこへ辿るキーワードに、彼女という不確定要素を、はめ込んでみただけなのだ。

彼女、というピースが、僕の行き先を劇的に変化させてほしい、という淡い希望に縋っているのだ。

でも、結局は香川に帰る。僕は僕のベッドに帰るのだ。

渋滞し始めた車列に入って、彼女はガイドマップをめくり始めた。めくりながら、何が食べたい、これが食べたい、という。僕は生返事ばかりをして、少しだけ彼女を不機嫌にさせてしまった。

「ところで、ここって一度来たことあるんでしょ?」

僕はうなずく。

「その時は何か食べなかったの?」

「あのときは確か・・・さっきの親不知のサービスエリアでパンを食べて、それから高岡市からぐっと岐阜の山奥に入っていったんだよ。昼には確か白川郷の世界遺産にいたけど、何か食べたっけなぁ?」

またしても曖昧な応えにいよいよ、彼女は不機嫌になる。渋滞もひどくなり始めていて、僕らは何か狭い空間に閉じこめられたような感覚に陥る。

「何か食べる?」

僕はおそるおそる訪ねる。

「とりあえず、ファミレスで、簡単に朝食だけ食べておこうか?」

せっかく、と彼女はなんとなく口に出して、でも、頷いた。観光旅行のはずが、ファミレス?というニュアンスは、僕も同感だった。

 

間が早いから、仕方がないよ」

24時間のファミレスは、まだ出勤時間の今は、それほど混んでいなかった。僕らは、別に何処でも食べられる朝食セットに、ソーセージとハムエッグを加えた。

彼女は体の割によく食べた。何処でも残さず何でも食べる。僕は彼女と東京で、それも夜以外にあったことはないが、会う度にまずは食事から初めて、店は彼女が選び、そこでお目当てのモノを平らげてから、僕らの時間は始まった。

それに反して、体調管理というか、スタイルを維持するのは大変だろうね、と一度訊ねたことがある。でも、仕事みたいなモノだから、と彼女はあっけらかんと応えた。ダンスとか、歌を歌ったりするだけで、結構体力使うのよね、なんて。

出されたモノを全て平らげてから、彼女はスープをお代わりして、それを飲みながらさっき買ったガイドマップをまた、めくり始めた。

ガイドマップには、富山、石川、そして福井あたりまでをカバーしていた。彼女はめぼしいところがあると、僕にその箇所を指さした。

その時彼女は、ここに行ける?と訊いた。僕は地図を見て、大丈夫、と応える。いくつかそういうやりとりをした後、ふと、彼女は僕の顔をじっと見た。何?と僕。

「ところで、先生が行きたいところはないの?」

のぞき込むような彼女の視線に、僕は少し動悸を速める。あどけない、その表情は未だに慣れないな。

「こういうこと言うと、面白味に欠けるかも知れないけど」

僕はそういってから、彼女から視線を外した。ぐるりと、ファミレスの店内を見渡す。

「ここに来たかったのかも知れない。ここはただのファミレスだけど、一度も来たことのないファミレスで、しかも、君と来た初めてのファミレスだよ。それが今日からしばらく続く、それだけで、旅をする理由はあるんだと思うんだよ。行く先は、君が決めればいいし、僕は何処へでも行く。ホントいうと、別に鳥取砂丘でなくてもいいんだよね。どこかうろうろして、最終的に香川に着けば」

僕は一息ついて、彼女を改めて見た。

「何かを見たいわけでもなくて、何かをしたいわけでもないんだよ。一応目的地は決めるけど、そこへ辿り着くまでが楽しいんだよ。その楽しさを、君と分かち合うことが、この旅の一番の楽しみなんだよ」

僕がそう言い終わると、彼女はうつむいて、くすっと笑った。僕はなんだか急に恥ずかしくなった。こういう時に、たばこを辞めたことを後悔する。手持ちぶさたで間が持たない。

「ちょっと違うかも知れないけど、私はね」

彼女はスープのカップを両手に持ち、鼻先に掲げたまま話し始めた。

「私はデートで漫画喫茶に行けない人なのね。別に会話とか、そういうことばっかりを求めているんじゃないけど、二人でいる時に、二人を意識しない時間があるのがなんとなくイヤなの。独りでもできることを、二人でいる時にしなくちゃいけない理由はないでしょ」

