の入り口の日本海は、日中とは比べものにならないほど、空気は冷たかった。冷気に僕は、思わず肩をすくめる。

海に面した新潟県親不知のパーキングエリアで、僕は今、車を降りたばかりだった。空は晴れていたが、どことなくどんよりとした空気が漂っていた。それはどこか、春の霞に近いものを思い起こさせたけど、冷気がどうしても今、という季節を忘れさせてはくれない。

僕はそういう戸惑いを、ずっと拭えずに、一晩を過ごした。

正確には昨日、東京を出たのは夜の十時少し前。そこから中央道を走り、山梨から長野自動車を経由して、松本で一般国道をひた走り日本海へ抜けた。松本市内で少し迷ったものの、ここにたどり着いたのはまだ夜明け前の四時だった。

だからまだ、数時間しか寝ていないが、なぜか目は冴えていた。運転の余韻が、まだ肉体を責め立てるほど、疲れてもいない。自分でも不思議なくらい、体に漲る力を感じていた。ただ、気が張っているだけなのかもしれないけれど。

元々、僕のホームグラウンドは、東京から遙か、四国の香川だ。物書きの端くれとして、活動している僕は必要に迫られて時々東京に出てくる。そのうちの何度か、移動に自分の車を使っている。ほぼ一日かけて、高速をひた走り、東京へ向かう。出不精で知られる僕の、唯一の外出の楽しみが、車の運転だ。

いや、車の運転というイベントでも絡めないと、仕事とはいえ、東京へ向かう飛行機でも新幹線でも、苦痛以外の何モノでもない。乗り換えがどうしても煩わしい、時々でも人の波にのまれるのに耐えられないのだ。

車の運転は、昔から好きだった。どっちかというとハンドルを他人には渡さない方だ。それも峠を攻めるとか、車高を下げてグリップのいいタイヤに履き替える、といったタイプではなく、ただひたすら走り続けるのが楽しい。

だから、車は何処にでもある大衆車で、改造などはいっさい施してない。そして、しっかりとした運転の手応えのために、僕はあえてミッション車を選んだ。

そんな僕の趣味と、ちぐはぐなスペックに一番興味を示した人は今、僕の車の助手席ですやすやと眠りこけている。地味な色のブラウスに、細身のジーンズに同じ色のミニスカートを撒いていた脚を、窮屈そうにシートの向こうに投げ出している。その上に、グレーの大きく編み込んだサマーカーディガンを掛けている。さっきから、小さな彼女の寝息に逢わせて、それがうっすらと上下していた。

松本市内で一度コンビニに寄った時には、まだ起きて僕と話をしていた。そのうち、会話の相づちが曖昧になり、気がつくと眠っていた。それからここにたどり着くまで、僕は一人ヘッドライトの明かりを見つめていた。

サービスエリアに車を止めた時に一度、彼女は起きた。

「何処?」

と聞き、僕が親不知だよ、というと「そう」、とだけ答えて、彼女はまた目を閉じた。僕は後部座席から毛布を取り出し、彼女にかけた。かけたついでにシートを倒すと、彼女は少しだけ寝言のような声を発て、静かになった。

僕もシートを倒し、そのまま目を閉じた。それから深い眠りに落ちていった。

 

を出てから伸びをして、屈伸運動のまねごとをして、体をほぐした。車の前方を日本海に向けているので、目が覚めるとすぐに海が見えた。かすんだ彼方に何艘かの漁船が見えた。どうも海をみると、じっとしてられない性格なのか、僕はすぐに車を降りてしまったが、隣の彼女はまだ眠りの中にいた。慣れない車中泊にも、彼女の睡魔はよほど彼女をしっかり抱きかかえているようだ。

僕はそのまま防波堤を乗り越える欲求をぐっとこらえて、きびすを返した。駐車スペースの後方、少し離れたところの上を高速道が走っていて、その下のスペースが土産物屋が並ぶ休憩スペースになっている。パーキングエリアではよく見かける建物だが、朝まだ早い今の時間では扉を閉じている。

代わりにずらりと並ぶ自動販売機だけが、低いうなり声を上げて生きていた。思えば、昨日の夜僕らを迎えたのは、数台のトラックと、この自動販売機だけだった。

僕はその自動販売機で缶コーヒーを二つ買った。そしてぶらぶらとその辺を散歩しながら、車に戻った。少し離れたところに、亀のコンクリート像があるけど、そこへは行かずだだっ広い駐車場をふらふらとして、戻ってきた。

シートに座り、ドアを閉じると、彼女が目を覚ました。小さく唸って、大きなあくびをした。いつの間にか毛布はドアの方へ押しやっていた。ブラウスにカーディガンの上に毛布では、昨日は少し暑かったかもしれない。ただ、今は朝の冷気が温度を下げているのが気になった。

彼女はシートに横になったまま、僕の方を見た。そして、声を出さずに口だけを動かして、おはよう、と言った。

「まだ、寝ててイイよ」

僕がいうと、一度うなずいて、目を閉じてみたが、しばらくして上半身を起こした。フロントガラス越しの風景を見て、彼女はわっ、と声を上げた。

ちょうど、海の上に日が射していた。

このパーキングエリアの背後には高速度路が走り、そのまた後ろは小高いや断崖になっている。まさしく親不知、と呼ばれたゆえんだが、そのせいで駐車スペースには日が射し込んでいない。しかし、遮るもののない海上では、日の出とともにここより先に日が射すのだ。

うっすらとした靄のようなものが、目に入る風景を幻想的に見せていた。僕が朝の早い時間に、ここにいたかったのは、今の光景を見たかったからだった。そしてこの光景を、彼女に見せたかったからに違いなかった。

波は静かで、そこを切り裂くように漁船が横切っていく。雲は所々でピンク色に染まっている。閑散としたパーキングエリアで、それはまるで僕らだけのための一枚絵のように感じられた。輪郭のはっきりとした印象的な絵画ではなく、幻想的な淡い印象。それだけに、何か僕らは夢の中に迷い込んだような浮遊感を感じる。

