は風に揺れるカーテンをじっと見つめていた。昼間はすっかり暑い日差しが照るようになったが、やっぱり夜明け前のこの時間は、少し肌寒い。でも、閉めたら息苦しくなるんで、開け放した窓を、閉めようとは思わない。

そこから吹き込んでくる風に、カーテンは膨らんだり、小さくなったりを繰り返している。

高校三年の秋に、もうお腹いっぱい、と学校を辞めてから、物置になっていた俺の部屋に、俺は舞い戻っていた。窓際にあるベッドはその頃のままで、今では少し狭い。

そこに横たわると、天井が汚れているのが目立つ。それが昔は人の顔に見えたりして、夜中にトイレに行くのに苦労がいったモノだが、そんな無垢な時代は、もうすっかり記憶の彼方だ。

俺はどちらかというと、記憶力の乏しい方で。俺が早々とギターの上達に見切りを付けたのは、あの頃流行っていた長々と弾き続けるギターソロが、覚えられなかったからだ。

それよりも、俺自身の歴史っていうか、転がり落ち続ける人生っていうか、新たな時があまりにも嵐が酷かったり、疾風怒濤の毎日で、アッと言う間に過去ってヤツが色褪せてくるからだ。

覚えていようとしても、今、に集中している方が、ずっと楽しいし、ずっとシリアスなのだ。

あれから二年の時が経っていた。

あの時って、そう、桜子を殴ってから。

あぁ、それもそうだな。その前にバンドが解散したんだっけ?それが確定してから、たった30分ぐらいしか経っていないのに、俺の過去は、桜子の方が大きな事件で染まっている。

こうやって、俺の過去はドンドン塗り替えられていくのだ。

結局、あの日、あの時、あの場所で、俺はバンドと桜子と、そして帰る場所さえ失った。

暴行が、アッと言う間に傷害に格上げされ、あわや殺人未遂の手前で踏みとどまり、その後の二年間が決まった。

俺は桜子を殴ってから、きびすを返して夜の街へと紛れた。逃げたつもりはなかったが、今では逃げたことになっている。

桜子は鼻血を出しながら救急車を呼び、一緒にパトカーも引き連れてきた。

アパートは騒然となり、ケーサツは俺を捜しにかかった。

程なく俺は、コンビニで買ったビールを、そのコンビニの裏手の闇に紛れて飲んでいるところを検挙。雨の降りしきる、寒い夜だったぜ。

したたかに酔っていた俺は、その後桜子がどうなったかを、初手錠だぜ、と浮かれているのを怒鳴りつけられながら聞かされた。

陥没とか、骨折とか、鼻が曲がったとか、傷が残るとか、詳しいことは覚えていない。

それに返して、俺はこう答えた。

「あぁ、あいつはずっと整形したいっていってたから、これで大手を振って出来るじゃないか」

それがその後の二年の行く末を決めたといっても過言ではなかった。

音楽もなく、仕事もなく、話す相手もいないわけではないが、選べるような相手ではなく。見る人全部犯罪者で、することみんな初めてのことばかり。

そういう意味ではエキサイティングな二年間だったぜ。

人の罪の重さって、誰が決めるって別に神様が決めるんじゃない。少なくとも、罪を償うってコトに、終わりはない。そういってたらこの国のGNPは下がりっぱなしで未来がない。だから、まぁ、この辺で折り合いを付けて、という制度があって、それによって、一応罪が償われるという言い訳が立つ。

結局分厚い教科書をたくさん読んだ人間が決める。

人間が決めることだから、その時の感情が上手く説明出来ないとか、こういう時どういう言葉遣いをすればいいのかなんて、初めてその場で逢った人間に器用なことが出来るわけでもない。

だから、証拠とか、診断書とか、謝罪文とか、そういう言葉が並ぶ紙で判断する。

弁護士は、俺に、といっても囚われの身の俺が動けるわけではないから、代わりに動くことの出来る両親を使って、相手方に謝罪をしろ、と迫った。オロオロするばかりの両親も、捕らわれ生活に慣れることに精一杯の俺も、そういうモンかと思って、言われるがままに見舞金を包んで持っていった。

桜子は入院していたし、そのまた厳格な両親は頑なにそれを受け取らなかった。

謝罪している、というポーズだけでは実は謝罪にはならないんだな。つまりはどれだけお金を使ったか、それで計られるモノなんだって、初めて知った。

向こうが受け取らない、ということは一銭も使っていない、って事になって、俺は反省も謝罪もしていない、する気がない、ダメダメ人間だ、という風に決められた。

別にそれはかまわない。第一、俺は反省っていうよりは、開き直っていた。謝罪というよりは、自分のことの方が大事だった。

だって、起こったことは起こったことで、今更それは間違いでした、とも言えないし、それよりは直ぐに明日のことを心配した方がイイ。

やったことは、悪いことだって、誰にだって分かり切ったことで、それに呼応するのはやっぱり罪に対する罰だろ?

軽くしてもらおうとも思ってなかったし、軽くなるとも思ってなかった。

それよりは、その罰ってヤツが、やっぱりお金で判断されるんだって、そのことの方が驚愕だった。

取り調べに当たった刑事は、何度も顔を合わすウチには冗談口も叩けるようになって、まぁ、雑談なんかもわりと自由で。俺どうなるのかなぁ、って。そしたら、初犯だし、執行猶予で決まりじゃないか、とね。

それは何処へ行っても、誰に聞いても、初犯だし、で、同じ答。

そう思わなかったのは、えらそうな服を着た裁判官だけで、俺はしっかり実刑を喰らった。

さすが嘘は吐けないね。反省なんてしてないし、桜子のことや両親のことなんて何も考えちゃイネェ。俺は俺自身のことしか考えていないんだから、それはやっぱり御上は御見通しな様で。

俺はちゃんと自分のしたことをちゃんと考えていた。

俺はずっと自分を嫌悪することで、自分を精錬することに命をかけてきた。つもり。

でも、最後には、やっぱり暴力って、男だから女だから、と声高に叫ぶ時代じゃないが、女の子を泣かしちゃいけないよ。殴っちゃいけないよ。暴力って、それはオメェ、ひいては戦争を肯定したり人殺しを肯定することになるんだぜ。

そういう自分の中で信念のように、清らかに保ち続けていたモノを、自分の手で汚した、ということを俺は恥じていた。それはどうひっくりこけても、どう自分に嘘を吐いても、拭えないモノだった。

そういうモノに自分がどっぷり嵌ったことに、俺は自責の念が強かった。もう他人に偉そうなことは言えねぇな、人前で唄なんか歌えねぇな、お嬢さんに声なんてかけられねぇな。

俺は俺自身で、俺自身を壊した。

それは望んでいたことでもあったし、事実、俺は全く新しい肩書きを手に入れた。

だからといって人様に顔向け出来るのか?世間の中を渡っていくことが出来るのか?

その結論は、すべて、自分の中の恥、という感覚が否定した。

俺が思っていた破滅の美学?希望の所在?クソ食らえ、だった。そういうモノ全てが、自分を辱めるところにしか帰結しない。それを知らなかったのは、俺の貧粗な想像力のなせる技でしかなかったのだ。

俺は桜子に対して申し訳ない、とは思うが、だからといって謝っても仕方がない、と思う。

これから俺は、俺自身と戦っていかないといけないのだ。それは自分の中にある罪の意識と付き合っていかないといけない、ということだ。

そしてそれは、忘れられない、ということだ。

いつまでも苦しみ続ける、ということだ。

そこに至る過程とか、事情とか、いろんなコトを人は分析したり、裁判で朗々と述べたり、様々に言った。でも、そんなことはクダラない。他人が俺を責めるのもクダラないし、他人が俺を擁護してくれるのもどうかしている。

俺は俺の中にある、全ての根っこを見つめているのだから。

ぽっかりと大きな穴が、俺の足下に口を開いている。

俺は思ったんだ。

コイツを受け入れるには時間がかかるし、それは途方もない労力を必要とする。

そういうバイタリティが、俺には残っているのか?どうもそんな気はしない。ならばいっそのこと。

そういっても、時間は怒濤のように過ぎていく。所変われば生活も変わる。それに慣れるのも一苦労だ。

そんなことをしているウチに、二年が過ぎた。

俺はまだ、ココで生きている。

 

に揺れている闇が明ける頃、俺は旅に出ることにした。そう思い立って、自分が囚われの身から完全に自由になる時を待ち続けていた。

刑期の三分の二を過ぎれば、初犯のモノには仮出所、という特典が与えられる。仮出所したところで、刑期が終わるわけではない。家に帰ることが出来ても、それはあくまでも、仮、でしかない。

決められた時間に、パッとしない初老の男の家に出向いて、今何をしている?これからどうするつもりだ?なんて事を根ほり葉ほり問いただされ、またゴキゲンを損なわないように、嘘八百並べないといけないのだ。

それがつい一週間程前に、ようやく終わった。

俺は自由になったのだ。

といって、俺は相変わらずだった。

あんな騒動を起こしてしまったし、誰も住む人のいない場所に二年も家賃を払うのはばかげている。だから俺だけのルールで存在していたあの部屋は、もう無い。今更、戻ろうとも思わない。

かつて、俺だけの空間だったはずのこの部屋も、今ではなんだか居心地が悪い。何たって、階下にはあのオヤジがいびきをかいて寝ているのだ。歳をとって、長男が無法者になってしまって、状況はますます酷くなっていた。

居心地が悪いのは、自由を制限されているからだけではなかった。

そもそも、自由な生活って、この世の中にあるのか?

俺は囚われの身になっても、最初のウチは戸惑って、そういうのを人一倍煩わしいと感じる俺は、イヤだなと終始思い続けるのだが、それでも自由が無くなる、ということに対してそう違和感は感じなかった。

煩わしさは慣れてしまえば、消えてしまう。それはまるで、新しい仕事場に移って、人にも作業にも慣れなくて戸惑っているのと同じコト。そのうち、自分からスイスイとこなせるようになるモノだ。

一応罰を受けて、八畳一間に十人、同じようなヤツが詰め込まれるのだが、いつしかそこも自分の心地よい場所になる。

塀の外の生活と、何処か違いがあるのだろうか?