「そう考えると、二人でいる時間というのは、ずっとずっと許容範囲が広いんだね。可能性ってヤツが、無尽蔵にある。独りでしかできないこともあるにはあるんだろうけど、それはたぶん、二人でできることより範囲が狭いんだよ」

うん、うん、と彼女は二度、頷いてカップを口に運んだ。飲み終えて、残りをスプーンでかき混ぜる。

「前へ、前へ進め、だね」

何?それ?

「なんとなく、旅のルールがわかった気がする。ずっと道を走っているうちに、目的地は見つかるんだね」

そういうこと、と僕が応えると、でも、と彼女は改めてガイドブックを広げた。

「ここだけはどうしても行きたい」

そういって、指さしたのは、金沢の兼六園だった。

  

滞はずいぶんと続いていて、都市部を抜けてもそうは快適に走れたわけではなかった。もっとも、多少スピードがノロノロになるだけで、全く動かないほどのモノでもない。せいぜい僕のクラッチを踏む左足を痛めつけるだけだ。

助手席の彼女は、満腹を満たすとずいぶんとシートを自由に使うようになった。一応シートベルトに縛られてはいるが、足を投げ出すように斜めに座っていた。

だから時々、彼女の足に僕の手が当たった。シフトレバーを操作すると、そこに彼女の腿がある。僕の拳は腿を撫でていく。そのたびにすっと、避けてみたりするが、それほどじゃまにならないと悟ると、全くその姿勢を崩さなくなった。

時々窓の外を見ては、あ、とか、あれとか、行って僕の注意を引く。渋滞している程度のスピードに任せて、僕は時々のぞき込んだりする。そうやって本当に、とりとめもない会話と、仕草を交わしながら、僕らは先を進んでいた。

確かに、僕らに密度の濃い話をするほど、お互いの時間を共有していたわけではないことはわかっていた。僕らは時間を費やしたつもりでいても、少なくとも僕は、その不確かな時間に怖じ気づいて、ただ、身体の関係に没頭した。話をしたのは、それに少し枝葉の着いたことぐらいだ。彼女がベッドの上で、何が好きで、何を嫌っているか。それに関係すること以外で、僕らは何も知らない。

僕は彼女を知っている、彼女も僕を知っている、という程度なのだ。でも、彼女をテレビで見ない日はない。それがなんとなく、そういう共有の感覚を曖昧にしているところもある。

そんな僕らの、これは初めての共犯の時間なのだ。

陽が高くなるにつれ、併走するのクルマに工事車両や、営業車が多くなる。その中で、僕らは呑気に行き先を決めずにただ前を向いてクルマを走らせている。それが許されているのかどうか、確信がないまま、僕らは多数決で言えば圧倒的に不利な中にいる。

だからなるべく、肩身の狭い思いをしてすごそうとする。僕は小心者だから、つい、堂々とクルマを走らせることを躊躇して、周囲の迷惑にならないことばかりを心がけている。

隣の彼女はその点、肝が据わっている。自分の時間を、楽しむ準備はできている、とばかりに目に映るモノにいちいち感嘆の声を上げているのだ。

それがなんだか羨ましい。彼女と一緒なら、そういう肩身の狭い重いから逃れられるのだろうか?

僕らは、高岡市から半島寄りに進路を取り、千里浜の方に出た。兼六園へ行く時間を考えると、少し寄り道しても昼過ぎには着ける、という算段をたてて、僕は寄り道を提案した。それが、砂浜を疾走できるドライブウェイだった。水曜どうでしょうでおなじみの、千里浜なぎさハイウェイだ。

天気がよければ、気持ちよかっただろう。しかし、そのころには今にも雨が落ちてきそうな、曇天が広がっていた。気温はずいぶんと上がっていて、蒸し暑さが額に汗を流した。

それでも、まっすぐの道を走っていくと、彼女はその風景に見とれ、途中からは窓を全開にしてその風に向かって、何事か叫んでいた。僕はその様子が面白くって、声を上げて笑った。