ただ、それは今の僕たちの間に流れる空気にも、同じ色を伴っていた。だからこそ、今目の前の光景が、少しばかりの昂揚と、同じくらいの不安と、そして、ただ見入るという感動に支配されていた。

「降りてイイ?」

彼女は目の前から視線を逸らさず、つぶやくように問うた。

「外は少し寒いよ」

意地悪に僕は言った。

「イイよ、それぐらい」

今度は僕の返事を聞かずに、彼女はドアを開けた。冷気がまた、僕を撫でた。先ほどよりは少しばかり、温度を上げているように僕には感じられた。

 

が彼女に初めて逢ったのは、もう半年ほど前になる。僕はとても大きな失敗をして、人生というものに失望をしてから、社会との接点を言葉を紡ぐことに限定してしまった。それはそこに落ち込んだ、と言うよりは元々そうだった性格が、今になってやっと偽りなく表に出てきた、と言うものだったが、なかなか社会では受け入れられなかった。

そういう思いも含めて、僕はストーリーを紡ぐ、と言う行為で何とか感情の逃げ場を保っていた。その発露として、ネットで公開する、ということは自然だった。ブログでつながった人がそれをおもしろがって、口コミで読者は広がった。

それがいつの間にか本になって表に出る、という話になり、そのうちの一つが、映画になるという。僕はいやが追うにも表舞台に上がることを強いられ、だが、自分というものを言葉に投影できた自信が、いつの間にか僕はその世界の住人になることを許容した。

そして何度目かのストーリーがまた映像化されることになり、その主役が彼女だった。

あんな猟奇的なストーリーの主役が、彼女?と僕はその話を聞いて、声を上げた。僕の担当の出版者の人間は、逆にそれをおもしろがっていた。

僕のイメージでは、彼女はアイドル、と呼ばれる一つの社会的役割を担っている人物の、ど真ん中にいる存在だった。音楽が好きで、昔からギターを弾き続けている僕でも、あまり芸能界、と呼ばれるショービジネスの世界には疎い。それでも、彼女の存在は知っていたし、彼女の存在が社会現象にさえなってもいた。

誰もが知っているアイドルグループの、彼女は中心的存在だったのだ。

そもそも、僕と彼女では、20歳からの歳の差がある。だからこそ、社会現象にでもならなければ、彼女の存在など知らないような歳なのだ。だけど、不思議と、僕のストーリーはその世代に読まれ、また特に女性の人気があった。それもまた奇妙な話だった。

いくつかのストーリーが恋愛をテーマに据えていたこともあり、そういうことの伯楽的な存在として言われることもあったし、太宰治のような、女性の心理を知り尽くした、などといわれることもあった。もっとも、僕のその自覚はなく、どちらかというと恋愛には失敗を重ねてきた方だ。

だからいつも、僕は皮肉を込めてそういう言葉に対してこう返すのだ。

「僕は前科持ちですけど、被害者は女性ですよ」

でも、僕は女性を主人公のストーリーを多く書いてきたのは事実で、誤解されるのも無理はない面もあったが、少し誇大妄想気味の評価に満足は言ってなかった。

そういう意味では、彼女が僕の紡いだ話の中心になる、というのは理解できないこともなかったが、果たして僕が込めた思いまでが通じるのだろうか、ましてやインターフェースとしての彼女に、何が託せるんだろうか、という思いがぬぐえなかった。

だから、出版記念と、映画製作発表のパーティーの席で、僕は彼女を紹介され、正直にその疑問をぶつけたのだった。

彼女は多くの僕を誤解している人々と同じように、僕を先生と呼んだ。

「必ずしも先生と私の思いが一致しているとは思えませんけど、でも、私は正直先生の原作を読んでおもしろいと思ったし、全てではないにしても共感できる部分はありました。それを私は自然に指先とか、仕草とか、表情で表すのが私の役目だと思っています」

そういって、こういう答えではご不満ですか?といたずらっぽく笑った。まだ二十歳そこそこの女性の言葉にしては、ずいぶんと大人びているな、と僕は感心した。そして、何かそういう質問をした自分が恥ずかしくなり、僕は何か突然そこで頭を下げて謝ってしまったのだった。

そういうやりとりがあったせいなのか、彼女とはその場でメールアドレスの交換をし、そして、時々彼女からメールが来るようになった。彼女は好意、というよりは、ちょっと毛色の違った歳上の先輩、というか保護者というか、やはり先生というか。そういう感覚で僕を捉えているようで、普段彼女の周りでいる人々との違いを、とても喜んでいた。

何度か実際に逢ったこともある。僕としては、そういう存在の人と友達だぜ、という何とも下世話な思惑で彼女にあった。それは全く現実感の伴わない、だからこそ、何でもできるような、そういう曖昧な時空だった。

こういうのを本当の夢、というのかな、と僕は思った。

夢の中で、僕は彼女と一夜を共にした。夢だから何でもできた。少々強引なことも、後先を考えないことも、平気でできた。

それが彼女のどういう心理の結果だったのか、僕にはわからない。もっとも、僕には彼女どころか、女性、もっと言えば他人の心の内、こころの動きなどわかるすべもない。だからこそ、ストーリーとして自分の思いのまま、人の心を操ることができるのだと思っている。そこから導かれるものは、それを読んだ人のもので、全ての表現は究極、その方程式から逃れられないと思っている。

目が覚めた時に隣に彼女がいた、という現実感でさえ、僕にはたぶん何かの間違いだろう、という気がしていた。この瞬間、この現実を、望んで望んでかなわない数多くの人を出し抜いて、自分がここにいる、そういうバイタリティーに満ちた瞬間が、全くなかったのだ。漂うように僕の隣に彼女がいたような、そんなおぼろの世界に放り込まれていたのだった。

僕は正直に、彼女にそのことを伝え、僕にできることは何だろう?と問うた。

その時の彼女は、僕が無駄に年齢を重ねたことを本当に後悔させたほど、落ち着いた大人の表情をしていた。

「私はただ、先生に興味がある」

果たして僕は逆に彼女に同じことを問われたら、同じように答えられるだろうか?それ以上に、僕はこの答えを彼女から導き出した時点で、大いなる宿題を彼女から課されたのだ。僕はそれを果たさないと、きっと今、という現実にしっぺ返しを食うはずだ。そんな風に思った。