外の世界でも他人に気を遣わないといけないのは変わらない。トラブルを未然に防ごうと苦心するのも変わらない。好きな時に音楽が聴けないとか、ギターを弾けないとか、唄が歌えないとか、そういうことが、例えば誰しもが感じる不自由なんだろうか?

そこは自由がないのではない。最低限の自由があるだけなのだ。

結局、それは、望むと望まざるとに関わらず、普通の生活の方にちょっと余分に自由があるだけなのだ。

バンドを辞めたことで、音楽っていうモノとも、俺は一旦距離を置いたようなモノだった。だから、別にそういう欲望が押さえきれない、ということもなかった。

逆に、本が好きなだけ読める、というのが楽しくて仕方がなかった。

俺は本を読むのが嫌いではない。でも、気が付けば、随分と長いこと、長編小説なんて読んでいなかった。仕事やバンドがそれを妨げていた。代わりに得るモノがあったとしても、本を読む、という楽しみに対してはずっと渇望していた。

それが、とにかく時間だけはあるのだ。その時間を本を読むことに割けるのだ。

何処に行っても楽しみが見つけられるモノだ。そういうおもしろがることを、見出す能力があることを知ったのは、新鮮な驚きだった。

俺が一番おもしろがったのは、宗教だった。週に一度、俺たちは好きな本を三冊、借りることが出来た。それ以外にも、差し入れとか、自分のお金で本を買うとかして、とにかく、読書ということに余り制約はなかった。だから、俺は久しぶりに、死ぬ程エロ本っていうモノも読んだんだけど。

そこに置いてある本とか、全てはまぁ、学校の図書館程度の品揃えはあって、そして俺が興味があったのは、それで満たされた。

有名な作家の小説とかはだいたい読み尽くして、古典でも読んでみようかと思ったところに、宗教の本があった。

俺と同室の者は、入れ替わり立ち替わりで、常に八畳の部屋に十人がいた。一日中ずっと一緒なんだから、中には話の合うヤツもいる。というか、何故だか俺はものすごく、そこに居心地の良さを感じていた。冗談口も、真面目な話も、それほど違和感なく出来たから、というのが一番大きな要因だったと思う。

だって、みんな同じような境遇を経て辿り着いた部屋なのだ。忸怩たる思いも、復讐心も、反省の心も、みんな似たようなモノだったから、それだけで俺たちは簡単に共同体になれたのだ。中には跳ねっ返りもいたけど。

その内の何人かと、半ば冗談で漫画でわかる宗教、なんていうシリーズがあって、それをおもしろがって借りていた。

半ば冗談だったけど、それでも今まで無縁だと思っていた世界に触れることは、ある意味面白い体験だった。

そこで、まぁ、いろいろ読むウチに、俺は真言宗と出逢った。

まぁ、今考えれば、悪人でも成仏できますよ、ってなもんで浄土真宗に行き着くのが、救いのルールなんだろうけど、俺にはもっと、自分というモノのどうしようもない悪鬼の存在を自覚せずにはいられなかった。

これから先、俺はずっと肩書きを背負って生きて行かなくてはいけない。それが、南無阿弥陀仏の一言で、全てが許される程人の世は甘くないというぐらいは、こんな俺にもわかっていた。

だからきっと何か、もっと酷い責め苦というか、修練というか、何かあるはずに違いない、と俺は思っていた。

こんなにエキサイティングな毎日が続いて、それじゃさよなら、ってなに喰わぬ顔してまた元の生活って、それじゃ、智春や桜子と一緒じゃないか。

そこに、お遍路、という何か得体の知れない凄いモノがあったんだ。

四国を一周?観光でもなく、ただ祈る為に寺を巡る?罰ゲームでもないのに?

もちろん、ちょっとした観光気分で、とか、どうでしょうの企画で、というものがないわけではなかった。というか、それがなければ多分、お遍路にも興味は湧かなかっただろう。

でも、逆を考えてみたんだ。もしこうして、俺がこんな所に囚われの身にならなければ、お遍路なんて、四国一周なんて、そんな時間がこれから先あるのか?どうでしょうでしか見たことのない四国。その姿を全部、一気に見る事なんて出来ることがあるか?

これはチャンスかもしれない、と俺は思ったんだ。

多分、罪を償う為にお遍路でも、というのは、少なくとも今の俺には有効な理由になる。

別に何を期待するのでもない。実のところ、罪の償いとか、これっぽっちも思ってやしない。でも、旅に出るのは悪くない。それには理由がいる。目的がいる。

それが目の前に転がり込んできた、と思えばいいじゃないか。

俺はそれから少しずつ、お遍路に関する情報を集めて、同時に空海の伝記を読み、真言宗の本を漁った。

案の定、俺は自由になってこのプランを話すと、誰もが賛成してくれた。親も行って来れば、で済んだし、あの保護司の冴えない老人ですら、いい事じゃないか、行って来いよ、と言ったのだ。

俺の周到な計画は、俺の思惑通りに運んだ。

あとは俺の背中を押すだけだ。でも、なかなかそれは、俺の重い腰を上げようとはしなかった。とりあえず暖かくなるまで待とうとか、持ち前のめんどくさがり屋が俺を狭いこの部屋に閉じこめた。

そしてやっと、俺は朝になって、その一歩を踏み出すことにした。

俺は半ば興奮と不安な面持ちを抱えて、ベッドに横たわっていた。

 

国八十八カ所巡り、というのは、意外に俺の性に合っていた。

ひとつひとつ、寺を巡って決まった所作をした後に、納経といって、その寺々の書印をもらう。そして次へのルートをしばし考え、おもむろにクルマをスタートさせる。その繰り返し。

俺のようなめんどくさがり屋で、半ば旅行気分のヤツが、歩いて寺を巡るわけはない。俺は家からクルマで高速を飛ばして四国に入り、それからクルマを寝床に、巡礼を続けていた。

ルーティンワークとはいえ、寺の距離が決まっているわけでもなく、その途中に観光地だ温泉だ、とあれば寄ってみたくなる。最初の一応思い描いていた日程など、二日目に吹っ飛んだ。

車の中で一夜を過ごすことも、今は簡単なコトだ。コンビニは何処にでもあるし、道の駅は各所に完備されているし、公共浴場だってコインランドリーだって、お金さえ出せばいくらでも利用出来た。自民党政治に乾杯だよ。

何か強い願いを、とか、言い訳のハズだった贖罪とか、いつの間にか何処かに行って、というかそれは当初から何処かに追いやる予定ではあったのだけど。そんな感じで俺はのんびりと旅を続けていた。

不思議なモノで、女性の存在も、道連れの音楽も、何かを得ようとする欲望も、何もない旅なんて、俺には初めてだった。

ただ寺を廻るだけ。

何かを待ち望んで、例えば旅先での出逢いとか、神秘体験とか、そういうのを期待していないワケじゃなかったけど、そのうちにどうでも良くなった。

自分が楽しむ為、というのも少し違う。でも、何かを感じながら、俺はただ、旅を続けていた。

そこにあるモノを、見て触れて感じる。そのことの偉大さ、といえば大袈裟?でも、そうやって感じるのは、時間だ。いろんな層をなす時間だ。もっといえば、自分との時間のズレだ。過去と現在が交錯するような、異様な時間の中に、俺は放り込まれてアタフタしているような、奇妙な焦りを感じていたんだ。

それは多分、最初のウチは初めてのことに慣れることで忘れていた。でもそれは、わりと免疫が出来ていた。そのうち慣れてくるとそれが面白くなってくる。速く次の寺へ、と歩を進める。アッという間に夜が来て、その日はエンド、となる。

気が付くと、そうして残りの寺が少なくなっていくのだ。俺は消化した寺のことを考えながら、いつかこの旅が終わることを想像していた。

よっぽどのことがない限り、それは必ず終わりが来るのだ。いつしか、俺はその終わることに強く集中していた。

正直、怖かったのだ。

寺っていうモノはそこにあって、明日もそこにあるはずで、いつまでもそこにあるような気がする。

俺はそこを走り抜ける。一度立ち止まっても、そこは途中でしかない。

そこに時間のズレを感じるのだ。なんだろう、この切なさは。

クルマで走るのがいけないのだろうか?

途中のうどん屋で、歩き遍路の俺よりは十も若い青年と話した時、やっぱり歩きですよ、なんて言われた。俺には無理だよ、なんて言うと、イエイエ、一度は歩いてくださいよ。歩けばわかります、なんて。

でも、俺には多分、そんな勇気はない。

別の寺で、ある夫婦に声をかけられた。これから何処へ廻るの?なんて。徳島で夫婦で喫茶店をやっている、というそのお二人は、もう三度も廻った、という。休みの日を見つけて一県ずつ、集中して廻るのだ。その夫婦は、クルマで廻っていて、半ばお遍路が趣味、といって笑っていた。

でも、俺は旅自体にそれほど強く惹きつけられるモノを感じているわけではない。

バイクで廻っている、という青年とは、何度か寺で顔を見かけているウチに、仲良くなった。交通機関が似ていると、だいたい同じ時間に着くのだ。バイクの荷台に、キャンプ道具一式積んでいた。昨日は波の音を聞きながら寝てました、なんてはにかむ。