まだ、午前中なのに、彼女のテンションは高かった。

海は何処までも一緒で、それは周り回って繋がっているからなのだが、なぜか日本海に僕は慣れない。僕は四国で生まれたから、海と言えば瀬戸内海で、近くにある大洋というと、太平洋だった。高知で見る太平洋は何処までも果てしなく続いている。

僕に知識があるせいか、日本海はいつか大陸と繋がっている、という意識があるのだろうか。なぜかとても視野が狭く感じるのだ。巡り合わせで、いつも曇りがち、というせいもあって、上から押さえつけられるような感じが拭えないのだ。

不思議な感覚なのだが、太平洋は空が高く、日本海は光景が広い。左右に広大なものを感じるのだ。

その底辺を突っ切る感じは、悪くはなかった。僕の車は、普通の何処にでもある国産車で、巷の奥さんがちょっと郊外のスーパーへ買い物に出る仕様と、何ら変わりがない。だから、いくらクルマの走行が許された道路、とはいえそこは砂浜だ。僕のアクセルを踏む足にも躊躇が出る。

なんとなく、僕は踏み込む勇気が淡くなっていることに気づく。

少しはスピードを出しているけど、なんとなく、彼女ほどには爽快感を満喫できていない、そんな気がした。

だから途中で降りることもなく、僕らはいつの間にか、金沢に向かう道路に乗っていた。

  

女が兼六園をあえて指定したのには、理由があった。僕はそれを金沢市内に入ってから告げられた。

市街地にはいると途端に彼女は騒がしくなった。地図を見ながら、今はどこら辺を走っているのか、しきりに訊いた。やがて、だいたいの位置がつかめると、僕をナビゲートするようになった。

その道は入れる?と訊いて、大丈夫、と応える。じゃあ曲がって、と彼女。もう車線変更できないよ、というと、次ぐに信号をどちらに曲がって、とその指示はずいぶんと細かく的確だ。

やがて、僕らは兼六園の近くの、デパートの駐車場にクルマを止めた。それは彼女がここに、と指定したデパートだった。

なんのことはない、彼女は公園を見たかったのではなく、そのそばにあるデパートの地下の食品売り場で、「河合屋のリンゴ」と呼ばれているご当地グルメが目当てだったのだ。

ごく最近、偶然にネットで見て食べたかったのよねぇ、と感慨深く、彼女は僕の手を引くようにして、エレベーターホールへ向かった。はしゃぐ彼女を見るのは、悪いことではなかった。

平日とは言え、ちょうど昼食時の町の中心部は、人通りも多く、この百貨店の、それも地下の食品売り場は、人で溢れていた。僕はその光景を見て、少しうんざりする。そんな僕に彼女はお構いなしだ。

僕の不安は的中していた。彼女の目指す、河合屋のリンゴは、店舗の前に特別にそれ専用のカーゴを出して売られていた。彼女とそれほど年の変わらない店員が、定められたエプロン姿でレジを打っていた。そこにずらりと並ぶ人の列。

「並んでるね」

と僕が言うと、彼女はそうだね、とだけ言った。全く、当たり前のように、その列の最後尾に並ぶ。彼女を前にして、僕は後ろに立つ。彼女の目は、先のカーゴの方に釘付けだ。

僕はどうも、並ぶのが苦手だ。だいたい、何処へ行っても並んでいると、別の場所を選ぶ。人混みがダメという以上に、待つ、という行為がどうも性に合わないのだ。せっかち、と呼ばれるほど、動作が機敏ではないけれど、特に食に対してこだわりが全くないので、こういう食事に並んでありつく、というのがどうもダメなのだ。