結局、僕らはまたメールだけの間柄に戻ろうとしただが、それはどちらかというと僕の方が怖じ気づいていたのかもしれない。元々、彼女は僕などとは比べものにならないほど、忙しい人間だ。彼女は人前に出て、その時間が彼女の全てだ。僕のように隠れてひっそりと、という職業ではない。

しかし、彼女の方が頻繁に、その合間を縫った。僕が東京に出向いていると、必ず逢いたがった。怖じ気づいていても、女性から逢瀬を請われることを拒否するほど、僕はうぬぼれてはいなかった。その貴重な時間に、心躍った。

そしてそれは、いつも夜を明かした。路地裏にあるシティーホテルの裏口からつながる、ひとときの密会。そこから始まる、短いベッドルームブルース。そんな時間を重ねても、僕は彼女の真意を誤解することを恐れた。今の状況に、その幸福な時間を、まるごと信じ切ることを恐れたのだ。

そこから離れると、気が着くとまた彼女からの連絡に責任を押しつける毎日。何となく繋がっているようで、繋がっていないような時間。

もちろん、彼女の正面に立ちはだかって、僕らの関係を問いただすとかそういうことは、出来るはずなかった。そんな恥ずかしいこと、僕には無理だ。それがもし、彼女の仕掛けた大きなどっきり大作戦だったとしても、僕は敗北に打ちひしがれる、いつもの結論に胸を痛めるだけだ。

ただ、もうこれ以上、痛みに耐えられるかどうかは、わからないけど。

 

る日、彼女は珍しく、メールではなく直接僕のケータイに電話をかけてきた。僕はちょうど東京で出版社のパーティーに呼ばれ、次の本を出すのにどうしても必要ですから、と担当者にせがまれて上京していた。パーティーだけのために四国から出かけてくるのは、めんどくさい以外の何モノでもなかったが、一応それを車の旅、に変換してやってきていた。

パーティーが終わり、定宿にしているホテルの一室で、何となく原稿を書いていた。あらすじのような、とりとめのないことで、ただの時間つぶしみたいなものでもあった。この後日課にしているブログの更新を終えたら、そのまま寝ようと思っていた。

明日は少し東京観光をして、その足でどこかを軽く旅してのんびり帰ろう、なんてことを考えていた。東京へ行く時は、だいたいスケジュールが決まっていて、何日までにどこそこへ、というものに縛られる。ただ、帰り道は束縛がない。体力と財布が許す限り、どんなルートで香川に帰ろうと、それは僕の自由だった。

本当の僕の楽しみはここにある。思えば、大きな失敗をした後、贖罪と称してクルマでお遍路をした時から、そういう旅のスタイルが趣味の一つになっていた。明日のルート、目的地は、前の晩の夜に決める。そうやって飛び石のように渡りながら、香川に帰るのだ。

ぼんやりとノートパソコンのキーを打ちながら、頭は旅のことを考えていた。まだはっきりと目的地が決まらないのだが、何となく候補は浮かんでいた。

そんなときに、彼女からの電話は鳴った。

何をしているかをお互いに確認し合う、どうでもいい話から始まった会話だったが、それが初めての電話越しの会話であることの不思議に、僕らは何も疑問を挟まなかった。整然と、普通に、滞りのない会話で繋がっていた。

だけど、その会話の内容がどんな話だったのか、それが記憶にとどまることはなかった。それは、その後の方がひどく印象的だったからだ。

彼女は僕の居場所を聞いた。僕がホテルの名を告げると、その近くに芸能人御用達の、秘密の逢瀬の場所に好都合な場所を知っている、と彼女は言った。そこで、一緒にご飯を食べたい、と。

拒否する理由はなかった。食事はすでに済ませていたけど、彼女に会うと言うだけでもう一食できる器量ぐらいは持ち合わせていた。ただ、そこをネットで調べると、歩いていくには遠すぎるが、車を使うほどではないし、というより駐車に手間取りそうだった。結局地下鉄を一駅、という中途半端な距離だった。彼女がどうやって約束の店にたどり着くのかはわからないが、僕はロビーに降りて、フロントで訪ねてみたが、地下鉄という答えに間違いはなかった。

もう終電が近い時間だったが、繁華街の片隅のビルにある店は、混んでいた。なるほど、店は照明が暗く、仕切が巧妙にあつらえられていて、客同士の顔が知れることはない。そんなに広くない店で、カウンターもあるにはあるが、客の姿は見えなかった。だけど、何となくざわめいている感じだけは感じられる。

こういうところもあるんだな、と感心しながらテーブルに通され、一人待っている。たばこを辞めてから、こういう所で一人待つ、ということが苦手になった。たばこを吸い始める前も、待つ、という行為は大の苦手だった。そのころに戻ったみたいで、でも気がつくと、たばこを辞めてからこういう経験は久しぶりだな、と感づく。自分がいかに出不精か、思い知る気分だ。

しかし、ケータイをチラチラとか、大の大人が、という変な意識があって、一人きりぽつんと取り残されたような寂しさというより、場違いな感じがどうも拭えない。僕が東京になじめない大きな理由が、その場違いな感じなのだと思う。

その東京で、最先端を走る彼女は、程なく現れて、僕はいたたまれなくなる手前で何とか、踏みとどまった。元々、女性には何か、いくらどんな人でも、手をつけてはいけないような、はれ物にさわるような感触を持っている僕は、場違いな場所で、逢ってはいけない人に逢っているのではないのか、という後ろめたさに打ちのめされそうになる。

そして、それが、どうしても僕を不安にさせるのだ。

ずっと昔、STONESを見に、東京に来たことがある。その夜は、中学時代からずっと読み続け、尊敬していた作家の主催するOFF会のようなものにも出席し、まるで夢のような一夜を過ごしたにもかかわらず、翌日羽田の喫茶店で、これから香川に帰るんだ、と思ったとたんこわばっていた表情がゆるみ、どうしようもなくうれしくてたまらなくなったことがある。