でも、俺にはそんなアウトドアの趣味はない。

俺はそこでふと気が付いた。

俺は帰る場所、家に思い焦がれていた。

俺はふと、あの夜の晩、後にしたあの部屋を思い出した。バンドが解散することを心に秘めて、大介に連行されるようにして出ていったあの部屋。

あそこは別に居心地のいい場所ではなかったけど、それでも、そこには俺の信じていたルールがあった。

そこに帰れば、俺はいつでも自分に戻れた。

どんなに疲れて帰っても、思い悔やんで帰っても、幸福の絶頂のような顔をして帰っても、そこで俺は俺の思いを俺自身でかみしめることが出来た。

それが今、とてもあやふやなことに、俺は気が付いた。

何処にも、何も、足場がない。

それは心の中にあって、気が付くと、自分の宝箱と言うべき部屋を染めていた、あの音楽という存在さえ、俺の手元にはない。

ルールも潰え、それを支えたテキストもない。

そういう雲の上を歩くような、おっかない気分を味わったのは、これまで生きてきて初めてのことだった。

それが、幾ばくかは肯定されるのが、旅ってヤツなんだ。だから俺はまだ、この旅の中で居続けることで、安息を感じることが出来るのだ。

でも、この旅もいつか終わる。それは約束されている。

この茫漠とした不安の中で、終わる、ということが幸福なのか、どうなのか、俺にはまだ決断出来なかった。

何物もない、ということは、どちらにも転べるって事だ。

それが幸福なことなのか、そうではないのか、俺にはわからない。

いつかはそれを待ち望んでいたはずなのに。

でも、俺には次第に、その自分が帰るべき場所、というものがイメージ出来るようになっていた。

また逆に考えればいいのだ。

ココではない何処か、今ではない何時か、置いてはいけない全てのモノ。

でも、それが明確な像を結ぶには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 

れでも道は続く、と俺が作った歌の中にそんな歌詞があったような、無かったような。

でも、まだ俺は高知の中心部を外れた辺りでアタフタしていた。これほどクルマで走って、これほどに迷ったことはないってぐらい、道に迷って迷って迷って。もう一番苦手だったUターンでさえ、お手の物。

だいたい、修練の場であるお四国巡りなんだから、寺がクルマでスムーズにいける場所にあると思う方が無理がある。だいたいが、山の上、道を逸れて田圃の中。

それにしても迷いすぎ。落ち着く暇もありゃしねぇ。

高知市内のいくつかの寺を抜けると、今度は海岸沿いに閑散とした道路を走る。今日は良く晴れて、景色は最高だ。この旅を始めて二日目で大雨を喰らった。それ以来の快晴。

元々海沿いの街で育ったせいか、山の中よりも、青い海を見ている方が、何処か落ち着く。クルマで走るなら、やっぱり海沿いのハイウェイだよな。

でも、四国はどっちかっていうと山ばかり。それも、くねくねと細い道が続く。それは、俺程のどうでしょうマニアなら、事前に了解済み。

でも、な。

逆に何もない道を走り続けると、それはそれで退屈になる。いつの間にか、助手席には、かけては止め、かけては止め、したCDが散乱しているよ。そこに地図やら、遍路道のガイドブックやら、名物の饅頭やら、ケータイの充電器やら。

何度か桜子とクルマで旅をしたけど、当然だけど、隣には桜子が座っていて、そういう手に負えないモノを隣にポン、なんて事はなかった。当然、運転している最中に黙っていることもなかった。

桜子と旅をしていると、いつも泣きの一日、っていうのがあった。例えば連休が三日あるとすると、旅の予定は二日で帰ってくる算段を着ける。最後の一日は、お互いに次の日仕事だから、家でユックリ、という思惑で。

それを俺はいつも、もう一泊、とゴネた。せっかくの旅が、終わってしまう、というのがなんだか寂しかったんだよな。

旅っていうのは、歌を作ったりとかしているのと違って、全てが消費で終わってしまう。あそこへ行って、次にここへ行って、と予定を消化している内に、時間だけが過ぎていく。だいたい、行きたい場所なんて、駐車場から歩いて、その前に立ってみると、ああこんなモンか、で終わる。

もちろん、想い出とか、目に焼き付く風景とか、そういうモノが残るにしろ、使ったお金に対する、何か、が手元に残るという実感がない。

それでとても、何かもったいない時間を過ごしてしまった気がして、帰り道は寂しさに包まれるのだ。

そして泣きの一泊。

今日という日が終わりの一日だと思っていたのが、まだ旅の続きに変わる。それだけで、何か得した気分になる。

不思議だけど、それで俺は満足するのだ。消費だけの旅が、何か有意義な旅に変わるのだ。

そして、その一泊を、お互いに半分わかっていて曖昧なまま残しておく。俺はそのれを手に入れようと頑張るし、桜子もその口説き文句を楽しんでいる。それが俺たちの旅の楽しみでもあったんだ。

それに比べて、今は、本当いうと旅程は金の続く限り自由で、たくさんのめんどくさいことからはかけ離れているはずだった。何より、俺が明日を決めることが出来るんだ。

でも、それはそれで退屈だった。

自分でなんでも出来るって事は、別に何もしなくても好いっていうことでもあって。本当の自由なんて、実は退屈きわまりないんだ、って俺は実感していたんだ。

一応寺巡りなんてしているからさ、そういう神秘的なモノとか、道徳的なモノとか、そういうことを感じたいと思っているのはいる。

でも、それよりは、この旅の意味は、もっと自分を知る、っていう事に尽きるんじゃないか、なんて思うわけだ。

自由であるって事は、実はどんどん自分の中にダイブしていくことなんだよな。そういう時って、だいたいが好いところよりも、あんまり直視したくないところばっかりを見つめることになるんだよな。

そういう意味では、八十八カ所巡りって、良く出来ているよ。どんな方法で廻っても、自分と向き合うことに関して、この長大さと、得体の知れない御利益と、不思議な魅力には事欠かない。

俺はなんとなく、ぼんやりと、最後の自分の姿を想像している。

結局は、なんにも変わらないんだろう、ってね。

考えることなら、別に自分の部屋で一人ぽつんといれば、誰だって考えるサ。こうして寺を巡らなくても、と思う。

元々、何かに変わろうとか、何かを得ようとか、そういうことも曖昧だ。

そりゃ、人生バラ色、みたいな想像はするサ。

でも、それが俺にとっては、ワガママとの境界が曖昧で、どれもが金儲けとは繋がらない。

つまりは、普通に生きていく、っていうモノとは無縁なんだよな。

一応、どん底まで墜ちて、そこから這い上がろう、というのがこれからの俺の目標のハズなんだけど、そうではない何か、を俺は求めている。

這い上がった先が元の場所でした、っていうのがね、どうも信用出来ないんだよ。

元の場所に戻ってどうする?また音楽やるのか?同じ事の繰り返しだぜ。

誰かまた彼女でも見つけて、なんて。それもまた同じ事の繰り返しだぜ。

適当に仕事して、なんて。それもまた同じ事の繰り返しだぜ。

全部を知っちゃっているんだよ。俺がその先どうかなるかなんて、だいたいが予想出来るんだよ。

それが必ず叶うとは限らないけど、でも、大勢には変わりがないんだよ。

結局、八十八番目の寺はそこにあって、別に八十七カ所目の次に廻らなくても、そこにあるって事なんだよ。

意味がないと、遠回りすることも出来ないんだよ。

そのちっちゃなちっちゃな意味を、俺は今毎日なにがしか見つけて、明日に繋げているんだよな。

そして、明日は、だいたい決まっている。ガイドブックがそれを教えてくれる。

でも、今はそれしかすることがないんだよな。

そうして、俺は海沿いの道を走る。山の向こうに太平洋が見える。次のお寺が、近づいてくる。

 

三十六番、青龍寺は、辺鄙な場所にある。まぁ、お遍路道の中ではありふれた寺だ。

まるで寂れた幼稚園の運動場のような駐車場に、クルマを停める。

助手席の背もたれにかけたお遍路グッズを入れたバッグを肩にかけ、そこに寝かせてある杖を持つ。

社務所が見え、傍らに手水場がある。その先に門に続く長い石段が見える。

すっかり慣れた、参拝作法に則って、まず手を洗う。そして顔を上げる。

続く石段の中腹に、門があり、その先にもずっと石段は続いていた。頂上は見えない。

それほど急、というわけではないが、かなりの労力を必要とするのはわかる。

俺はふと、思い立った。

とりあえず、あの門までは一息で上ろう。

四国を一周するという巡礼の旅も、今では観光バスで巡ることが出来る時代だ。確かに道は細いし、この寺のように階段が続いていたり、困難はあっても、それが必ずしも苦労、とか、根性で登る、とかいうのとは少しばかり趣が違う。

第一、俺はわりとお気楽に廻ろうとしかしていない。どうしても叶えたい強烈な願意があるわけで無し、深く入り込んだ信心があるわけで無し、罰ゲームでもない。

スタンプラリーみたいなモノ、といわれればムッとするが、事実変わらないのかもしれない。

そこら辺アヤフヤ。

だから、時々、こういう自分に何かを課して、敢えてこの旅を苦労で装おうとする。

別に休み休み登ったって、誰に怒られるわけでも無し、何かが得られるわけでも無し。

つまりは、演出だ。自分をプロデュースしているに過ぎない。

ということは、先に何があるのか、どういう結果をもたらすのか、半ば思い描いている姿がある、って事だ。

自己満足、それに尽きる。

つまり、俺は随分と退屈していて、この旅に投じている自分を恥じていて、ジコケンオーを背負っていて、そしてそれこそが、今の俺そのものだという事に辟易しているって事なんだよな。

まぁ、イイさ。子供じみていても、何もしないよりはマシ、という便利な言葉もある。

俺は一歩を踏み出し、十数段上がっただけで、息が切れる。

それでも、門の前まで辿り着く。

作法として、ココで手を合わさないといけない。その為に立ち止まるだけで、ココを休憩地とはなにがなんでも思わないことにする。

それでも、俺は門を愛でるフリをして息を整える。デジカメを取り出し、写真なんか撮ってみたりして。

また振り向いて、景色を愛でるフリをして、三枚程。

でも、俺はまた足を踏み出す。まだ頂上は見えない。

でもな、一度決めたことは最後まで貫き通すのが、普通の社会では美徳とされている。そう子供の頃から教科書に書いてあった。今でも、その教科書はあちこちに転がっている。全く迷惑な話だ。

そして、俺はまた階段を上る。もうすぐに、息が切れる。耳がおかしくなる。手すりを持たないと、昇れない。

上から読経の声がする。数人の年老いた遍路姿の団体が、ユックリと足下だけを見つめて降りてくる。

すれ違いながら、こんにちは、と声を交わす。

俺の声はすっかり息切れしている。

その内の一人が、もうすぐですよ、頑張って、と笑う。

あぁ、頑張るサ、それがお遍路だろ?苦労しないとな、苦労しないとな、苦労しないとな。

背負っているモノがなにもないのに、ただ苦労を演出して、俺は自分に酔っている。

それにしては、俺の身体はすっかりヒヨワになっている。

ああも部屋でゴロゴロしているばかりでは、それも致し方なし。

塀の向こうから帰ってきて、何をしたかって、再インストールと、旅の準備だけ。後は本当にゴロゴロしていたよな。

身体が外の空気になれていない、と実感する。木漏れ日がまぶしい。

汗が噴き出て、俺はまだ身体の機能が十全に機能していることを感じる。そう、俺は病に悩んで廻っているワケじゃないんだぜ。

悩み、ってもの自体、漠然としすぎて、俺は半ば拒否している。

悩むこと、すら、もうどうでもいいと思っていて、悩むだけ無駄、それなら何かしていればいいじゃん、ということを知っている。

どんなに悩みを抱えても、それを克服しようとしても、結果はあまり変わらない。それは、自分の思い通りにはならない、って事だ。

じゃぁ、俺はあのバンドを解散しよう、と告げたあの夜、本当はどうしたかったんだ?何を悩んでいたんだ?