もちろん、一人では絶対にしない。今は彼女がいるから、これも観光のうち、と思って僕は文句も言わずに、彼女に従っていたのだ。

「あれ?」

と彼女は声を上げた。僕の方を振り向く。

「何か不満そうな気配がする」

と僕を見上げる。僕は素直に、並ぶのがね、と独り言のように言った。

「ダメ?」

ダメじゃないけど、といったまま僕は言葉に詰まる。逆に、こうして並んでしまったら、後は彼女に従うだけで、そこら辺はなすがまま、なのだ。

「楽しみにしてたんだろ?良いよ、それにそんなに長いことかかるワケじゃないだろうし」

とは言ったが、彼女はその声の微妙な調子を感じ取ったようだ。

「並ぶのダメな人なんだね。初めて知った」

僕はハッとした。そうか、僕たちはまだ、こういう事も満足に分かり合っていなかったんだ。それもそうだ、と僕は反省する。それを自分で感じておきながら、逆にお互いの事情を披露し逢う行為に、少し消極的でいたのかな、と。

僕らの仲は、まだ始まったばかりなのだ。

だから、ちゃんとこう思う、こういうのは良いとか悪いとか、そういうことは今はちゃんと言った方がいい。そして、彼女のことも、僕はちゃんと聞く耳を持つべきなのだ。

「河合屋のリンゴっておいしいの?」

知らないよ、と彼女は笑う。でもね、とネットで見た時に、いかにそれがおいしそうだったのか、を彼女はしゃべり始めた。それは、僕たちの前の女性二人組が、肩越しに後ろを振り向くぐらい、本当に楽しそうに、熱っぽかった。

僕はふと、自分たちが見られている、ということを意識した。それは、彼女が有名人だから、というのではなく、市井で有り触れている、輝きに視線を誘われる、という程度のものだ。

それにしても、と僕は思うのだ。やっぱり、親子か、よくて愛人だよな、と。それはとりもなおさず、僕自身がこの光景を見たらどう思うか、に尽きる。どう見たって、アンバランスだ。男女のペアというのは、どことなく似通っているというか、バランスが取れているものだ。それは時間の経過がそうさせるのかも知れないが、やはり何か、必然というものを秘めた惹かれあう何かがあるはずだ。

並ぶ、という行為は、その位置にしばらく留まる、ということだ。その間に、僕らは様々な視線に晒される。たぶん、僕はそれがダメなのだ。何か自分の、人に見せてはいけない部分が、不意に現れたり、意識せずに表面に浮き出ていたり、そういうことを想像していたたまれなくなるのだ。

ひとしきりいかにその「河合屋のリンゴ」が魅力的かを喋った後で、彼女は僕の視線に気が着いたようだった。それは、彼女の隣でいるのに、彼女を意識していない。並ぶ、という行為に緊張し、どことなく上の空なのだ。

それに気付いて彼女は、聞いてるの?と訝しそうに言った。いささか自分一人で熱く喋っていた事への、羞恥が顔を見せたのかも知れない。

聞いてるよ、でもちょっとこういう所は苦手だな、というと、彼女はすまなさそうな、というよりは、つまらない、という顔を浮かべた。僕は慌ててイヤイヤそうじゃなくて、と弁解に走る。今度は僕の方が何か熱心に喋っている。

「ねぇ」

僕のしゃべりを、彼女は遮った。

「そんなに私のこと、気を遣わなくても良いのよ」

え?と僕。

「イヤならイヤっていっても、別に良いのよ」

イヤじゃないよ、と僕は即答した。僕は正直、反省していた。彼女は気を遣っているように思って、実のところ、僕は自分のことばかりを考えていたのだ。こういう時、僕はちゃんと、彼女が楽しんでいることをサポートしてあげるべきなのだ。

でも、僕はそういうのが苦手だ。

ただ、正直に、僕の表情にそれが出た。苦手なのだが、それを乗り越えて、彼女の意に添おうという、複雑な心境が。

だが、彼女はそれを見て、ふふふ、と笑い出した。可笑しい、と呟く。

「何かの雑誌の記事にあったけど、本当にこういうシチュエーションって、男の人のことがよくわかるんだよね」

しまった、と僕は思った。どうも、僕は彼女を失望させてしまったらしい。僕はその記事を読んだことはないが、こういう場合だいたいが、僕には不利だ。

「男の人って、いくつになっても変わらないんだね」

そういって、本当に可笑しそうに彼女は笑った。笑顔は嫌いじゃないが、どうも僕は分が悪い。イヤ、それは今に限ったことではないんだけど。

そうこうしているうちに、僕らの番が回ってきた。それほど長い時間が経っていたわけではない。一度僕の方を見て、僕はよく知らないから、というと、彼女はこれとこれとこれ、三種類、まんべんなく選んだ。