それを何となく思い出した。僕の中の東京的なものは、場所でも人でもシステムでもなく、自分の自由が利くホームグラウンドとは違う場所という事実なのだ。それがある限り、僕は何処でもストレンジャーだ。

さらに言うなら、香川でもたくさん、東京的な場所はある。

そこまで考えて、僕はやっと一息つく。自分にフィードバックするルートを見つければ、僕は僕自身を見つめることで息をつくことが可能になるのだ。

彼女はそんな東京的な場所を難なく受け入れ、泳いでいる。何の躊躇もなく、今夜の夕食を頼んで僕に笑いかけた。彼女は目の前にビールのグラスがあるのに、驚きの声を上げた。

「お酒、飲めるんだ」

「別に下戸って訳じゃないよ。今まではクルマだったから、飲めなかっただけだよ。今日は電車だし」

ただ、僕は飲める状況でもなるべく、飲まないようにしていた。それは酒乱の父親のせいだ。どこかそこに逃避を見いだす以上、僕は純粋に酔うという行為を楽しめない。僕はまだ、たしなむ域に達していないのだと感じている。

だから、いつの間にかアルコールを欲しなくなった。いつでもクルマを運転できる、という自由の方が、ずっと僕には重要だったのだ。

「今回は飛行機なの?」

「イヤ、クルマで来たよ。でも、ここは中途半端な距離だから」

と、僕はクルマで動けない愚痴を言った。彼女は笑顔を浮かべたまま、その話を聞いていた。

気がつくと、僕はいつも喋っていた。特に女性を前にすると、僕はいつも喋っている。おもしろいことを言わないと、気が済まないと言うか、申し訳ないというか。性分なのだ。それが自分だと思っている。

自分がストーリーを紡ぐのも、その延長だと思う。言葉は、僕にとって唯一の武器なのだ。僕は彼女と勝負をしている。彼女は、というより女性は、僕の言葉よりずっと魅力的で、他人を惹きつけてやまない武器を持っている。男たちは常に、それを凌駕することを強いられる。僕にとってその武器が、言葉なのだ。

ただ、それが時に事実ではなかったり、事実であることに誠実でなかったりする。つまり、結局、ストーリーを紡ぐ練習を課しているようなもので、気がつくとそれが本分になってしまっている気がする時がある。

でも、幸運なことに、彼女は僕の言葉に拒否反応は示さない。薄暗い中でせっせとパスタを口に運びながら、それでも僕の言葉を聞いていて、時々うなずいたり、くすっと笑ったり、何らかの反応を見せている。

そのコトに安心している自分がいる。

彼女がこうして僕の目の前にいるということは、それは奇跡に近いと思っていて、未だに疑いを持っている。ただ、彼女はうそは言っていないのだろうと思う。彼女が言った、僕に興味がある、という言葉は彼女なりのリアルに違いない。

それを失望させないために、僕は何らかの手を考えないといけないのだが、僕にそれほど手管があるわけではない。僕は僕そのもので彼女の目の前に現れる以外に、彼女に対しての誠意を示す術を知らない。

うそは言っても、虚勢は張らない。

矛盾しているようで、それがなぜか、僕の信条に近い。嘘は嘘ですといいわけができるが、虚勢は後戻りできなくなる。そういう僕が話せることは、自然と僕の過去の話になる。僕自身が体験したことになる。

幸いにも、僕にはいくつか、他人では体験できないことを経験した過去があった。

もちろん全てを披露するには段階が必要だ。まずは当たり障りのない体験談をすることになる。その接点は、意外にも旅の話だった。

「いつ香川に帰るの?」

「明日には帰るつもりだよ」

「もう?先生っていつも、私にはスケジュールを教えてくれないんだから」

それでつきあっているの?という意味にも取れるが、僕はなぜかそういう風に取ることに躊躇し続けている。

「私ね、二週間ほど休みになったの。本当は映画のロケがあったんだけど、出演者の一人がちょっとやばくなっちゃって」

そういえば、今朝のニュースでそんなドラッグ・スキャンダルを聞いた覚えがある。新聞にも書いてあったが、正直僕はその男優の名前を呼んでも、すぐには顔を思い出せなかった。

「いい機会だからお休みもらったのよ。それで、本当は先生の所に遊びに行こうと思ってたのよ」

「俺の所って、香川に?」

彼女は屈託なく、うなずいた。

「だから電話したのよ、急に言ってもほら、いろいろとあるかも知れないからね。だったら東京にいるって言うし」

その言葉は明らかに僕に対する非難であった。正直、彼女は僕に対して、煮え切らない態度をいぶかしがっているのだろう、と予想できる。だけど、僕は彼女の行動に、素直に反応できるほど純粋ではなくなってしまっているのだ。

今時、二十歳そこそこの人間のイノセンスを信じているわけではないが、でもまだ、世間知らず、という純粋さを僕は誤解しているのかも知れない。感情がストレートに出せなくなっている自分とは、対極にあるもの、という幻想を抱いている。

ただ、それを、受け止めるには、僕のクッションは棘だらけになってしまっているのだ。

「でも、クルマで来ているのなら、一緒に連れてってもらうとか、それもアリか」

「一緒に?」

僕はいろんな意味を込めて、驚きの声を上げてしまった。それを聞いて彼女は、少し肩をすくめる。彼女にとってナチュラルなことでも、僕にとっては大胆なこと、それはまま、ある。そんなに頻繁に逢っているわけでもないが、第一今こうしてここに二人でいること自体、大胆すぎると言えばすぎる。

ただ、僕は、そういうことすら受け止められない度量の小さな男と思われたくなくて、ここにいるのだ。

変な言い方だが、僕には相応の人がいる、という気がする。彼女がそうだとは、まだ断言できない。それは形や言葉で表せるものではなく、感覚でわかるものだ。たとえ潰えるとしても、無理をした果てに潰えるのと、自然にその時を受け入れる時と、それはもうすでに、その感触で決まってしまう。