イヤ違う。何を悩む必要があったんだ?

結果が同じなら、簡単な事じゃないか。やつらを切ってしまえばそれで好い。逃げも隠れもしなければいい。ハイ解散、って言えばそれで良かっただけじゃないのか?

じゃあ、何かボタンを掛け違ったことを悟ったその瞬間、俺はこの階段を上れば良かったのか?

桜子を殴るまえに、大介に青龍寺に行け、といえば良かったのか?

それは正解でもあり、間違いでもあるような気がする。

俺はここに来る為に、俺という時間を費やす必要があったんだ。

解散、ということを意識したと同時に、俺は自分の中の音楽に対する純粋さや姑息な部分、友人と集って奏でるということの意味、それが巻き込んだ周囲の思惑、その中心にいた自分。全てを悟る為に、フラグメントが見え始めたんだろう。

その為にさよならは用意されていたんだ。

最終的に桜子を殴って、俺は今この人間として最低、という肩書きを背負った。

それは四国をグルグルと回ったって消えるモノではないし、俺は一生それと付き合っていく覚悟をしたんじゃないのか?

俺は何にすがっているんだ?俺はただ、退屈をぶち壊す為だけにココにいて、ここからまた何処かに行って、いつまでも同じ事を繰り返すのか?

あと十段。本堂の屋根が見える。

俺の息はもう切れ切れ。筋肉が張って、関節が悲鳴を上げている。

身体の痛みはいつか癒える。桜子の傷は、一生残るかもしれないが、俺がこの階段を上りきったとしても、それは変わらない。

俺は俺以外の何物と、付き合っていこうとしているんだ?もう一度何かにしがみつこうとしているのか?

頭の上で青空が広がる。もう頂上は近い。

俺という身体は軋んでいる。俺という存在は希薄に堕している。俺はいつの間にか、自分というモノと向き合うことに、恐れと羨望を同時に感じている。

俺の足下に過酷な石段が続いている。それだけだ。

それももう終わる。もう後一歩。

俺は頂上に着いた。目の前に本堂がある。右手に手水場があり、その清らかな水が、今は恋しい。

俺は肩で息をする。なかなか、整わない。

だが、視線は周囲を見渡した。

そして、そこに、俺は意外なモノを発見したのだ。

 

ぉ、ってなもんで、手を上げたヤツがいた。ちょうどそいつは、俺と待ち合わせたように、そこにいた。

ちょうどお遍路の観光バスに連れられた一団が、本堂の前で読経を上げていた。見渡す寺の風景にぽつんと、ストーンズのベロTシャツが際立って目立っていた。白装束の中の、真っ赤で攻撃的な印象。

大介だった。

俺は息を整えながらも、次にする動作を考えていた。まずはろうそくと線香を出して、数珠を手に持って。イヤ、その前にとりあえず座ろう。どっかベンチはないか?

そこに大介が座っていた。悠々とタバコなんか吸いながら。

まるで昨日も会ったような、何気ない表情だった。大介と会うのは、二年ぶりだ。捕まる前に最後にあった一般人がヤツで、それ以降、罪を背負った人間か、正義の名の下にお金を稼いでいる人にしか逢っていない。そう考えると両極端だな。

大介は立ち上がって、こちらに身体を向けた。俺はよろよろと歩き出し、隣りに座り込んだ。

「何してんだよ」

息が荒いし、そういえば俺は随分と会話らしい会話をしていないから、辿々しい発声だった。この旅で幾人かの人と話はしたが、自然に無理をしない会話は初めてだ。イヤ、自由の身になってからは、最初の会話といっても差し支えない。

「待ちましたよ。って言うか、探しましたよ。って言うか、さすが俺、って感じですか?三日ほどネ、ここら辺かな、ここら辺かな、っていう所を巡ってたんですけどね」

そういって笑った大介は、ベンチの傍らにある灰皿にタバコを押しつけた。そして、俺の目の前にしゃがみ込む。砂利の地面に尻を下ろす。

俺は膝にひじを突き、俯いた。なかなか息が整わないばかりか、立ちくらみがして気分が悪い。その俺を、大介はのぞき込むようにしてみていた。

笑うなよ、と気を取り直して言ってみる。

「何があったか知りませんけど、哲也さんがお遍路なんてね。お経なんて読めるんですか?

「バカにするなよ、俺は刑務所でちゃんと勉強したんだよ」

ウソです。最近はちゃんと般若心経を書いた、携帯用の小さな冊子がある。それを読んでいるだけで、ここに来てやっと詰まらずに読めるようになった所です。

「それにしてもやっぱり変ですよ。哲也さんとお寺ね・・・」

と大介はお遍路の集団を振り返る。それはね、俺だって思っているよ。俺って者を、周囲の誰も知らないから、こうして白装束を着て、金剛杖を持っていれば、誰もが頑張ってるね、元気で歩みなさいよ、と声をかけてくれる。その声に会釈を返しながら、クルマに戻って申し訳ない、と思うわけだ。歩きじゃないんですよ、とね。

実は俺っていう人間は、反社会的で、反抗的で、でも小心者で、ワガママで、なんていうね、自分の事を知っているのは自分だけなのだ。それをね、ある種の神聖な場所に似合わない事を、自分自身が恥じてしまうんだよ。

俺は本当は、ここがいるべき場所じゃない、って事ぐらい、知ってンだよ。

「アレですか?やっぱり、桜子さんの事、気にかけているんですか?

俺はようやく落ち着き、顔を上げる。

そういえば、気にしていないと言えばウソになるが、どうでもいいとも思っている。それよりは違う何かに苛まれているような気がする。

自分?

「俺は見事に前科一犯。社会的にどん底に落ち込んだ人間だよ。贖罪の旅なんて、当たり前じゃないか」

「そうは見えませんよ。哲也さんは、どっかで自分を楽しんでるように見えますけどね。イイ旅じゃないですか」

理由、か。俺が反社会的でいる意味。俺が反抗的な理由。俺が小心者の理由。俺がワガママな理由。

贖罪っていうのは表向きの理由で、自分の中にはたぶん別の理由がある。でも、その理由が、俺にはなんとなくぼんやりとしか掴めていない。それが酷く不安なのだ。

確固たる自分の行動の理由付け。俺はそれをずっと続けてきた。それがあるから、俺は俺でいられるような気がしていた。

でも、あの桜子を殴った瞬間、イヤ、その前にバンドを解散すると決めた時から、理由を探し求めて、探せないまま感情だけが走った。気が付くと、感情だけが支配する世界にいた。感情を肯定する世界だ。

嬉しければ、嬉しい気分でいて、イヤな事はイヤだと思う。その理由なんて無い。そう感じるからであって、その感情がわき起こる理由を考える前に、物事が進んでいく。

それだから、俺は目の前で自分の思い通りにならない事が次々に起こるたび、例えば、裁判長が懲役一年六ヶ月、と言った後に、イキなり判決理由を述べ始めた時とか。執行猶予って言葉を期待していたのに、裏切られて、言葉なんか耳に入らなかった。

泣きたかったが、俺は直ぐに次の事を考えないといけなかった。えっとぉ、まず拘置所に行かないといけないから、ここをこうしてアレをこうして、ここがこうなって。イヤだな、という思いだけがそこにあっても、俺はどうする事もできず、抱えたまま現実に対処するしかなかった。

逆にそこからは、感情を露わにする事を否定された。感情ってヤツは、理由如何以前に、押さえつけるモノだって。それだけの事をしたんだぜ、反省しろよ。

その反省ってヤツは、何だ?感情を押し殺せば、正しい道が歩めるっていうのか?

違うだろ?改悛の情ってヤツも、感情の一部だぜ。

好きとか、美しいとか、素敵だとか、愛しているとか、大事なコトじゃないか。そしてそこにはちゃんと理由がある。

俺はたぶん、その整合性をまだ、全然見いだせていないんだ。

理由が、言い訳とか、建前とかのまま、宙ぶらりんで俺の口から放り出されているだけだ。

そんな経験は初めてで、そういう自分がどこか楽しいのかもしれない。それはあの刑務所の一室で、緊張感を常に抱えつつ、どこか楽しんで暮らしたようにね。

でも、そんなんじゃ、世間で上手くはやっていけないんだろうな。

「歌ってないんですか?

出し抜けに、大介はそういう事を聞く。なんだかしばらく見ないウチに、ヤツが随分と大きくなったというか、落ち着いたというか。お遍路している俺より、ずっと悟ったような何かを感じる。

そして、そういう人の言葉は辛辣だ。悟りきっていない人の方が、感情が揺れまくって、自分を省みようとするから曖昧で、暖かみがある。

「俺は音楽は捨てたよ。刑務所の中で、っていうか捕まってからずっと、音楽やってました、なんて一言も喋らなかったよ。だってよ、あそこは飛び出しちゃならん所なんだよ。飛び出して目立つと、だいたい良くない事が起こる。バンドやってました、なんて、あそこじゃ全然役には立たないんだよ」

世間でもね。

「じゃぁ、又やればいいじゃないですか。今なら、別に音楽やってました、っていっても大丈夫でしょ?