店員の差し出したそれを受け取る時、彼女は笑顔で会釈をした。そして歩き出すと、ほら、といって僕に袋の中を見せた。よっぽど嬉しかったのだろうか、彼女の足取りは軽かった。

    

合屋のリンゴは、デパートの屋上のベンチに座って食べた。金沢の街を見渡しながら、僕らは三種類をそれぞれ半分ずつ食べた。彼女は一口食べる度に、感想を披露した。僕には、甘かった、という感想しかないが、不味いものではなかった。元々、甘いものは嫌いではないし、だからといって、味を評価するほど美食家でもなかった。

しかし、彼女はそれがどうしてもおいしいと言うことを僕に伝えたかったらしく、手を換え品を換え、といった感じで、様々に表現を凝らして、そしておいしいね、といって笑った。

「私、食べるのが唯一の趣味、といってもイイぐらいなんだよね」

全てを平らげて、ついでに買ったテイクアウトのコーヒーを飲みながら、感慨深そうに彼女はそういった。

「もしかして、さらに昼ご飯、とか言い出すつもり?」

僕は冗談めかしてそう言うと、う〜んと考え込んで、わからない、と彼女は応えた。え?と僕が驚くと、彼女は照れもせず笑った。

「周りのみんなからも、よく食べるって言われる。おいしいから、我慢するっていうのが、どうもわからないの。確かに、後で体重とか気になるけど、その分仕事してるしね。究極、食べるの止めるか、痩せるのをあきらめるか、って言われたらきっと痩せる方をあきらめると思う」

彼女はそう言うと、クシャッと顔を崩して僕に向けて笑った。

「それが一番だよ。ただでさえイヤなことがいっぱいある世の中なんだからサ。好きなものには正直でいた方がいいよ」

本当に僕はそう思う。ただ、彼女は、別にイヤなことばっかりの毎日でもないけどね、とは反論した。

デパートの屋上は、ずいぶんと寂れていた。かつて何か遊具があったような、微妙な陰影が床には刻まれてあった。それを取り囲むように露天のような店が並んでいる。その前のベンチでは、やはり昼食をすませようとしているOLやスーツ姿の固まりがいくつかあった。

ずいぶんと蒸し暑かったが、この屋上には風が時折吹き抜けていた。それが不快感をいくらか和らげてくれている。

「さっきのことだけど」

僕はベンチの背もたれに体重を預けて、灰色の雲を見た。

「並んでいる時の事だけど」

改めて念を押すように言ってから僕は彼女をちらりと見た。特に緊張するわけでもなく、視線を町並みに向けていた。

僕は見た目のアンバランス、という話を正直にした。どう見ても、親子だよ、と最後に言った。さすがに愛人、とは言えなかった。

「そういうこと気にするんだ」

へへへ、といたずらっぽく彼女は笑った。あまり品のいい笑い方ではない。

「そういうことを気にするんだよ、俺は」

僕が返すと、面白いね、といって、彼女は急に僕の手に腕を絡めてきた。

「正直言うと、私も恋人?という感じとは、少し違うかも知れない」

真っ当なことだと思った。半ば僕の予想は間違っていなかった、とも言える。

「私、まだ小学校に入る前に、両親が離婚して、お母さんの方に着いていったの。その後再婚して、また新しいお父さんができるんだけど」

「うまくいってなかったの」

「全然、普通にお父さんだった。よく覚えてないんだけど、本当のお父さんはちょっとルーズな感じで、幼心にもこれはちょっとダメだな、という感じで、どっちかというと前のお父さんとの方がうまくいってなかったかもネ。離婚してから一度も会ってないし」