僕はそういうことがわかるような経験を、図らずも積んでしまっていた。

しかし、彼女にはその確信が持てず、どちらかというと無理をして潰える方に思えるのだが、でも、その無理も仕方がないか、とあきらめられる相手であることも納得している。そういう意味では、第三のタイプ、といえるかも知れない。ただ、それを乗り越えて潰えた経験を、僕はしていない。だから自分がどうなるのか、全く予想がつかないのだ。予想のつかないことほど、不安なことはない。

開き直れるほど、言いたくはないが、若くはない。

だからこそ、度量を見せなくてはいけない。結局、僕は彼女を連れて香川に帰ることになった。彼女がそれを望んでいるなら、それを叶えてやるのが僕の努めだ。ただし、彼女が香川に来て不都合なことがあるわけではない。

逆転している。僕はそのことが妙におかしくてたまらなかった。

 

の夜、彼女を送ってから、ホテルに帰った。遠回りがだったが、それも度量だ。そしてブログを更新する気にもならず、いささか酔いが回った頭をベッドの枕に埋めて、ぼんやりと考えた。彼女が僕を選び、僕がそのことを最大限彼女の幸福に繋がるようにするには、どうすればいいか。

答えは簡単というか、もうほぼ決まっている、というかそれ以外僕には手がなかった。

僕の思いに彼女をうまく乗せるのだ。彼女が興味があるのは僕の何か、を考えても仕方がないと思う。それは自然と自分を誇大評価することに繋がる。誤解を生み、それはいつか潰える種となる。

今は僕は、僕がやりたいことをやることなのだ。それを彼女に見せて、評価してもらう。これにつきる。ただ、幸いなことに、彼女とは一緒に体験する、という機会が与えられている。

ならば答えは簡単で、僕は今彼女と一緒に何がしたいのだろうか?

僕は先ほど彼女の目の前でよぎった企みを、もう一度思い出していた。

彼女と旅に出る。

正確に言えば、彼女を東京から連れだしたとたんに旅は始まるのだが、すんなりと香川に帰る気になれないのだ。だからといって、僕に目的があるわけではなかった。行きたい場所、として明確に今あるものがなかった。

そういうところに彼女を連れだしていいものかどうか。少なくとも、男一人の気ままな旅、というものとは違うものが待ち受けている、という想像だけはできる。

ただ、何となく、それを彼女に切り出したとして、拒否されるような気もしなかった。たとえば、ここ、という場所を持ち出して、そこに寄ってみないか、と。そこに彼女が興味を惹かれれば、旅は始まる。そして、次のことはその時に決める。そのことに関して、彼女は文句を言いそうにはないような気がするのだ。

実際にはたぶん不平が出るに違いない。でもそれを受け止めるのが、この旅の一番の醍醐味なんじゃないか、一番の楽しみなんじゃないか、という気がするのだ。

細かいことを決めないで、成り行き任せの旅。

それは僕がいつの間にか身につけた旅のスタイルだった。もちろん、クルマで移動が基本で、最悪車中泊できる、という安全装置付きだが、それがもたらすおもしろさも十分に知っている。

と、そこまで考えて僕は、いつの間にか眠りに落ちていた。

その夜僕は夢を見た。海を見ていた。いつか見たことのある海。淡く白い海。ぼんやりと、でも輪郭は所々でくっきりとしている。それが何かに繋がっている。何に繋がっているかわからないが、夢特有の意識のグラデーションが、何かの意志を注がれていた。記憶の片隅に残っていた幻影が、繋がっている。僕はその様を、ずっと立ちすくんだまま見ていた。

翌朝、行き先は定まっていた。僕は夢を頼りに、そのつながった先を目指すことにした。

 

み前の仕事を終えた彼女をピックアップして、郊外のファミレスで僕は当てのない旅をうち明けた。平日の午後九時のファミレスは、閑散としていた。ばっちり変装した彼女が拍子抜けするほどに。

おもしろそう、と彼女は言った。

予想はしていたが、あまりにあっけない旅の始まりに、今度は僕が拍子抜けした。そして、まるで自分で否定するかのように、不安材料を並べ立てた。その一つ一つに、彼女はうなずき、それでも、そういう旅をしてみたかった、という言葉に決着させた。

ファミレスでそそくさと食事を済ませた僕たちは、そのまま最初の目的地へとクルマをスタートさせた。

インターの手前のコンビニでスナック菓子とペットボトルのジュースを買い、そのまま高速に乗った。

夜の高速は退屈だった。僕は寝ててイイよ、と何度か言うが、彼女はなかなかその言葉には従わなかった。そういえば、彼女は僕の車の助手席を占めるのは何度目かだが、長距離走るのは、初めてだ。未だ、彼女を安心させるに足る運転を、見せてないのかも知れない。

しかし、さすがに日付をまたいで、一般国道に降りる頃になると、彼女は眠気に勝てなくなり、すやすやと寝息を立て始めた。

翌日目を覚ましたところに飛び込んできたのが、日本海の朝焼けだった。

 

は彼女の後を追ってクルマを降りた。砂浜とアスファルトを隔てる柵に腰を下ろした彼女に缶コーヒーを手渡す。

「すてきな風景ね」

ありきたりだが、素直な言葉だと思った。それ以上に、演ずることを生業としている彼女が見せる、彩りのない反応は僕を勇気づけた。旅の始まりは、少なくとも、失敗ではなかった。ふと、僕は口ずさんだ。

 

    長い闇を切り裂いて 目覚めたての朝のなか

    辿り着いた場所にきっと 君が待ってる

 

その歌に、何?と彼女は問う。後でCDかけてあげるよ、と僕。そういえば、ここに来るまで、山崎まさよしのパワープレイだった。彼のアルバムをかけながらデートをすると、必ずヤレる、という奇妙なジンクスがある。だからかけ続けていたわけではないのだけど、そういえばぼんやりと、僕は彼女と、そういうことをする気が小さくなっていることに気がついた。

昔から旅をするのはいつも女性と一緒で、男同士の旅なんて、水曜どうでしょうでもあるまいし、と受け付けなかった。彼らの旅ほどに、がっちりとスクラムを組める同性の友人に恵まれなかったということもあるが、旅はいつも女性と共にするのが、僕の中のセオリーになっていた。

