今では、路上で歌う曲のほとんどは、二人で作ったオリジナルになった。粗製濫造、出来たら歌う。別に客の反応とか、詩に込める熱い想いに突き動かされて、とか関係なく、出来たモノを歌う。歌いながら微調整して、なんとなく固まったら、次、という感じ。

その程度なら、別に自転車のサドル相手でも別にかまわないのだけど、やはり立ち止まってこちらを向いて、一号の唄に耳を傾けている姿を見るのは、イヤではない。ただ、そこに至る何か、そこに惹き付けようとする力みたいなモノを、作為的でないようにしたいだけだ。僕はどうしても、そこに至る過程にドラマのようなわざとらしい空気がわき上がってくると、途端に白けてしまう質なのだ。

路上で、ってそういうモノだろ?と一号に言うと、やはりそつなく、そうだね、と一号は応える。ピュアに歌っていければいいよ、と優しい眼をして一号は続ける。

にもかかわらず、ある日の事、珍しく一号がこれ歌いたいんだよね、と言って僕の前にCDと一枚の紙切れを差し出した。やはり歌った後のこのファミレスのテーブルで、ドリンク・バーを注文した直後だった。

CDはその場では聴けないから、紙切れの方を僕は手に取った。そこには一連の歌詞と、桜庭ななみの画像がプリントされていた。一号がパソコンで清書する歌詞カードには、必ずネットで拾ったアイドルとか女優の画像が添えられていた。一号曰く、その画像の女の子に語りかけるように歌うのがコツ、なのだそうだ。そのうちオリジナルにはタイトルが付かなくなって、その画像のお嬢さんの名前で話が通るようになった。高橋愛の次に、コジハルで、が最近の一番盛り上がる終盤の定番になっている。

そして、ななみ、とそれからは通称で呼ばれるその曲は、ザ・ピロウズのカバーだった。「スケアクロウ」という曲で、この間アニメのエンディングで流れていたんだよ、久しぶりに歌いたくなった曲なんだよね、と一号は言った。

長く一緒に住んでいるうちに、一号は居候の肩身の狭さみたいなモノも一応あったのか、若干気の強い妹のせいもあったけれど、仕事も別々の所を探したし、時間のずれが生じてやがて食事も別々になり、それで何となくべったりという感じではなくなったのだけど、普段からとりとめもなくする会話はやっぱり音楽の話で、こういうの歌いたいねとか、そういう会話は繰り返されていた。でも、だいたいが僕の方が選曲とか、曲順とかはイニシアチブを取っていて、カバーでも僕の方が提案する事が多い。そもそも、一号がそういう音楽的な意欲、というモノを提案してくるのは珍しく、僕としては意外だった。

そういう貴重なやる気は、なるべく尊重した方がイイと思い、それから一週間、渡されたCDと格闘して、コピーした。いつもの路上ライブの前日にいつもリハーサルをするのだけど、その日になって楽譜があった、と一号が持ってきた。格闘の痕を嘆くより、実際にはずいぶんと複雑なコードを鳴らしていて、僕はその事に必死になった。

一週間延ばそうよ、と僕が言うと、一号はいつもみたいにテキトーでイイから、と翌日やる事に拘った。その時点で胡散臭さは感じていたけど、それよりもその頑なさに折れて、一晩かけてコピーし直す苦労に涙が出そうだった。

結局、何とかお披露目、となった。中盤に、たまにカバーを、と一号が言って、僕はイントロを振り下ろした。

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