僕の腕を取って、手のひらに手のひらを重ね、ぽんぽんと弾いて玩んだ。

「だけど、お父さんは逆に厳しい所があって、すごく真面目で全然家庭を不幸にする欠片もなくて、だから躾はすごく厳しかった。手を挙げるとかって言うわけではないんだけど、でも門限とか口うるさくて。まぁ、普通のお父さんって言えば、そうなんだけど」

「逆に、今時珍しいかもよ。俺とそう、歳、変わらないだろ?」

彼女は父親の年齢を告げた。僕よりは年上だったが、同世代というには微妙なラインだった。

「本当はお父さんのことが大好きで、もっと小さい頃は甘えたかったんだよね。今になってそう思うんだけど、ちょっとファザコン的な所が私にはある。でも、それはお父さんの方が苦手だったみたい。血のつながりというか、そういうのを気にしていたのかも知れないけど、私はお父さんに抱っこされた記憶があまり無いの」

「もしかして、それが俺に、ってこと」

彼女はただ笑って、返事をしなかった。僕としては納得のいく理由のひとつだったが、それは結果的にずいぶんと、複雑な心境をもたらした。誰しも、男でも女でも、親の存在は現在の自分に深く関わってくるものだ。それが恋愛に何かの片鱗を見せることも当然ある。

だけど、それは僕に、父親的存在を求めるのか、男性的存在を求めるのか。

たぶん両方だろうが、どうも僕にはどちらとも自信がない。

「私の周りの人はね、みんなお父さんのことをパパ、って呼んでて、それにすごく憧れたんだよね」

そういってから彼女は僕の目をじっと見据えた。僕はイヤな予感がした。

「ずっと前から何て呼ぼうかな、って考えてたんだけど」

フフフ、と彼女。先生はもういいでしょ?

「パパ、でイイよね」

そう言った後、僕の表情を見て彼女は吹き出した。自分でもわかるぐらい、僕は複雑な表情をしていた。でも、内心、悪くない、とも思っていた。それが僕らには、ずいぶんとお似合いのような気がする。

昔、同い年の女の子と付き合った時に、彼女は4月生でクラスメートに歳上が少ない、という話をしていた。たまたま僕も4月生で、しかも彼女より二日ほど、前の誕生日だった。彼女は嬉々として、私より二日歳上、といってそれ以来、僕のことをお兄ちゃん、と呼ぶようになった。

そんなことを思い出しながらも、僕はパパ、と呼ばれる自分を想像してみた。それは程なく現実となる。

「パパ」

彼女はそう言うと、声を上げて朗らかに笑った。

    

れから、街を出て、兼六園に一応行った。もうこうなると、とりあえずここまで来たから見てみました、という程度で、別になんの感慨もなく、ただ、歩いて回っただけだった。お互いに庭園の木々になんの興味も見いだせず、一応彼女は景色をケータイのカメラに納め、僕はその彼女の様子をデジカメに納めた。

どんよりと曇ってはいたが、まだ雨の気配はなく、ただ、蒸し暑かった。今日も昼間は残暑が厳しそうだった。

それがなんとなく、僕の記憶をくすぐったのか、僕はここが初めてではないような感覚に襲われた。

「それって、なんだっけ?デジャ・ヴュ?」

僕がそういう感触を彼女に告げると、そう返ってきた。

「そうじゃなくて、昔確かにここに来た、はずなんだよ。二十歳の頃一緒に仕事をしていた友達が、新潟に友達がいて遊びに行くから、一緒に来ないか?って言われてのこのこ着いていったんだよ。その時に、ここに来たような・・・確かに金沢に来た記憶はあるんだけど、全然覚えてないんだよなぁ」

イヤだ、老化だ。彼女はさらっと、毒づいた。言い返せない。

「あのころは、クルマの免許もってなくて、その友達に引っ張り回されただけ。あ、金沢に友達がいて、新潟の方まで観光に行ったのかな?あぁ、全然わからなくなってきたよ」

僕が混乱をするのを見て、彼女はたいそうおかしそうに笑った。僕が言葉を重ねるごとに笑い、ついには声を出して笑ったのだった。

結局、兼六園を出ても、記憶は元には戻らなかった。そうして、僕らの金沢は終わりを告げたのだった。

  

  

  

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