「それを知っているヤツがいるから、ダメなんだよ。俺はもう、音楽とは無縁の、普通の人間になるんだよ」

普通って何だ?

「信じられませんよ。哲也さんが音楽捨てちゃうなんて。アレはドラッグと一緒でね、必ずフラッシュバックが来るんです。それで無性に、やりたくなるんですよ。法律で禁止されていない分、オサラバするのは難しい」

そう思えるほどに、俺は音楽っていうモノに執着し続けてきたのか?そこも又、俺のウィークポイントなんだよ。がむしゃらに音楽、音楽っていってきたワケじゃない。まぁ、俺の名刺代わりみたいな所があって、とりあえず、お嬢さんとの小粋なトークのとっかかりで、俺はギターが弾けるんだ、歌も歌っているんだよ、どうだい2人きりでカラオケでも、なんてね。

事実、俺は桜子と、普通の生活ってヤツに憧れた時期だってあったんだ。智春とか鈴木や上島が上手く立ち回っているんだ。俺にだって家族ってモノに憧れを持って、夢を描いたってイイじゃないか、ってね。

でも普通って何だ?その頃は、智春とか、鈴木とか、上島とかが営んでいた、仕事して、嫁のゴキゲンとって、子供の世話をして、っていう毎日がずっと続くって錯覚できる生活だよ。その傍らに音楽がちょこっとぶら下がっているようなネ。

でも、俺には無理だとも思っていた。誰かのコピーは、本人を越えられない。きっとそれ以上の夢を描こうとして失敗するだろう。それで捨てるには、その普通の生活ってヤツは、撮るに足らない夢の最優先にある。っていうか、あった。

今更普通の生活、ってヤツも無理になった。っていうか、それを望んでいたのかな。

何かが潰えた時に、どこか遠くへ飛んでいきたくなる。

そこが、後戻りのできない世界であるほど、後腐れが無くて、思い煩う事がない。そっちの方が楽でいい。

それに狂うか、社会からはみ出すか。俺は後者を選んだ。

目の前にその潰えた普通の世界の延長がいたんだ。桜子だね。

そいつをぶっ壊すと、もう本当に後戻りはできないし、なにより周囲の誰もがそれを望まないようになる。

それを俺は望んでいたんだ。

「音楽が俺のすべてじゃない。そういう生き方もあるんじゃないか?そうしないとダメ、って散々言われたし。可能性ってヤツだよ」

ふん、と大介は鼻で笑う。背後の団体が、読経を終えて、ぞろぞろと大師堂の方へ移動する。風がさぁっと境内を一陣、駆け抜けた。

「まぁ、二年もあれば、人は変わるもんだよ。おまえだって、なんだか、落ち着いて見えるよ。あの頃のおまえとは、違って見える」

顔かたちはそのままだけどね。

俺は数珠やらろうそくやらを入れてあるセカンドバック、というかこれまたお遍路の必需品で、ズタブクロとか何とかいうヤツなんだけど、そこからタバコを取り出して銜えた。

俺に分けてくれません?と大介がいうから、一本取り出して手渡した。ちょうど切れちゃって、と銜えた所へ火をかざしてやる。ろうそく用の、チャッカマンだ。

「俺、変わったように見えるんですかね?自分じゃわからないけど、変わってないような気がするんだけど。そうなのかなぁ」

砂利の地べたに後ろ手を着いて、大介は空を見上げる。タバコの煙を、空に向かって吹き上げる。

ここでそういう罰当たりな事をしてはいけないよ。

 

れから一度だけ、智春さんたちとミーティングをしましたよ」

そんな過去の話に興味はないよ。といえばちょっとウソになるので、俺は無反応に黙って聞いていた。

「哲也さんが捕まって、一週間ぐらい後だったかなぁ。上島さんに呼び出されて、行ったらみんな集まってて」

お遍路の集団が、また読経を上げ始める。こういうツアーには先達、というガイドが着いていて、その人の合図で一斉に般若心経を読み始める。まぁ、それが主の目的であるハズなんだが、どっちかというと頭の中は後何寺廻れるか、という事が気にかかっている。バスツアーにスケジュールは重要だ。

大介は、うるせぇな、なんて具合にちらりと集団の方を見る。だから罰当たりな事すんなって。

「ヒドク暗い顔してましたよ。こっちが笑っちゃうぐらいね。やっぱりなんだかんだ言ってても、友人同士なんだな、なんてね。でも、結論は、バンドも解散した事だし、しばらくは様子を見ようっていうか、まぁ、あっちから連絡があれば対処するけど、こっちからは特段何をするわけでもない、って感じで」

こっちから連絡を取るつもりはさらっさら無かったから、これでバンドも、友人関係もジ・エンドだ。

「俺はね、帰りの車の中で、バカだなぁ、ってね。最初、捕まったってね、新聞載ってましたよ」

知ってる。

「何が何だかわかんなくて、だって、哲也さん下ろした直ぐ後でしょ?何か変だなと思ってたけど、ビックリしましたよ。別世界に行っちゃうんだものね。で、結局みんなが集まって話したって話はかわんなくて。桜子さんを殴って哲也さんが捕まった、ってだけでね。で、なんかそこから進まないんですよ」

俺一人が突っ走っていたってコトだな。かのキース・リチャードも言っている、走らされる前に歩けってね。

「で、走りながら、バカだなぁ、なんてコトしたんだよ。バカだなぁ、バカだなぁ、バカだなぁ、ってずっと思ってたら、なんか笑えて来ちゃったんですよね。おかしくて、おかしくて。ホントに笑っちゃったんですよ」

俺は大介を見た。大介は何事もなく、淡々と、笑っていた。

「別に、哲也さんを褒めるつもりはないですけどね、たぶん叱るのは別に人がやってくれるだろうし。結局二年もあっち行っちゃったし。でもね、俺はなんか、そこまでできネェな、って言うか。するつもりもないんだけど、でも、俺にはできないな、って」

それは褒めてんのか?それとも貶してるのか?

「俺にはできない事をするのが、哲也さんなんですよね。俺は楽器も上手くないし、唄も歌えない。だから、哲也さんがバンド、シャカリキにやって、曲作って歌って、っていうのは憧れでしたよ。その端っこで見ていられたから、それだけでよかった。桜子さんを殴るのは、別に羨ましくはないけど、やっぱり俺にはできないンスヨ。やっぱり」

結局は、かつての俺を褒めて、今の俺を貶す、と。なかなか巧妙なやり方を、身につけたな。

「おもしれぇな。単純にそう思ったんですよね。かっこよくはないけど、この人の傍らにいると、飽きないな、って。実はね、あれからずっと、バンドのない生活、ってヤツが始まって。当然、哲也さんもいないから、バンドもちょっと縁が切れて。自分でやろうとは思わなかったですしね。それで、なんか味も素っ気もない生活が始まっちゃったんですよね」

読経の合間に、軽やかな鈴の音がなる。息を合わせるように、チーンとね。まぁ、それは現代で言えば、ラップのスクラッチみたいなモノで、俺にとってはそれは心地よいモノだった。

そうなんだよな、俺の中に今、合いの手がないんだよな。

「気が付くと一年経ってて、朝仕事に出掛けて、昼飯喰って、夜寝る、っていう生活ですよ。タマに彼女にあってね、なんだか遊んでいるような、生活の延長のような、でも、連休には旅行に行って、ちょっとソワソワしたりとか。気が付くとね、それをどんどん食いつなぐっていうか、橋渡しっていうか、飛び石で何とかやっている、みたいに思えてきて。漠然と、その間の長い長い普通の日々ってヤツがですね、退屈に思えてきたんですよ」

俺はふと、その悟ったような表情の行き着く先に、誰もが通る葛藤の面影を見たような気がした。でも、それは普通の人生なら、とっくの昔に酷服している、とされているモノで。でも、それが今更、という具合に降りかかってきているのは、たぶん俺も同じ。俺はどこか、先祖がえりしているような、またカヨ、っていうような、そんな気分に苛まれていたんだな。

「やっぱり何かしないと、ってね、思ったんですよ。何かっていっても、俺には音楽が好き、っていうのか、クルマの運転が好き、っていうのしかないから、どっちかですよね。でも、クルマは別にどうでもイイっていうか、みんな同じところに落ち着きそうでイヤだったんですよ」

南無大師遍照金剛、ちーん。で長い沈黙。皆、思い思いの願いを募らせる。そういえば、俺は何を願っていたんだっけ?

「やっぱりバンドだな、って。でも、どうするベ?って。ギターとか手に取ってみたりとかして、あの哲也さんにもらったフェンダージャパンのテレキャスとか。でも、弦なんかサビちまってて、使い物にならない。やっぱり、俺はどっかのバンドのサポートが一番向いているよな、なんてあらためて思ったんですよね。裏方なんですよ」

それを押しつけたのは、俺だと思っていた。俺は最初に大介にあった時から、ちょっとしたローディーのように扱っていて、ギターっていうのはな、とか、レコーディングの時はこのフェーダーをこう上げるとな、なんていう事ばかり話して、やらせて、結局話し相手が欲しかったんじゃないか、なんて思った時もあった。

ふと、レコーディングの最中に、ガラスの向こうのヤツを見る時に、こういう立場に追いやったのは俺のせいで、本当はヤツこそがこっちにいたいんじゃないかな、と不安になる事があった。人一人の人生を、無理矢理変えちまったんじゃないかな、なんて柄にもなく。

でも、大介は良くやっていた。レコーディングの技術はぐんぐん上手くなったし、曲作りの時に打ち込みのサポートとしての相棒としては最高だった。ライブのリハーサルでは客席でじっと見ていて、卓の方へいって細かい注文を出していたりする。本番は、バンドの四人のローディとなり、ギターの交換や、上島が落としたスティックを絶妙のタイミングで差し出すことまで、迅速にこなした。

俺たちは歌う事、演奏する事に集中できた。その場を絶妙にサポートしてくれたのが、大介だった。

俺は時々、おまえもバンドやれよ、と言ってみた。大介は笑って、手一杯ですよ、哲也さんたちのお守りで、と言った。

「だから、俺はバンドを捜してみたんですよ。ちょっとドキドキしました。哲也さんたちとはね、友達同士が集まって、ってごく自然に役割分担ができて、俺も与えられた役割に違和感がなかったんですよ。でも、さすがにね、アマチュアのサポーターなんてね、俺もどうして好いのかわからないし、例えバンドに会いに行ってもね、向こうも何?って感じでね。全然噛み合わないんですよね」

はははっ、と大介は笑った。自嘲気味に顔を逸らしたが、でも、別に不満はないようだった。

「だけど、いろいろと動いているウチに、ちょっと面白いヤツを見つけたんですよ。女の子のスゴク上手いボーカリストでね。どっかの学祭で歌っていたのかな?俺が会うはずのバンドの対バンで出てて。それでね、まぁ、どうせっていう気持ちでね、ちょっと声をかけてみたんですよ」

「下心、あったろ?