そうでなければ、独り旅。でも実は、それが一番自分に合っていた。他人に煩わせられることもなく、気ままに行く先を決める旅。そして行く先々で、誰かに会う旅、もしくは誰かに会うことを何となく望む旅、だ。

それはそのまま、半ば人間嫌いとも言える、僕の性格を如実に表していた。何か人と人との距離の中にある、曖昧なルールを僕はつかみきれない。たとえば、人はそれを必死で学びながら、平穏を得ようとする。なぜなら、人生の大半は人間関係の中に埋もれているからだ。

ともすれば人生訓の大半を占めるその作業を、僕は半ばで降りてしまった。できればそういうことに関わりたくない、という希望を、実現させてしまったのだ。僕は人が願ってやまない夢を、叶えてしまったのかも知れない。

ただ、当然、何事にもリスクはある。リスクのない夢や希望など、この世の中には存在しない。

それを知っているから、僕は何か言葉を連ねて、遠い場所から動かないことを選択したのだ。誰もが親しい人と疎遠な人の距離を測り、その目盛りによって器量のダイヤルを調節するのを、僕は全部部外者として、距離を置いたのだ。

それが唯一の、居心地のいい場所だったのだ。

その延長線上に、独り旅がある、というのは矛盾しているかも知れない。自分でも、そう思う。どこかで自分が、そうはいっても人肌、というモノを求めていることを、ぼんやりと自覚はしている。でも、その向こうに、とてもうんざりする闇があることを、必要以上に意識してしまっているのだ。

だから、僕が本当に求めているのは、許されることなのかも知れない。

ただ、許されることには、許すことが必要不可欠だが、それがどうしても、僕にはできそうもなかった。

彼女は、柵を跳び越えて砂浜に降り、少し歩いたりしながら、ずっと海の方を見ていた。早朝の天気は、どうやら少し曇りがちらしい。海の色が、陽が高くなるにつれ、鈍色に沈んでいる。でも、僕の印象にある日本海というモノは、いつの季節でもそうだった。あいにく雪空はお目にかかったことないのだけど、タイヤを替えずにクルマを運転できる季節には、日本海が健やかだった印象はない。

ほとんど口を付けていないコーヒーの缶を、僕は手にぶらぶらさせながら、彼女のそばを歩いた。彼女は砂浜、僕はアスファルトの上。そのうち、柵が切れ、砂浜への入り口が開けている。そこで僕は彼女と並んで、波打ち際まで歩いた。

日の差す方は明るい。太陽は見えなかったが、雲が輝いている。波は穏やかだが、少し風がある。彼女が少し肩をすくめる。波の音が、繰り返し繰り返し、空気を振るわせている。雷とか、風の音とか、なぜに自然が奏でる音というのは、こう直接体に響くのだろう。他の音が、たとえば向こうを走るトラックの走行音が聞こえないはずはないのに、まるで波の音であたりが埋め尽くされているような錯覚さえ感じる。

その中で、彼女の存在感だけを、僕は認識していた。

まるで現代を生きている僕らは、自然から取り残されたような日常を送っているが、こうしてその隙間に立ち止まると、やはり生き物であることを自覚する。生き物は同じ生き物を、敏感に嗅ぎ分ける。

もしかすると、僕が本当は誰かの存在を求めているのは、ただ、本能がそうさせるだけなのかも知れない。

肩をすくめた彼女は、カーディガンの前を両手で閉じて、その場にうずくまった。耳に被さるぐらいの、今時珍しい黒髪が、わずかに風に揺れている。僕は、彼女のそばを一歩分だけ前に通り過ぎ、足下にある手頃な小石を拾って、海に向かって投げた。

ぽん、ぽん、と二回跳ねた。

後ろで彼女が小さくはしゃぐ声が聞こえた。

「子供だね」

と、二十も年下の彼女に言われる。言われるのを覚悟して、でもそれを当然のように、僕はもう一つ小石を投げた。

「ずっと前に、初めてここに来たあと、ずっと名古屋を下って紀伊半島を回ったんだ。その時熊野詣でって、その辺りの山の中の道の駅で一泊したんだよ。そこで朝目が覚めると、すぐそばの川で子供が遊んでいてね、一緒になってこうやって小石を投げていたら、その子供たちに同じこと言われたよ」

ふ〜んと、彼女は小さく言って、しばらく黙ったあと、なにそれっ、と声を上げた。

「私はその子供と一緒ってこと?」

笑いながら、僕のささやかな逆襲を、彼女は受け止めた。

「ねぇ、その時はなぜ、ここに来たの?」

彼女は立ち上がって、僕の隣に立った。今度は彼女も、足下の小石を物色している。僕が投げた小石の向こうを、東へ向けて漁船が波しぶきをたてて走っていく。

「その時は富士山が見たくて、伊豆とか静岡市内をぐるぐる、一週間ぐらい粘ったんだけど、見られなくて。ずっと太平洋ばかり見ていたから何となく、日本海が見たくなったんだよ」

言い終わらないうちに、彼女はずいぶんときれいなサイドスローで小石を投げた。小石は一度波の上でホップして、そのまま切り裂くように跳ねていく。波紋は瞬く間に波が消していったが、ずいぶんと向こうまで跳ねて見えなくなった。

僕はあきらめて、缶コーヒーの口を付けた。彼女との運動神経の差を指摘されたら、片手に持った缶コーヒーのせいにしようと思った。

しかし、今度は彼女の方が夢中になり始めていた。僕はかまわず、言葉を続けた。

「あのときは、きれいな富士山の姿が見られない代わりに、五合目まで登って、そこから山梨を抜けて、ここまで来たんだ。その時もここについたのは深夜で、半分は同じルートを通ってきたんだよ、松本辺りから」

びゅんっ、と彼女の腕がしなる音がしたような気がした。

「君は寝てたから覚えてないだろうけど」

僕は言葉をこぼしてから、彼女の投げた小石の行く先を追った。

「よし、十回」

彼女はそういって、独り満足そうに笑った。僕は一人で、肩をすくめた。

 