また、ヤツは顔を逸らして、ハハハと笑った。そして、哲也さんじゃないですよ、と言った。

「とにかく歌が上手いんだけど、バックと噛み合っていないのがわかったんですよ。嫌々じゃないんですけど、どこかすれ違っているというのか、違和感っていうのか。哲也さんたちがね、それぞれバックグラウンドに違う音楽が控えていても、どこかで繋がっているモノがあって、それが一体感に繋がっていたんですよね。それをずっと見ていたから、なんか敏感になっちゃってて」

そういえば、ブログに載せるからヨ、ってんで、それぞれが好きなアルバムを三枚ピックアップしてくれ、って頼んだコトがあった。ミーティングの時に、それぞれが持ってきたCDはバラバラだった。80年代のハードロックあり、最近のディーバモノあり、誰それ?いやぁ、知る人ぞ知るなんだけど外せないんだよな、なんてモノまで。バラエティに富んでいたよ。

「俺の目には、その子が充分に自分の歌っていうモノを生かし切れてないな、って思っちゃったんですよね。じゃぁ、俺に何ができる?あぁ、俺んちにはレコーディングする機材があるぜ。打ち込みのテクニックとソフト。あの子が曲を書けるンなら、俺にだってできる事はある」

「で、引っかけた、と」

「スカウトしたんですよ」

「声をかけて、ちょっとお茶飲まない?俺さぁ、プロデューサーやってんだよね、ってちょっと大きく出て、何これもしかしてプロの歌い手になれるのかしら、なんていう乙女の心を上手く利用して、AVに売り渡す、と。その前に、一応規則だから、ってんで折って畳んで裏返し、と」

だから、哲也さんじゃないですよ、と大介。お遍路さんが、またぞろぞろと移動を始めた。

「俺は誠実さをアピールして、その時はケータイの番号だけ渡してね。その後に連絡があってからは、ちゃんとね、彼女同伴で面接しましたよ」

さすが巧い。これで、両者に向けて誠実さを示した事になる。俺にはできなネェな、そこまで頭が回らない。そうやっておけば、信頼ってヤツが転がり込んでくる。それさえ味方に付ければ、後は折って畳んで裏返し・・・。

イイよな、自由の身は。そういうドキドキする瞬間だけは、さすがに刑務所にはなかった。あるのはAV女優のピンナップばっかりで、それもモザイク入りだ。自己主張する胸はたくさん見飽きたけど、ね。

「で、その子は曲、書けたのか?

一応ね、と言って、大介は振り返った。後ろはぞろぞろとお遍路さんが騒がしく歩いていく。その様子を、じっと見ていた。

最後の一人が階段を降り始めると、代わりに境内には静寂って風が吹き込んだ。それほど強くはないので、日差しがそれを包む。

「でもね、なんか違うんですよ。いろいろとね、思うところと実力っていうか、嗜好と技術は両立しないモノで。好きだから歌いたいんだけど、声にあっていないとか、メロディは綺麗なんだけど、声質でド〜ンと暗くなるとか。俺自身もね、アレンジとかなんか巧くないんですよ。哲也さんたちの時は、ギター中心だったから、他の音に気を遣わなくて良かったんだけど、さすがにね、打ち込みでどういう風にアレンジしていくかって、俺には才能がなかった」

俺たちはだいたいが、ほとんど俺のアレンジが基本だった。ギターのリフを俺か智春が考えて、ベースとドラムを着けていく。それを四人であわせてみて修正する。レコーディングになるとちょっと他の音を、っていう時にはだいたい知り合いのピアニストを呼んできた。こんな感じでよろしく、パパッと完成。

「本当に俺は裏方だぁ、技術屋だぁ、って呆れましたよ。プロデューサーって凄いですよね。リック・ルービンでしたっけ?演奏できないし、レコーディングの卓がどうとかって全然知らないのに、レッチリとか、凄いアルバムをプロデュースするなんて、センスだけでしょ?敵わないですよ」

俺たちの悪いところは、プロもアマチュアも関係ないというところだ。同じ地平で物事を考える。何故彼らがプロでお金をもらっていて、俺たちがアマチュアなのか、という線を敢えて曖昧に飛び越えている。

「でね、また挫折かぁ、なんてね。ちょっと落ち込んでた時にね、思い出したんですよ」

大介は俺を見た。エ??

「そろそろ出てくる頃だな。社会復帰」

ホントに、俺?

「哲也さんなら、この状況どうするだろう、ってね」

嬉しいような、でも、それはどうだかなぁ、という顔を、俺はしてみる。感情とか、よりも、頭で考えて、俺は表情を作る。作ってみる。

大介はじっと俺を見ていた。

 

、おもしろがって作った曲があったじゃないですか。俺と宇多田ヒカルのデュエット曲だ、って酔っぱらって作った曲。サビなんかでハモったりとかして、歌詞はお互いに好きだぜベイビーみたいなヤツを着けようぜ、なんて。これで俺と宇多田はスキャンダルだぜ。って桜子さんどうするんですか、って聞いたら、そっちは本妻、宇多田はアバンチュールとかって」

昔のバカ話だ。そういう話題にはけっこう事欠かないが、あくまでも過去の話だ。俺はもっとシリアス、なんじゃないかと自分では思っている。少なくともこの境内にいる俺は。

「それをね、その子に聞かせてみたんですよ。そしたら気に入ったらしくて、歌ってみたいって。で、俺は考えたンスよ。哲也さんをね、この際呼んでみようってね。あれから全然連絡無いし、俺とも逢う気はねぇのかなぁ、なんて思ったけど、俺にもできる事がある」

大介はそこで一呼吸置いた。俺は身構える。

「哲也さんの社会復帰に、一役買おうってね」

そう言って大介は笑った。

俺はすかさず、鼻で笑った。

「男に面倒見てもらうほど、俺は落ちぶれちゃいないよ」

取って返して大介は笑顔を崩さない。

「イヤ、もう充分落ちぶれてますよ。バンドを放り投げて、女の子殴って、それで挙げ句の果てに前科者ですよ。充分に落ちぶれてます。最低の人間ですよ」

大介はそう言うと、立ち上がった。親子連れのお遍路さんが、階段を上ってくる。大介はその子供の方をじっと見ていた。同じように、俺もじっと見ていた。その子供の方が、どう見ても高校生ぐらいの女性だったからだ。

後ろ姿を追った後、大介は俺の隣りに腰を下ろした。

「真面目な話をしますよ」

?今までのって真面目じゃなかったの?

「俺、哲也さんの社会復帰を手助けって、本当言うとそれほど深く考えた訳じゃないんですけどね、でも、そうやって哲也さんの事を思った途端に、なんだか嬉しかったんですよね。ドキドキしたっていうか、久しぶりに、ワクワクしたんですよ」

オメェはマダマダだな。男のコトを考えてワクワクするなんて、子供のする事だ。でも、俺も今自分が大介の言葉にどこかで希望を探している事を、自覚していた。

俺は落ちぶれちゃいない。まだもっと、が何処かに残っている。上にも、下にも。

「俺には手の平を返す勇気ってヤツがないです。仕事を突然辞めるとか、女の子と別れるとか、それぐらいでドキドキして普通じゃいられませんよ」

あぁ、それは俺はもう済ませたなぁ。

「ましてや、自分を賭けて転がり落ちるとか、人生棒に振るとか、言葉にすればかっこいいかもしれないけど、俺には無理ですよ。普通にちゃんとお金を稼いでね、結婚してね、子供育てて。そういう夢を持っていたいですよ。他人と同じになりたいですよ」

俺だって、そういう道があれば、そうしたいと思っていた。でもなんだろう?俺の中にそれをできる能力が無いというか、考える回路が無いというか、別の道が見えているっていうか。とにかく、俺には無理なんだよな。

「でも、哲也さんを見ているのは、面白いっす。なんかね、ネタに事欠かないじゃないですか。バンドやっているだけでも、話題豊富なのに、それに満足してないっていうか、どこまでやるんだこの人?って感じで」

随分な言われ方をしているのはわかるよ。でも、それがホント、俺なんだよな。

「だったらね、俺はずっと哲也さんを見ていたいんですよ。破滅するんならね、とことん破滅して欲しいですよ。俺にできるのは、その一部始終を見ていて、最後に骨を拾ってやることぐらいしかできないんですよ」

俺は舞台で踊り続ける。おまえはその最前列の観客席にいたいってコトだな。そのチケットは高く付くぞ。

「でも本当は、そのいまわの際でね、俺の手を掴んで深い闇の中に引きずり込んで欲しいんですよ。哲也さんのせいにしてね、俺も墜ちていくんですよ。それがね、俺の夢なんですよ」

なんだか女の子に告白されているみたいな、気恥ずかしさを俺は感じる。貴方の目が好き、とか言われてそっと手紙を渡されるような経験が、あったような無かったような。

「俺って一番タチの悪い人間なんですよ。誰かにしか夢を託す事ができない。他人任せなんですよ。だからね、いつかはみんな離れていく。そして、それがとても怖いんですよ。最前線で生きたいっていう夢を持っていて、自分はそこに行けない、っていう事を知っていて。若気の至り、ってあんまり好きな言葉じゃないですけど、そういう時期もとっくに過ぎちゃったし」

俺はやっぱり子供なんだな、と思う。思考が何処かのある時点で止まっている。そこをいつも堂々巡りしている。そして巡ってくるたびに、酷く酷くなっていく。

俺はそんなサークルから逃げ出したいんだ。俺がもっとも強く望んでいるのは、そのことで、それは実は自分じゃない誰かになることなんだよ。

それは憧れってヤツで、本当は他人にはなれないんだ。隣の芝生は青く見えるってヤツでね、俺んちの庭は俺にしか造れないんだよ。

大介が今語っているのは、それと同じ事で、そういう自分を受け止めるのも正しいし、そこから飛び出す事も必要だと思う。

でも、よりによって、俺なのか?

「俺はそうやって、ここに哲也さんを捜しに来ました。実家に連絡してみたら、お遍路に出て今四国にいるって言われて、いろいろ調べて、アタリを着けて、ようやく会えました。全然知らない道を走ってるんですけどね、随分と楽しい旅でしたよ。あぁ、なんでこんなにワクワクするんだろう?ってね」

俺は正反対だ。常に、首を傾げながら旅をしている。それはまさに、俺とおまえの今の状況だよな。

俺はここへ来る事に疑問を感じながら、でも先へ先へと急いでいる。

大介はここに来る事が目的で、ここから先へ進もうとしている。

好対照と言えば、好対照。でもな、その先にあるモノが、同じとは限らない。大介の言う、深い闇の底が、俺と大介が同じとは限らないんだよ。

「ちゃんと戦略っていうかね、俺は久しぶりに夢ってヤツを持ったんですよ」

「夢?

大介は静かに頷いた。

「いつかね、ストロベリークラブの再結成ライブをやりましょう。それまで、哲也さんさえ歌っていればいいですよ。智春さんとか、復帰するとは思えないですけどね。これでギター止めちゃうかもしれませんしね」

俺は頷く。そこには俺の奇妙な希望があった。

俺は十中八九、もう俺以外のやつらが音楽に戻る事はないだろう、と思っている。でもどこかで、依然としてバンドをやり続けて、いつか同じ地平の上に立って、またケンカするのもイイ。手を取り合うのもイイ。いずれにしろ、同じ土俵の上で、白黒つけたい、という思いがあった。あくまでも妄想の世界だ。

そして王様の夢を見ている。

「それでも好いんですよ。俺にはそういう目標があれば好いんです。その手始めに、手を着けられるところから手を着けていく。それで、俺はここに来たんです。哲也さんにもう一度、歌ってもらう為にね」

ふぅっ、と息を吐いて、俺はベンチの背もたれに背を預けた。小さな背もたれから、俺ははみ出す。

かまわず空を見る。高知の空は青い。

「その壮大な夢だけど、それは実現不可能な夢でもあるぜ」

「わかってますよ」

即答。

「でも好いんですよ。俺にできる事、俺が描ける夢は、それで好いんです」

俺は空を見続けたまま、思いついた事を口に出した。何故か、久しぶりに、自然に声を発しているような気がした。

「俺さ、刑務所行って思ったんだ。ストーンズのアルバムに、インファミーっていう歌があるだろ?キースが歌うヤツだよ。アレってサ、悪名、っていう意味なんだよな。刑務所行く前に、ケーサツで辞書借りて調べたんだ。あぁ、俺にも立派な悪名が付いたな、って」

俺は一度伸びをして、再び座り直した。

「それから俺はずっとそのことを胸に置いておいてサ、そっから流れのままに漂ったんだよ。するとサ、周りはみんな俺と同じ名札を着けたやつらばっかりで、で、そこでうだうだ考えていても仕方がないんだよな。ここ以上にサ、酷い場所っていうか、悪いコトして受ける罰はないだろ?だからいつまでも何故あんなコトにとか、もうちょっとこうすれば、なんて思っても仕方がないんだよ」

「それは、開き直る、って事ですか?

「そう、その通り。自分の置かれた状況ってヤツを、開き直って楽しめば好いんだよ。自由になってもサ、その名札は付いて廻るわけだし、もうどんなコトしようが構わないんじゃないか、ってね。まぁ、二度としないとは思うんだけど。でも、なんか姑息に、チマチマ考えるのもばからしいって、それよりは、実現不可能なくらいデッカイ夢を見た方がイイ、って思ったんだよ」

「アブなネェな」

ふん、と俺は笑った。確かに、それをいかに真剣に開き直れるかで、それから先は変わる。まだ、今度は見つからないように、なんて考えているヤツは、中にいっぱい居た。でも、俺は、どっちかというと、それよりは先を見たかった。

「好いんだよ。おまえと一緒だよ。夢を見るんだよ。デッカイ夢をな。例えば、日本初の大統領とか、ハーレムを作るとか。その夢が決まれば、後は方法だけだ。そこに至る、道を進むだけだ」

そして、失敗したらまたここに来ればいい。要はその夢を、ちゃんと見る事だ。

「その夢が再結成ライブでイイじゃないですか?

大介は晴れ晴れとした顔で言う。でも俺は、そっぽを向く。

「ちっちぇよ」

なんですか、と大介は呆れた顔をした。

「いつかミックの抜けたストーンズに、華々しく加入して、キースをバックに従えて東京ドームで凱旋ライブをやるんだよ」

俺が言い放った途端、大介は火が点いたように、笑い出した。腹を抱えて、本当に可笑しそうに笑う。

思いつきだった。今の今まで、考えた事はない。ミックのようになりたい、と思った事は何度もあったが、憧れを飛び越える事はなかった。口から出任せみたいなモノだったが、でも言った後に、それも悪くない、と思った。

「それじゃ、まだまだですね。哲也さんにまだブルースは歌えませんよ」

笑いを引きずりながら、大介はそう言って、また声を出して笑った。

「この二年で人生経験ってヤツは、相当深まったぜ。なかなか一般人にはできない経験だぜ」

「・・・でも・・・やっぱりもうちょっと、ミックには頑張ってもらわないと」

それは同感。今はまだ、俺自身が、俺の歌うサティスファクションよりも、ミックの歌うサティスファクションを聞きたい。

相変わらず大介は笑ったままだった。それはしばらく続き、親子連れがこっちを訝しそうに見ていた。

「とにかく、哲也さんは歌わないといけないってコトですよ」

まだ笑いはくすぶっていたが、気を取り直して、大介はそう言った。

そうかもな、と俺は短く返事をした。

 

介をベンチに残したまま、俺はこの寺で決められた作法を行った。イヤに胸が高鳴っていた。

般若心経を唱え終わった後に、しばらく目を閉じて、願い事を胸の中で呟く。

これまでは、元気で仲良く、とか、世界平和とか、それぞれの寺で思いつきで祈っていた。

でも、今は、何故か願いをこめる気にはなれず、ずっとミックの代わりにストーンズで歌う夢を見ていた。当然、そこから導き出せる願いは、俺にブルースが歌えるように、だ。

本堂を終えて、大師堂でも同じ事を繰り返す。いつの間にか、境内で頭を垂れているのは俺一人になっていた。大介は階段脇のベンチで、俺の背中を見ていた。さほど珍しそうにも感じないらしく、でも視線は外さない。また逃げ出すとでも思ったのか。

そういえば、俺はあの時、大介からは逃げ出したように見えたかもしれない。最後までゴネ続け、大介の言葉には耳も貸さなかった。

それでも、こうして俺の背中を追っかけてくるという事は、大介に感謝すべきなのか?それとも、自分に自負ってヤツを持つべきなのか。

ふと、初めてストーンズを見たときのことを思いだした。キースが俺の隣りに駆け寄り、おまえは何も間違ちゃいネェよ、といったあの日だ。その時の事は何故か、今でもハッキリと覚えている。

それまで俺には過去を全肯定された事はなく、自分が何をしているのかの判断さえ曖昧だった。

何をしようとしているのかもぼんやりとしていて、フワフワ浮いたような状態だった。

あの時ガツン、と目を覚まされて、それ以来ずっと音楽ってヤツにぶら下がってきた。それが大介と別れた瞬間に、潰えた。というか、自分で壊した。キースのあの言葉さえ、自分の手でもみ消したようなモノだ。

幻想を、自分の言葉でしっかりと、アレは夢だよ、マボロシだよ、と言い聞かせたのだ。

それは現実に擦り寄るには、正当な行為だが、現実に希望も夢も何もなかった。あるのは荒れ地のようなずっと真っ直ぐに続く平坦な道だけで、それはどこへ行っても同じだった。みんなこんな道を歩いているの?それで満足か?

そんな風に、俺は思ったモノだ。それは高校を辞めた時とか、ストーンズに出逢った直後とか、同じように思ったような気がする。

でも、俺は代償として、その道を歩かなければいけないと思っていた。

音楽は俺に、輝きをもたらす。その気になれる。他人の目はどうあれ、自分が今、世界の中心にいるという事を本気で、感じさせてくれる。

そのマジックは今でも信じている。でも、俺は躊躇していた。それがもたらすモノを、自分で放り投げてしまった、罪の意識だ。

それが俺にとっては、一番辛い。

大介はそこに現れた天使のようなモノ、なんて考えたくもない。俺は俺自身の人生を俺の手で切り開く。その代わりに、代償も俺自身が被るんだ。

今のままだと、将来何かあった時に、おまえのせいだ、と大介に責任を転嫁させそうで、それが怖いのだ。

俺は捕まってから、いろんな事を喋らされた。事件に至る経緯を話す内に、結局ここ何ヶ月間の詳細な道を、思い返す事になる。それは別に、悪くない作業だった。

でも、ある日、初老の検察官にこう言われた事がある。

「貴方は自分の事しか喋りませんね。まるで、自分が世界の中心かのようだ」

俺は言い返した。

「だって、俺は俺が見た事しか喋れません。他人に何を押しつけるわけにも、人づてに聞いた話を確かめる術も持ち合わせていませんから」

俺がやった事は、全部俺の責任だ。誰かに押しつけるつもりもないし、事実、誰かに責任転嫁できるような事件じゃない。

その時俺は、俺らしいな、と思った。

だから俺は、自分を責め続けた。罪が目の前にある時に、誰かに対して許しを請う事はなく、自分の罪を恥じて、後悔して、自分を責めるのだ。

ヒトリヨガリとか、ジコシュウシンテキとか、自分でもそう思う。

でも俺の人生だ、好きにはできないけど、俺はすべてを自分で受け止める度量ぐらいは持ち合わせていたい。

例え逃げ続ける人生でも、だ。

大師堂の前で、俺はやっと、こんな俺でも生きていく価値はありますか?と呟いた。

願いでもなく、祈りでもなく。

もちろん、そんな事に、例え弘法大師様でも応えてくれるはずはない。

だよな、と思う。オメェは他人任せではなく、自分でなんでもやるって決めたんだ。それが結局は間違っていても、そう決めたからには、破滅の道でも走っていけ、俺に聞くなよ、ってなもんだ。

そうだよな。

 

べての作法を終えて、俺は大介を促して、また階段を下り始めた。最後に書印をもらう納経所は、石段の一番下。

階段を下りながら、俺は大介にこんなコトを聞いた。

「他人に対する仕打ちで、一番酷い事って何かわかるか?