れから少し砂浜を歩いて、今度はずいぶんとクルマとは離れた場所から駐車場の敷地に戻った。そこにはレストランらしき建物があって、そのすぐそばに大きな亀の像があった。何か謂われがあるのだろうけど、僕は未だに知らないし、今回もそれを調べることはしなかった。

彼女もそれには気を止めずに、僕のそばを歩いた。何となくの、曖昧な距離かが僕と彼女の間にあった。もちろん手をつなぐわけでなく、肩を寄せ合うわけでもなく、でも、お互いが意識できる距離を保って、僕らは歩いていた。

彼女の脚を包む細身のジーンズは、彼女のスタイルの良さをきれいにトレースしていた。だけど、彼女が普段見せる姿とは明らかにシックだ。このまま同い年の娘たちに囲まれたら、きっと紛れてしまうだろう。彼女があの、という定冠詞がつくショービジネスのまっただ中にいる存在だとは、誰も気がつかないかも知れない。

そういう視点からすると、僕と彼女の関係は、周囲からどう見えるんだろう。

たぶん普通に親子とか、よくて年の離れた兄弟だよな、と僕は思う。別に僕は自分の容姿にコンプレックスは持っていないし、年相応に老けたと思っている。

それは40歳を向かえたと同時にやってきた。それまでいくら食べても太らなかった体質が急激に変化した。頭髪が後退したのは、ずっと以前からで、僕は早いうちから坊主にしていた。その相乗効果で、僕は恰幅のイイちょっと怖い人、のような風貌になってしまった。

そうすると、僕らの間に恋愛感情があるのも、まぁ、レギュラーではないにしろ、当然に受け入れられるのかな、などとも考えてみる。愛人とか、そういう形容詞が彼女についてしまうのは申し訳がないけど。

それよりも何よりも、僕がもし、僕らを見たら、ということを考えてしまう。

おそらく僕は、目を覆いたくなるに違いない。僕と彼女が並んだ姿に、僕は自分の美的感覚との違和感を感じてしまうのだ。そういうことを、他人に対して感じるのは僕は嫌いだが、自分が自分に対して、そういう醜態を感じるのは当然だと思う。

彼女のそばに、僕のような者がいていいんだろうか?

それは他のことと同じように、許されている感覚が希薄なのだ。

だが、事実彼女は僕のそばにいて、僕にある程度の先導を委ねている。それはとりもなおさず、許されている証拠なのだけど、僕はその先を考えてしまうのだ。

責任、というのかも知れない。

僕は彼女を旅に連れだした。それが彼女にとってどういう感情を残すのかは、僕にはわからないし、そのことに不安を持っているのではない。もっと先の、見えない未来の予感だ。僕の意識が、彼女の感情を通り過ぎる瞬間だ。

それは、本気で僕が、彼女の未来に責任を持とうと、勘違いしてしまいそうな予感なのだ。

僕はずっと、その資格はない、とそれは別に彼女に限らず、もっと信念のようなモノに似た感覚で持ち続けていた。

僕は僕にできることを、当たり前の感覚で受け止めているが、それが他人の何かを左右するほどには、自信を持ち得ていないのだ。それを評価してくれる人もいるし、望んでくれる人もいることは承知している。

だけど、それは全て、他人の許しを請う行為なのだ。言い換えれば、他人に責任転嫁する、姑息な手段なのだ。

それを彼女に委ねてしまっていいのだろうか、と僕は思うのだ。

その思いと、現実に僕の隣で彼女がいる、という狭間で、僕はどうも落ち着かなかった。何かに振り向けたいのだけど、それがどうもうまくいかないのだ。

少なくとも、僕が許されていると確証を持ち得るには、未だ時間が足りなかった。

人生というモノを、旅に喩える人は多い。だが、旅とは終わったあとで、思うモノなのだ。その最中に、驚きや喜びはあっても、それを噛みしめるのはいつも旅の後なのだ。そういう意味で、旅を続けている限り、僕らは生きている最中であるという唯一の認識の元に、ただひたすら先を急ぐだけなのだ。

そうするとやはり、僕は旅の果てに、彼女に許されるのだろうか?

こんなにも不安な旅路は、そうないモノだな、と僕は苦笑しながら、気が着くと亀の像の周囲をグルグルと二周ほどしてしまった。

「これからの予定は?」

亀の頭を撫でながら、彼女は僕に訊いた。この亀を見せるために来たんじゃないでしょ?という気配を感じた。実は、そうなんだよ、といって引き返す手もあるかな、とふと思った。

「このまま日本海を西へ走って、とりあえず鳥取砂丘、かな」

すぐには地理的なこととか、いわゆるクルマに揺られて砂丘を見に行く、という実感に乏しい彼女は、鳥取砂丘、と二度呟いた。僕はクルマに帰って地図を見せたら、ずいぶんと驚くかも知れないな、と思いながら、彼女の横顔を見ていた。

旅はまだ、始まったばかりなんだよな、と半ば奮い立たせるように、僕は思った。

 

女がトイレに行っている間に、僕はクルマのエンジンをかけ、CDをさっきの歌に換え、一応地図を眺めた。全国道路地図が後部座席に転がっている。ちなみに僕の車にカーナビは着いていない。僕の助手席に乗った女の子は、皆そのことにまず驚く。

「道に迷うのも、旅の醍醐味なんだよ」

と首都圏の複雑な道を右往左往しながら僕はいつも言う。最近になって、ようやく決まり切った道は覚えたが、しかしまだまだ、自分の庭とは思えない。事故を起こさないのが不思議なくらいだ。

他にも後部座席には、毛布とか、枕がわりのクッションとか、洗濯物を干すハンガーや洗濯ばさみが乱雑に放り込まれている。クルマの独り旅を繰り返しているうちに、必要なアイテムを、必要だと思った場所で集めていた。冬に車中泊することはないが、スノータイヤと寝袋がそろえば、可能かも知れないと思っても、そこまでは踏み切れない。

結局、国内なら、クルマと着替えと財布があれば、だいたい何処でも行けるんだ、という結論に落ち着くのだ。

でも、とその時に気づいた。誰かと一緒の、長旅なんて、どれくらいぶりだろうか?と。

こういう生活になってしまってから、初めてかも知れない。その前は、というと、やや僕の心には黒雲が覆う。その事実や、その光景を思い出すことを、僕は封印させられている。何一つ許されていない。思えば、それを上書きするような、旅という思い出の引き出しに、古い衣装の替わりに、現在の体型に合わせた服を詰め込むような作業が、今の旅なのかも知れない。

彼女はその新しい体型のアイコンになるんだろうか?