大介は即答。

「殴る事ですか?やっぱり暴力はいけない」

イヤミなヤツだが、穏和で諍いの嫌いな大介の本音かもしれない。

「殴ったら、痛いだろ?痛いってコトは、相手が見えるってコトだ。その時は相手を憎めば済む。憎むという感情で、本人は癒されるんだ。それはとても幸福な事だよ。相手が何か、罰を受けたり、最後は死んでしまったりすれば、思いは晴れるからな」

先ほど死にものぐるいで上った階段も、下る時には、汗が心地よい。風を感じる。俺たちは一歩一歩、確かめるように時間をかけて、階段を下りている。

「本当はその逆だよ。忘れてしまう事だよ。忌まわしい過去とか、許し難い存在とか、忘れる事で仕返しをするんだ」

ふと、桜子の顔が頭に浮かんだ。

今彼女は、じっと俺と過ごした時間をすべて、無かった事にしているのだろう。傷がどういう風に癒え、どういう跡を残し、何がどう変わったのかは、俺には全然見当も付かない。

でも、これだけはわかる。俺を憎むにしろ、何か理解しようとするにしろ、事件という大きな事象の前後を、かき消す事で、なだらかに続く人生というモノを継続に向かわせているはずだ。そこで、俺、という存在がない方が、連結はスムーズになるに違いない。

そういう努力を、桜子はしているはずだ。

「だけど、どうだろう?人間にそれは可能だと思うか?

俺は大介の横顔を見た。大介は手すりに手を滑らせながら、少し考えて、言った。

「時間はかかるんじゃないですか?でも、いつか忘れた、って言って良いレベルまで、追い込む事は出来ると思いますよ」

「それにしても、時間はかかるよな。濃密な時間がそこにあった時ほど、それが果たされる時間も長くなると思うんだ。その間、ずっと苦しみ続けるってコトだよ」

たぶん、大介も俺と同じように、桜子の顔を思い浮かべているはずだ。

「でもそれは、結局自分の為っていうよりも、他人を貶める為の行為なんだろうと思うんだよ」

俺は何度も想像した。

事件を起こした後に、目の前に桜子が現れて、私の人生をどうしてくれるの?と問いつめられたら、その時こそ本当に俺は、ただ謝るしかない。そして、俺は一生、自分の為ではなく、桜子の為に、生きる事を費やすだろう。

俺にとっては、そっちの方が何倍も辛い。

他人の為に、ずっと自分を犠牲にするなんて、俺にはできっこない。絶対に逃げ出す。でも、逃げ出しても追いかけられるだろう。惨めな逃亡者として、俺はずっと他人の為に人生を棒に振るんだ。

それは耐え難い。

だから、結局刑務所に入るなり、それで罪の代償になって、そこを出れば一応は自由。あんたの人生は、あんたが勝手にしなさいよ、って言ってくれたのは、俺にしてみればありがたい事だった。

俺にしてみれば、申し開きする事もなく、また体現する必要もなく、自分と向き合っていれば好いだけなんだから。

むしろ俺は、ラッキーだったと思うのだ。

まぁ、自分が一番やっかい、というのも事実だが。

「他人の事を思い煩って、苦しみ続けるって、なんか、哀しいっていうか、度し難い行為だとは思わないか?

ふん、と大介は笑う。

「桜子さんが聞いたら、今度こそ本気でやられますよ。それは犯罪者の論理だ。何もなければ、苦しむ事もない」

「それで、ダラダラと、曖昧な時間が続くのか?そっちの方が、酷い事だと、俺は思うけどな」

未練という言葉が、俺は一番嫌いだった。未練を感じるのも、感じられるのも、どちらもイヤだ。

だから壊す。今あるモノを壊す。

壊して新しいモノを作る。何度も繰り替えせば、それだけ堅牢なモノが出来るはずだと思っている。

「人は生きていく為に、ずっと長い時間を費やす。自分が中心の時も、他人が中心にある事もある。その中で、せめて自分が中心の時間が長い方が、ずっと面白い」

でも、と大介は言いかけたのを、俺は押しとどめた。

わかっている。

俺たちはしばらく、階段の中腹で立ち止まった。

「俺がやった事は悪い事だ。それはわかっている。でも、そこに至るまで、俺以外に悪いヤツはいなかったのか?俺は無実だ、ってその場にいた人間で、胸を張って言えるヤツなんかいるのか?どんな状況にしろ、関わりを持っていて、無実だなんて言えるほど、人は無責任にはなれないと思うけどな」

さよならはちゃんと用意されている。その席を他人が用意するのか、自分で見つけるのか、その答を、俺はまだ見つけられてはいない。

「俺は、全部ひっくるめて、忘れない事にした。いろいろと、おまえも含めて、いいたい事は山ほどある。俺にしたって、あんな奴等の事や、桜子の事や、その他いろいろな事、忘れたくて堪らないんだよ」

大介はじっと俺の目を見て、黙っている。

「だから、俺は忘れない事にした。イヤってぐらいに心にひっかき傷を着けて、イヤでも忘れない事にした。それがせめてもの、俺の償いだよ」

俺は足を踏み出した。身体がガクン、と下がる、自然と次の足が出る。そうやって一段一段、階段を下りる。

下りていく。

何も変わらなくても、時間は過ぎていく。過ぎていくなら、その一歩一歩を、ちゃんと覚えておいた方がイイ。

「それはつまり」

後を続くようにして下り始めた大介。

「いずれにしろ、これからもずっと生き続ける、って事でしょ。生きる為に、歩いていくってコトでしょ」

俺は返事をしなかった。

大介の言った事は間違いだ。それは、死ぬまでのしのぎみたいな事で、死ねばそこで終わるってコトだ。生き続ける為に心に傷を付け続けるのではなく、いつか止める事を思い描くってコトだ。それまでの間を、俺は受け止めたい、と願っているだけだ。

石段を下りきったところに、小さな小屋があって、それが納経所だ。そこには、先ほどの親子連れが腰を下ろしていた。傍らに、大きなナップザックが置かれている。父親は汗を拭い続け、子供の方は涼しい顔で、そよぐ木々を見つめていた。

俺は軽く会釈をして小屋の中に入った。

 

まえクルマ変えたのか?

大介の車は、俺の隣りに停められてあった。全く気が付かなかったが、確かに、同じ県ナンバーだ。暗い色のノーマルなワゴン。家族連れがよく乗っているヤツだ。

「あれから二年も経つんですよ。車ぐらい換えますよ」

俺は肩にかけたズタブクロや、杖を助手席に放り込む。白衣も脱いで、運転席のシートにかける。

それから、タバコに火を点けて、大介と話した。

ひとまず旅を終えてからの事を、いくつか話した。俺にはまだ、生活の基盤を立て直さないといけない、という作業が残っている。それからの事は、あまり深くは考えられない。

だが、とりあえず、大介と再会し、そのボーカルの女の子と会って、歌ってみる事だけは約束した。

「だけど、その後の事はどうなるかわからないぜ」

俺は、ただ、歌うという事に興味は湧いたが、歌い続けるという事には、まだ躊躇があった。

俺が歌うという事、それは以前の俺に戻る、という事だ。

その帰結が、塀の中の暮らしならば、それを今肯定してしまって好いのか?という疑問を拭えないでいた。

俺の中にある罪の意識が、俺に向かっている以上、その決着を何かの形で付けないといけない。

せめて今だけは、なし崩しというのが、一番忌避すべきコトのように思えた。

「大丈夫ですよ。俺は哲也さんがそう簡単に、人が変わるなんて思ってないですから」

「俺はこうして、寺を巡っているんだぜ。大願成就を願ってだな・・・」

わかったわかった、というように大介は手を振った。

「こんなコトしたって、変わりませんよ。根っこのところで哲也さんはずっと同じ人です」

バカにして、と悪態吐くと、大介は挑むように質問を投げかけた。

「じゃぁ聞きますけど、哲也さんが死ぬ間際に言う事ってなんでしょうね?

俺は絶妙の言葉を探して、逡巡した。だが、出てくる言葉は、自分でもあっけにとられるモノだった。

「そりゃ、未だに見ない女の名前サ」

ほらね、と言わんばかりに、大介は声を立てて笑った。たいして巧くもないジョークだな、とも思ったが、案外、自分なりの言葉かもしれない。

俺はこうして他人を錯覚させ、そして自分も錯覚していく。俺の人生は欺瞞に満ちている。

でも、最高の詐欺師、モンキービジネスは、人生を賭けるにはイイ商売だ。

「このあいだね、哲也さんにもらったギターを手にしたって言ったじゃないですか」

俺は頷く。

「アレね、弦が錆びてどうしようもないんですけど、弾くとね、ちゃんと音がするんですよ。濁っててもちゃんと鉄弦の音がするんですよ」

いくら錆びても、弦は弦、って事か。

俺は大介に言ってやった。

「だけど、切れたら終わりだけどな」

-END

最後まで読んでくれたご褒美に・・・  

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