その彼女は、帰ってくるとシートに収まるなり、カーオーディオのグリルを指さし、何これ、といった。

「らしくない、曲だね。子供向け?」

君に会わせてね、と冗談口をたたこうとして、僕は口をつぐんだ。やっと射し込んできた朝日が、彼女のそこだけふくよかな頬を照らす、その輪郭に、ハッとさせられたのだ。

それは誰もが持っているようで、どこかに隠れていたりする類の、女性をひらめかせる輝きをうっすらと浮かべていた。彼女は幼い顔立ちで知られ、事実僕よりも二十は若くて、でも、本質に女性の気高さとかしなやかさを秘めている。少し早く、大人の世界に踏み出したせいかもしれないが、彼女はそれをすでに、漂わせることを無意識に備えていた。

僕は気を取り直して、サイドブレーキの横に挟んであるジャケットを取り出した。そこには、ローカルテレビ局のキャラクターが大きく描かれていた。何これ、といって彼女は声を立てて笑った。

「人気あるんだよ、子供にも大人にも」

芯のある女性ボーカルが優しくメロディーを奏でる。キャラクターモノというものは、だいたいある色に彩られている。それが原色に近いほど、子供に人気がでる。ただ、あまりにありきたりではすぐに飽きられる。その原色に微妙な陰りが差すと、その向こうに何かが見える気がする。知らず知らずのうちに、それは大人も子供も捉えるのだ。そして、なぜか、それがリアルに近い感情を抱いて、親近感を抱くのだ。

その絶妙な感触を、僕は感嘆に近い思いで好んでいた。

「らしくないね」

彼女はもう一度、その言葉を繰り返した。僕は今の生活の傍らで、趣味として音楽を作ったり演奏したりしている。僕自身の意識としては、音楽の方がずっとずっと長いつきあいで、言葉を並べることは全く素質がないと思っている。モンキー・ビジネスもいいとこだ。

それが今、逆転しているような気がするので、何か自分の足場にどうしても安心することができない。自信のないモノで、世の中を渡っていくほど、心許ないモノはない。でも、事実音楽で飯は食えない、という事実はずっと身にしみて受け入れていて、それ以外が飯の種なのだ。

やってきた音楽はROCKで、今でもROCKを聞き続けている。特に、紆余曲折あって、今の自分の土台を気づいたのは、STONESだ。彼らに出会ったのは、運命であり、僕は彼らに出会うべく、音楽にぶら下がり続けてきたのだ。

世の中には、ROCKの先輩も星の数ほどいるが、STONESファンの先輩も山ほどいる。その片隅に座らせてもらっているコトが、僕を知っている人にはキーワードの一つになっている。

同様に、どうも僕がブログで発言する言葉や、紹介する音楽はどこかペシミスティックだったり、世界を斜めに切り裂こうとして、そのままかみ砕いて吐き捨ててしまうようなイメージがつきまとっているようで、時々は、そのSTONESの熱狂的なファンに怒られたりする。

そういうところの上っ面を、彼女も知っているようで、逆にクルマの中でSTONES以外の音が鳴っていることが、珍しいと感じているのかも知れない。ただ、僕がクルマの中で聴くのは、自分の作った歌が一番多いんだけど。

メロディーは静けさに落ち、優しい声が歌う。

嬉しくて泣いている 悲しくて笑ってる

迷いや戸惑いもいつか 道を照らす

僕は小さくそのメロディーをなぞる。決して上手ではないので、ささやかになぞる。彼女は顔を上げ、こちらを見つめる。

なぜか僕は、クルマのダッシュボード、カーステレオの方を指さした。

ROCKは何でも受け入れるんだよ」

「だから、これもROCK?」

「いろんなモノに惑わされてはいけないんだよ。絶えずどん欲に先に進もうという意志がある限り、どんな音楽もどんな表現もそれはROCKなんだよ」

君が時々テレビで歌っている歌とかもね、とはいわずに置いた。わかったような、わからないような、そういう感じで彼女は僕を見つめていた。しかし、決してそれは、拒否の眼差しではなかった。

だけど、その真意を、僕は未だ計れない。

今度こそ君を乗せて 坂を下る

という一節で、曲は終わった。彼女はカーステレオに細い指を伸ばした。もう一度最初から。

ROCKは何でも受け入れる、と自分で口走っておきながら、この自分の不安定さは、詐欺師の如くだな、と自嘲気味に僕はため息をついた。僕はROCKに逃げ込むことをずっと拒否するように、生きてきた。だが、そういう側面があって、誰もが毎日をサヴァイヴしているのも事実だ。

でも、それは僕にはまやかしに見えるのだ。もっとちゃんとむき出しの意志をにらみつけるべきだ、と。

そういう生き方を望んできたけど、気が着くとそれは疲弊を強いた。何かに寄り添うことで、何かをつなぎ止めることも、あってもいいのかも知れないと、やっと最近になって思う。

そのことをもっと早く知っていれば、僕はいくつかの失敗を避けることができたのに、その失敗のせいで、僕はかなり人生に赤点を重ね続けている。

そういう僕が、と堂々巡りだ。考えても仕方がないんだけど。

そろそろ行くよ、といって、僕は膝に置いていた地図帳を彼女に手渡し、クラッチを踏んだ。バックギヤに入れ、ゆっくりとアクセルを踏み込む。

後方確認をする時に、同じように後ろを振り向いた彼女と目があった。彼女は少し恥ずかしそうに微笑み、僕も口元をゆるめた。

  

   

   

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